太田述正コラム#12094(2021.6.21)
<藤田達生『信長革命』を読む(その27)>(2021.9.13公開)

 「<1578>年4月における信長の右大臣兼右近衛大将の辞官の理由として、「万国安寧・平均の時」に任官すると意志表明している。
 この表現からは、源頼朝の先蹤(せんしょう)に倣ったものとみてとれる。
 すなわち、常置の最高武官である右近衛大将を辞官した後、天下統一が達成されて将軍に任官することを表明したと解釈するべきであろう。・・・

⇒「万国安寧・平均の時」の意味は、藤田の解釈より、そして、もちろん頼朝の辞官理由・・京都にいるわけにはいかない(典拠省略)・・なんぞよりはもちろん、遥かに気宇壮大なものでしょう。
 すなわち、信長は、「世界平和・世界統一の時」まで再任官はしない、換言すれば、恐らく自分は、今後、生涯、再任官することはないだろう、と言っているのです。
 まず、「万国」は、「あらゆる国。地球上のすべての国。※続日本紀‐神亀元年(724)一一月甲子「亦有二京師一、帝王為レ居、万国所レ朝」 〔易経‐比卦〕」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%87%E5%9B%BD-606366
という意味です・・白状すれば、私にはこの例文の意味が今一つ判然としないけれど・・し、「安寧」は「穏やかにおさまり、異変、不安などがないこと。また、そのさま。安泰。平穏。※続日本紀‐霊亀元年(715)九月庚辰「頼二祖宗之遺慶一、海内晏静、区夏安寧」 ※平家(13C前)一一「仍年来の愁眉を開き、一期の安寧を得ん」 〔史記‐周本紀〕」
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%89%E5%AF%A7-429657
という意味ですし、「平均」は、「 平定すること。統一すること。「大明、韃靼を―し」〈浄<瑠璃>・国性爺<合戦>〉」
https://kotobank.jp/word/%E5%B9%B3%E5%9D%87-23195
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E6%80%A7%E7%88%BA%E5%90%88%E6%88%A6-64090#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 (<>内)
という意味、なのですからね。
 もちろん、以上は、藤田が「天下統一」の「天下」を「世界全部」の意味
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E4%B8%8B-577513
で使ってはいない、ということ、と、「万国」が「日本」を意味するような用法はない、という二つが大前提ですが・・。 (太田)

 本能寺の変が6月2日未明に発生したのは、決して偶然ではない。
 この日しかなかったのである。
 これについては、次の理由が考えられる。
 光秀の軍事力で信長・信忠父子を急襲し、政権を奪取することは可能である。
 しかしその軍事力のみでは、長期にわたって政権を保つことは到底不可能といわねばならない。
 したがってクーデター後、懇意な関係にあった長宗我部氏の軍勢が、早急に上洛して光秀に合流すること、これが新政権を維持するための必須条件だった。・・・

⇒またもや異なことを承るものです。
 「長宗我部元親・・・は<6月2日の本能寺の変後の>近畿の政治空白に乗じて再び勢力拡大を図り、宿敵であった十河存保を8月に中富川の戦いで破って、阿波の大半を支配下に置<き、>・・・9月には勝端城に籠もった存保を破り、阿波を完全に平定する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E5%85%83%E8%A6%AA 前掲
とはいえ、元親は、本能寺の変後の四国外勢力の干渉が殆どない状況下でも、本能寺の変から3カ月も経った1582年9月時点ですら、まだ、讃岐と伊予の敵対勢力と対峙しており(上掲)、畿内に出兵するどころの話ではなかったのですから、いくら光秀でも、そんな元親頼みだったはずがないからです。
 光秀の誤算は、細川藤孝、と、筒井順慶、とりわけ後者、が背いたことで決まりでしょう。
 そもそも、光秀が秀吉に敗れた山崎の戦いの時の両軍の兵力は、天下を争った戦いであった割には大したものではありません。
 秀吉側が27,000~48,000、光秀側が13,000~16,000、であり、しかも、秀吉側の「フロイスの観察によれば、高山・中川・池田の摂津衆に比べて、秀吉が中国地方より引き連れてきた兵はいずれも疲れていたという」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%A4%A7%E8%BF%94%E3%81%97
のですから、「18万石(大和の与力を合わせると45万石)の順慶と12万石の細川幽斎が味方しなかったこと<が>、その兵力の大きさで致命傷となった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%92%E4%BA%95%E9%A0%86%E6%85%B6
のです。(太田)

 クーデターの日程は、さらに重大な理由から決定された。
 それは朝廷から信長に示された将軍推任との関係である。
 その回答は、信長が西国出陣を控えた6月2日から6月4日までの上洛期間に表明される可能性があった。
 ここでクーデターの日程からいえることは、かりに信長が将軍職任官の意思表示をおこなえば、風聞は瞬く間に全国的規模で広がり、事実上、義昭の将軍職解任につながるということである。
 義昭の陣営に属した光秀が、信長に将軍職推任の意思表示をさせるわけにはいかないと判断したからこそ、6月2日に決定したとしか考えられない。・・・

⇒前述したように、この時点で信長が官職を受けることなどありえなかったのですから、仮に光秀が、信長への官職推任の動きをキャッチしていて、それが光秀の背中をクーデタへと押したとすれば、光秀はとことん信長という人物が分かっていなかったという他ありません。(太田)

 <また、私は、光秀が>将来に希望がもてなくなったまさにその時に、将軍<足利義昭>からの呼びかけがあったと考える。
 これに同意すれば、将軍を追放するほどの謀反人であり、伝統的な権威と秩序を破壊するような危険思想をもつ信長への謀反を、義挙として位置づけることができたからである。・・・
 本能寺の変直後に作成された義昭御内書を掲げよう。・・・
 〔読み下し文〕
 信長を討ち果たすうえは、入洛の儀急度(きっと)馳走すべき由、輝元・隆景に対し申遺す条、この節いよいよ忠功を抽(ぬき)んずる事肝要、本意においては、恩賞すべし、よって肩衣(かたぎぬ)・袴(はかま)これを遺す、なお昭光・家孝申すべく候也、(以下略)
 義昭は、信長横死という千載一遇の好機に臨んで、積極的に行動しようとしない毛利氏家中に対して命令する。
 本史料は、義昭が小早川隆景の重臣乃美宗勝<(注68)>(のみむねかつ)にあてて、「信長を討ち果たしたので、(私の)入洛について急いで奔走すべきことが肝要である」と指示したものである。

 (注68)「室町末期から戦国時代にかけて、浦氏は小早川水軍の主力となった。代表的な存在が、浦宗勝(乃美宗勝)である。宗勝は・・・忠海(ただのうみ)・・・に賀儀城を築き拠点とし<ていた。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%A0%E6%B5%B7

 自らが信長討滅に関与したことを告白している。・・・

⇒こんな後出し証文になど何の値打ちもありません。
 「直接の指令があったのかどうかも含めて、義昭の積極的関与を示すような証拠は依然として存在しない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E7%A7%80
で終わりでしょう。
 そもそも、こんな重要な「命令」を、毛利家当主の輝元宛に、いや、少なくとも、その重鎮たる隆景宛に、直接発出することさえ憚られた立場の義昭の犬の遠吠えに関心を持っても時間の無駄というものです。(太田)

 これまで度々指摘したように、信長の思想は当初から革新的だったのではない。
 それは対抗軸との相剋を通じて生み出されたことを、あらためて強調したい。」(110~111、213~215、218、226)

⇒そんなことはありえない、と、再度、強調しておきましょう。(太田)

(続く)