太田述正コラム#12100(2021.6.24)
<藤田達生『天下統一–信長と秀吉が成し遂げた「革命」』を読む(その3)>(2021.9.16公開)
「信長の軍事行動は、当初は伝統権威を利用して地域統合を進めていったが、やがて対峙・凌駕することを目的とするようになっていく。
秀吉も、天皇の政治を代行する関白としての立場を利用しながら天下統一戦を本格化した。・・・
⇒今後のオフ会「講演」原稿で明らかにするわけですが、官位に就くことに消極的であった信長、と、積極的であった秀吉、の違いに藤田が目を瞑っていること、そもそも、三好長慶と信長/秀吉の類似性に目を瞑っていること、を指摘しておきましょう。(太田)
尾張統一以後、清州・・・→小牧山・・・→岐阜・・・→安土・・・へと本城を移動させるたびに、信長は家臣団に引っ越しを強制した。
長年住み慣れた本領を捨てて、主君と運命を共有する軍団をめざしたのである。・・・
⇒ここは、信長の父の信秀も「本城を移動させ」ていった武家であったところ、同じことを「家臣団に・・・強制」しなかったのか、を、藤田に明らかにして欲しかったですね。(太田)
<その信長は、>本拠地移転を進めながら兵農分離を促進し、同時に戦国時代最長といわれる三間半(約6.3メートル)もの長槍や大量の鉄炮の配備を進めて軍隊の精鋭化を図る。
信長や秀吉は、天下統一を進めながら、軍人として純化を遂げた武士団が高度な軍事力を独占するようにしていったのである。
⇒ここは、異存ありません。(太田)
天下統一時代の日本では、村々からリクルートされた鉄炮隊や長槍隊を構成した足軽兵が決戦兵種とはならなかった。
戦闘で多様な飛び道具が大量に使用されても、・・・最終局面では武士による刀・槍を用いた接近戦で決着がつけられたのであり、
⇒日本の戦国時代を事実上終わらせたところの、1600年の関ヶ原の戦いは、両軍合わせて15万~18万人もの戦力で戦われた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
のに対し、欧州での30年戦争を途中で休戦に導いた1634年のネルトリンゲンの戦い(独:Schlacht bei Nördlingen)は、両軍合わせて5万8600人の戦力で戦われ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84_(1634%E5%B9%B4)
この30年戦争を事実上終わらせた最後の戦いであるところの、1648年のツスマルシャウゼンの戦い英:Battle of Zusmarshausen)は、両軍合わせてもわずか3万6千人の戦力で戦われた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%A6%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
のであり、このような数字を踏まえれば、少なくとも、当時の日本では、「村々からリクルートされた鉄炮隊や長槍隊を構成した足軽兵」が主力にならなくても、十分過ぎる戦力を確保できたと思われるのであって、必要性がさほど高くないものは重視されなかった、というだけのことでしょう。
この、日本と欧州との間の当時の動員可能戦力差の違いは、人口差、ひいては面積当たり農地収益力の差、に由来すると考えられるところ、ここでは、これ以上立ち入らないことにします。(太田)
しかも幕末の戊辰戦争さらには明治10年(1877)の西南戦争まで続く首とり・鼻そぎという戦いの習俗のために、軍功評価の対象も士分に限定されていた。・・・
⇒「戦国時代には首の代替として耳を切る行為が行われ<、>文禄・慶長の役<においても、>朝鮮半島においてみみきり・はなそぎが行われたことが知られている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%B3%E5%88%87%E3%82%8A
、と、江戸時代以降には、戦闘において「みみきり・はなそぎ」が行われなくなったことが窺えますが、「首とり」に関しては、戦国時代に行われていた、的な記述しか、すぐには見出せませんでした。
いずれにせよ、戊辰戦争のウィキペディアには、斬首刑は出てきても、首とりは出てきませんし、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%8A%E8%BE%B0%E6%88%A6%E4%BA%89
藤田が言及する西南戦争のウィキペディアにおいても同じであり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%8D%97%E6%88%A6%E4%BA%89
藤田は筆が滑ったようですね。(太田)
天下人たちに共通した足軽以下の雑兵への冷遇と一揆に対する殲滅作戦、すなわち民衆に対する排除と抑圧のうえに実現した天下統一とは、民主革命の対局に位置づけられることは明白です。」(14~17)
⇒前述したことに照らせば、「足軽以下の雑兵への冷遇」は、雑兵に対してはその必要性に見合った処遇がなされた、ということでしょうし、「一揆に対する殲滅作戦」は、「民衆に対する排除と抑圧」などでは全くなく、単に、「軍事力を行使して歯向かうカルトに対する排除と抑圧」に他なりませんでした(コラム#省略)。
なお、欧州とイギリスにだって、16~17世紀にはまだ民主主義だの民主革命だのなどどこにも存在しなかった(典拠省略)ことも付言しておきましょう。(太田)
(続く)