太田述正コラム#12112(2021.6.30)
<藤田達生『天下統一–信長と秀吉が成し遂げた「革命」』を読む(その6)>(2021.9.22公開)

 「・・・<1576>年から<1578>年にかけての西国における反信長勢力による戦闘は、従来は毛利氏などの単独の軍事行動とみなされてきたし、荒木村重の反乱も個人的な問題として理解されてきた。
 しかし、いずれも義昭の上洛戦の一環に位置づけられるのである。・・・

⇒義昭はもう終わっていて、前者は従来の通説が正しいのですし、後者は、コラム#12103に記したように、荒木らと信長の世界観の相剋が原因であるとみなされるべきなのです。(太田)

 信長が一度も参内していないことを藤井譲治氏があきらかにし、「信長自身が、天皇の上位に自らを置いていた可能性も十分想定されるのではなかろうか」と指摘した・・・」

⇒信長は、自分による日蓮主義の遂行が天皇家に累を及ぼさないよう、官職に就くことに消極的であっただけではなく、参内も行わなかった、というのが私の見解であるわけです(コラム#12014)。

 これまでも指摘されているように、主殿に楼閣を載せた奇抜な高層複合建築である安土城天主は、将軍足利義満の北山第(きたやまてい)の中心施設舎利殿(金閣)を意識し、巨大化したものとみられる。
 たとえば、両者ともに最上階が金箔押しの三間四方の禅宗様建築で、その軒には風鐸(ふうたく)(仏堂や仏塔の四隅などにつるす青銅製の鐘形の鈴)が下がっていた。

⇒外形だけで言えば、そうなのかも。(太田)

 異なるのは、シンボルである。
 舎利殿の屋根には、鳳凰が載っていた。
 これに対して安土城天主の楼閣一層目(五階)の外縁の高欄下の側壁には、遠目にも鮮やかに鯱(しゃち)と飛龍(ひりゅう)が、また六階の四方の内柱には、上り龍・下り龍が描かれていた。
 信長が好んだ龍は中国では皇帝の象徴だった。

⇒どっこい、「仏教では、釈迦が生誕した際に二匹の竜が清浄水を灌ぎ、成道時に七日間の降雨<で>釈迦の身を覆って守護した。また仏が毒龍を降伏させたり盲竜を治癒させるなどの多くの説話がある。また法華経提婆達多品では、八歳の竜女の成仏が説かれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%9C
ところ、信長の念頭には、支那の皇帝の象徴たる龍ではなく、釈迦が悟りを開いた際に助けた龍があった、と、私は考えています。(太田)

 龍に関連して、晩年の信長が自らの印章である「天下布武」印に、二頭の龍を縁取ったものを使用していることも想起される(現時点で十三個の使用例が確認されている)。・・・
 近年の山本浩樹<(注8)>(ひろき)氏の研究によって、<1580年の大坂本願寺との>勅命講和直後から信長が秀吉の頭越しに、毛利氏との停戦交渉を試みたことが明らかになっている。

 (注8)1962年~。「岐阜県に生まれる。1990年広島大学大学院文学研究科博士課程後期単位取得<。>・・・岐阜工業高等専門学校教授<を経て、>」
https://www.amazon.co.jp/%E8%A5%BF%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%88%A6%E5%9B%BD%E5%90%88%E6%88%A6-%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B212-%E5%B1%B1%E6%9C%AC-%E6%B5%A9%E6%A8%B9/dp/4642063226
竜谷大文学部教授。日本中世史研究を志すも、現在は日本近世史専攻。
http://www.let.ryukoku.ac.jp/teacher/yamamoto.html

 この新説は、これまで<1576>年に推定されていた5月12日付安芸厳島社人棚守房顕(たなもりふさあき)宛安国寺恵瓊書状・・・を、内容を吟味したうえで<1580>年に比定したことから導かれたものである。
 この書状からは、信長の意を受けた丹羽長秀・武井夕庵(たけいせきあん)から毛利氏に「操り(政治工作)の趣三とおり(通)」が示され、毛利氏側でも毛利輝元・小早川隆景の了解のもと<安国寺>恵瓊が和平交渉に乗り出したことが読み取れる。
 三通りの政治工作とは、輝元と隆景が宇喜多氏との戦争に専念すること、吉川元春の子息と信長息女とが婚姻すること、その見返りであろうか、足利義昭を「西国の公方」として承認することだった。
 これらを実現させるために、毛利氏重臣口羽通良(くちばみちよし)にも、近衛前久・勧修寺晴豊・庭田重保・松井友閑・村井貞勝から接触があったこと、明智光秀から使わされた使者が「何(いずれ)も宇喜多表裏者(ひょうりもの)(裏切り者)にて候間、せめて此方(こなた)(毛利方)を和談に調(ととの)われたき」との信長からの意向を披露したことがわかる。
 信長は、毛利氏と宇喜多氏との紛争に介入して、前者に荷担しようとしたのである。
 当時の信長は対毛利戦争の継続に積極的ではなく、対毛利戦主戦派の秀吉と宇喜多直家を交渉から除外するかたちで和平に持ち込もうと努力していたこと、したがって信長と秀吉が必ずしも一枚岩ではなく、織田政権の西国政策を体現するとみられてきた秀吉の地位が意外に脆弱だったことを、山本氏は鋭く指摘している。」(85、116~120)

⇒敵ないし潜在敵に対し、並行して和戦両様のアプローチをとるのは、ありふれた話であり、毛利氏に対しては、信長が、「和」の方は明智光秀に、「戦」の方は羽柴秀吉に、やらせていたようであるところ、それをもって、信長との関係で、光秀ないし秀吉の「地位が意外に脆弱だった」、などと言い出すのは無理筋というものです。
 なお、信長が、最終的に「戦」による決着の方を選び、自ら毛利攻めに向かおうとして安土から上洛した機会を捉えて、光秀は、信長に叛逆し、信長、信忠父子を殺害したわけですが、これもまた、信長が「戦」の方を選んだことにむくれた、ということではなく、世界観の相違から、はるか以前から叛逆する機会を光秀が窺っていて、たまたま、叛逆の絶好の機会がこの時に訪れたからだ、というのが私の見解であることは、ご承知の通りです。(太田)

(続く)