太田述正コラム#12114(2021.7.1)
<藤田達生『天下統一–信長と秀吉が成し遂げた「革命」』を読む(その7)/藤田達生『信長革命』を読む(その28)>(2021.9.23公開)
「・・・山本氏が指摘するように、光秀のライバル<の>秀吉は<、1580>年5月の時点で政治生命の危機に瀕していたのだ。
そこで彼は、中国取次としての立場を死守するために宇喜多氏と一蓮托生の関係を築いて、なりふり構わずに対毛利戦争を煽り、信長の中国動座を画策した。・・・」(126)
⇒具体的な説明は省きますが、秀吉が「なりふり構わずに対毛利戦争を煽」ったことを裏付ける典拠を藤田は提示できていません。(太田)
(続く)
–藤田達生『信長革命』を読む(その28)–
「・・・<本能寺の変/山崎の戦の翌年の1583>年9月・・・秀吉は・・・信雄の「天下」を簒奪すべく挑発的な行動を開始する。・・・
大阪城<(注69)>の築城<への>・・・本格的・・・着手<だ。>・・・
(注69)「一般には大坂城が豊臣政権の本拠地と解されるが、実際には1585年・・・には秀吉は関白に任ぜられ、翌86年・・・には関白としての政庁・居館として京都に聚楽第を建設して翌年の九州征伐からの帰還後はここに移り住み、更に関白を退いた後は京都の南郊に伏見城を築城して亡くなるまで伏見において政務を執った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9D%82%E5%9F%8E
<同時に、>来春には、大坂城下町に内裏をはじめ五山以下の諸宗派寺院の移転をおこないたいと、朝廷に遷都<(注70)>を要請したのである。・・・
(注70)「1583・・・4月の賤ヶ岳合戦に勝利し・・・た秀吉は、間もなく大坂に新たな居城構築を始める(大坂築城工事)が、・・・内田九州男<(前出)は、>1988・89年に相次いで発表した、羽柴(豊臣)秀吉による「大坂遷都構想」をめぐる一連の論考・・・を通じて「秀吉はこれと並行して大坂遷都を断行し、そのうえで自らが将軍となって大坂に幕府を開くという構想を持っていた。しかし、朝廷の招致に失敗したために将軍任官も大坂幕府開設も頓挫し、止む無く秀吉は関白となって同14年に関白公邸としての聚楽第を京都に構築することになる」としたのである。・・・
<しかし、>改めて大坂遷都論にかかわる根拠史料の再吟味を通じて検討したところ、大坂遷都、将軍任官、大坂開幕のことごとくがなり立たず、「大坂遷都論」は総体として成立しないことが明らかとなった。その結果を踏まえ、大坂遷都論の評価の上に立って秀吉の関白政権樹立に至る構想を明らかにしてきた横田冬彦の仕事を俎上に乗せて検討したところ、秀吉が大坂遷都を断念した理由が必ずしも明確でないことに加え、断念の最大の理由とする小牧長久手合戦の敗戦についても、そうした評価は早計で、むしろ長引く小牧長久手の講和を探るなかで、秀吉の視野に新たな政権構想として公武の頂点に立つ関白職を獲得するという方針が入ってきたと・・・いう積極的な評価こそ妥当<であり、>・・・こうした一連の経過のなかに大坂遷都構想とその断念という事象を入れる歴史的必然性は無いものと結論付けた。」(中村博司「「大坂遷都論」再考:羽柴秀吉の政権構想をめぐって」抄録(2016年)より)
https://ci.nii.ac.jp/naid/130006321477
横田冬彦(1953年~)は、京大文(史学)卒、同大院博士後期課程退学、神戸大文助教授、京大博士(文学)、京都橘女子大文助教授、京都橘大文教授、京大文教授、同大名誉教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E7%94%B0%E5%86%AC%E5%BD%A6
⇒既に、内田らによる秀吉大坂遷都構想説批判は行ったところですが、再度、中村博司の、但し、彼の別論文の抄録からの引用を「注70」に掲げ、藤田によるところの、内田らの説の踏襲を批判しておきましょう。(太田)
・・・信雄は京都奉行を任ずるなど、京都支配つまり天下支配に乗り出していた。
これに対して秀吉は、遷都することで構築されつつある信雄体制を否定しようと画策したのだ。
<事実、同じ頃から、>・・・秀吉は足利義昭の帰洛に応じることで将軍権力を奪取し<ようともしていた。>・・・
<1583年4月の>賤ケ岳の戦いの戦いの後のことに違いないが、秀吉は足利義昭と連絡をとり帰洛を許可し、この頃、義昭は資金面での協力を島津氏に依頼し<ている>のだ。・・・
⇒この話についても、秀吉が義昭を帰洛させようとしていたことは事実でしょうが、その目的が自分の将軍就任などではなかったことが、秀吉が正親町天皇から将軍任官を持ちかけられて辞退したと考えられることから、既に明らかになっている、と言えるでしょう。↓
山本博文(コラム#11164、11444、12092)は、「山本博文・堀新氏・曽根勇二氏編「偽りの秀吉像を打ち壊す」(柏書房)<の中の><同>氏の論文で<、>・・・秀吉は征夷大将軍になりたかったのに、足利義昭に養子入り(本姓を源氏に改姓しようとして)を断られたため、仕方なく関白になったという捉え方は、林羅山の「豊臣秀吉譜」に最初に出てくるものであ<るところ、>それは捏造されたもの<であって、>・・・秀吉が正親町天皇から征夷大将軍任官を勧められたという「多聞院日記」の・・・1584<年>10月16日条の記事<を紹介した上で、>・・・同時代の公家などの日記を検討し、将軍推任の部分は「直接裏づけることはできない」が、「『多聞院日記』の他の記述は裏づけられ」、将軍推任についての記述も「正確である可能性が高い」と指摘<した。>」
https://94979272.at.webry.info/201302/article_12.html (太田)
まさに時を同じくして、<1583>年10月に秀吉は家康に信長在世の時のように「関東惣無事」を依頼する。
秀吉は、信長の後継者として家康に臨み、北条氏への仲介を依頼したり、独自に関東の反北条方領主層とも接触を開始するのである。
既に対勝家策として、同年2月の時点で上杉景勝とも盟約を結んでおり、北国から奥羽の支配にも橋頭保を得ていた。
秀吉は、これで徳川・上杉両氏を介して関東・北国・奥羽への足がかりをつかんだのである・・・。」(237~239)
⇒ここは、問題なさそうですね。(太田)
(続く)