太田述正コラム#12110(2021.6.29)
<藤田達生『天下統一–信長と秀吉が成し遂げた「革命」』を読む(その5)>(2021.9.21公開)
信長にとって、最も恐れるべき存在であった武田信玄について言えば、1562年がいわゆる清須同盟正式成立年だとして、それは、この信玄が上杉謙信と戦ったところの、第4次川中島の戦い(1561年)と(最後の)第5次川中島の戦い(1564年)との間の時期ですが、武田信玄は、この4次と5次の間においても、関東で謙信ないし謙信の勢力と戦ったところの、関東出兵を行っており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%8E%84
その後も、この謙信が、1969年6月に、北条氏と越相同盟を結んで信玄との戦いを続けている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E7%9B%B8%E5%90%8C%E7%9B%9F
ところ、1568年9月に、既に信長は足利義昭と共に上洛を果たしており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%98%AD
仮に、清須同盟が成立していなかったとしても、信玄は、信長の領国に攻め込むことすらできず、いわんや、信長の上洛を阻止できたとは到底思えません。
また、その後に関しても、1572年に信玄が西上作戦を開始できたのは、顕如に要請して越中に加賀一向一揆を侵攻させ、越中一向一揆と合流させることに成功して、謙信を牽制できるようになったから
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E4%B8%8A%E4%BD%9C%E6%88%A6
こそである上、信玄は、清須同盟があったにもかかわらず、1568年に徳川家康と共同して今川氏の駿河に侵攻するほど、そもそも家康とは敵対的ではない関係を構築していた(上掲)こともあり、この西上作戦の時期を清須同盟が遅らせた、ということもまた、考えにくいと言わざるをえません。(太田)
「・・・信長の家臣団にはふたつの注目される特徴があった。
第一は、商人的家臣の存在である。・・・
これとも関連する信長家臣団の第二の特徴は、非嫡男や庶流家が多かったとみられることである。・・・
⇒ここは、なるほど、と思います。(太田)
元亀年間(1570~73年)を通じて朝倉氏は浅井氏や大坂本願寺と結んで「信長包囲網」を執拗に結成し、信長をたびたび窮地に陥れた<、とされてきた>。
<しかし、>最近の研究は、義昭が信長と明確に対立する時期を<1573>年2月のこととし、<義昭は、>こ<れより前>の段階の「信長包囲網」とは無関係だったとする。
これまで<1571>年に比定されていた武田氏の三河侵攻の際の関係資料を<信玄の1573年の死後の><1575>年のものとみなすことで、従来の<1571>年における義昭と武田氏ら反信長勢力との連携が否定されたからである。・・・
⇒藤田自身が、1572年の西上作戦を開始する時点では、まだ、信玄には上洛する大義名分となる、明確な義昭からの反信長蹶起要請、がなかった、ということを認めてしまっているところ、そうだとすれば、信長(や自分の父親である武田信虎)のような、革新的な人物ではなかった信玄が、室町幕府(義昭)と表見的には一体化していたところの、信長の領国に侵攻し、信長と戦うわけにはいかなかったはずだ、ということになるはずなのですが・・。(太田)
<1571>年の信長による延暦寺焼き討ちにより、天台座主の覚恕法親王(正親町天皇の弟)が甲斐へと亡命していることが注目される。
⇒「信玄は・・・織田信長によって焼き討ちされた比叡山延暦寺の関係者を保護し<た>」
http://www.museum.pref.yamanashi.jp/3nd_tenjiannai_06tokubetsu001_kohan.htm
けれど、覚恕自身が信玄の下に身を寄せたことはありません。(太田)
信玄は法親王を保護し、その計らいにより権僧正(ごんのそうじょう)となった。
⇒「法親王<自身>を保護し」たわけではありませんが、その点を除けば、その通りです。(上掲)(太田)
また<1571>年には武田–北条氏間の軍事同盟すなわち甲相同盟が復活している。
これらが、西上戦の前提だったことは確実である。
⇒甲相同盟も、あくまでも上杉謙信対策の一環でしょう。(太田)
<1572>年12月、西上する武田信玄に家康は三河三方ヶ原で完膚無きまでに打ちのめされた。
・・・<その>直後の<1573>年正月11日に上野秀政に宛てた書状・・・によると、信玄は信長・家康以下の「逆徒」を誅伐して天下静謐を実現することを義昭に誓っている。
⇒この場合の「天下」こそ、「畿内」でしょうね。(太田)
これに義昭が呼応するのは当然で、信長の脅威にさらされていた朝倉氏や大坂本願寺もただちに連携した。
したがって同年4月に・・・信玄が病死しなかったなら、信長の命運も尽き義昭の幕府が延命していた可能性は十分にあった。
信玄は天下をねらったのではなく、幕府体制の復興をめざしたのだから。」(29、31、44、46)
⇒「三方ヶ原で勝利した信玄<が>、すぐには三河に侵攻せず、浜名湖北岸の刑部・・・三河・遠江国境から20キロ手前に位置する地点・・・で越年した。」(上掲)のも、義昭側近に勇ましい書状を送ったのも、「年が明けて・・・1573年・・・1月3日、信玄は進軍を再開、遂に三河へ侵攻した。そして東三河の要衝である野田城を包囲<し、>・・・時間<をかけて>・・・降伏<させ>た」(上掲)のと同じ理由・・信玄の持病・・・が急速に悪化したため」とする説がある・・からだ、と、私は想像しています。
つまり、自分の病が悪化したことを隠すために、あえて勇ましい書状を出したのだ、と。
信玄には、一貫して、軍勢を率いての上洛の意思も、その前段として、表見的には室町幕府(義昭)と一体化していたところの、信長の領国に侵攻し、信長と戦う意思も、持ち合わせてなどおらず、西上作戦は遠江国だけの切り取りが目的だったのではないか、というのが私の見立てです。
いずれにせよ、信玄については、侮ることこそできないけれど、藤田のような誇大評価をしてはいけません。(太田)
(続く)