太田述正コラム#12126(2021.7.7)
<藤田達生『天下統一–信長と秀吉が成し遂げた「革命」』を読む(その11)>(2021.9.29公開)
「秀吉の和泉・紀伊攻撃は、ただちに土佐の長宗我部元親を刺激した。
紀伊の雑賀衆とは長年にわたり友好関係にあり、・・・1582<年>8月の中富川(なかとみがわ)(吉野川)の戦いなどの阿波侵略戦にはたびたび彼らを動員していたからである。
また、<1584>年の小牧・長久手の戦いにおいても、『元親記』によると雑賀衆の求めに応じて2万人の援軍を送って大阪城を攻略しようとしたことが記されている。<(注16)>・・・
(注16)「1585年・・・春、秀吉が紀州征伐に出てこれを平定すると、秀吉は元親に対して伊予・讃岐の返納命令を出した。元親は伊予を割譲することで和平を講じようとしたが、秀吉は許さず弟・羽柴秀長を総大将とする10万を超える軍が派遣されると、元親は阿波白地城を本拠に阿・讃・予の海岸線沿いに防備を固め抗戦する。
秀吉は宇喜多秀家・黒田孝高らを讃岐へ、小早川隆景・吉川元長率いる毛利勢を伊予へ、羽柴秀長・秀次の兵を阿波へと同時に派遣し、長宗我部方の城を相次いで攻略した。そして阿波戦線が崩壊して白地城までの道が裸に晒されると、元親は反戦派の家臣・谷忠澄の言を容れて、7月25日に降伏し、阿波・讃岐・伊予を没収されて土佐一国のみを安堵された(四国国分)。 元親は上洛して秀吉に謁見し、臣従を誓った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E5%85%83%E8%A6%AA
⇒なかなかの人物であった元親ですが、案外、彼の最大の功績は、意図せざる結果として、「1596年・・・に・・・サン=フェリペ号事件に対処し、秀吉によるキリスト教迫害の引き金を作った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E5%85%83%E8%A6%AA
ことかもしれませんね。
秀吉が勝手に「引き金」として用いただけではあったことに加え、この迫害から、事実上、「イエズス会が除外され」る等、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%B3%E8%BF%BD%E6%94%BE%E4%BB%A4
骨抜きになってしまったとはいえ・・。↓(太田)
<1587>年6月に発令された賊船禁止令<(注17)>との関りから注目されるのが、<1587年6>月19日付の伴天連追放令である。
(注17)「豊臣政権が国内統一過程において島津征伐の翌年,1588年・・・7月8日に発した海賊取締りの法令。3ヵ条からなる。内容は第1条が〈諸国の海上で賊船の儀を,堅く禁じたのに,こんど備後と伊予の間にある伊津喜島付近で船を盗んだ族があったのは曲事である〉とあり,第2条では〈国々浦々の船頭や猟師など舟をつかう者たちをその所の地頭代官が調査して,今後決して海賊行為はしない旨の連判の誓紙を書かせ,それを国主がとりあつめるべし〉とあり,第3条では〈自今以後,給人や領主が油断をしていて,その領内に海賊の輩がいれば,成敗をくわえて,曲事の在所と国主の知行は没収する〉と罰則規定をもうけて結んでいる。」
https://kotobank.jp/word/%E6%B5%B7%E4%B8%8A%E8%B3%8A%E8%88%B9%E7%A6%81%E6%AD%A2%E4%BB%A4-1152986
⇒ミスプリでなかったとすれば、「注17」で紹介した通説よりも、1年早く同趣旨の禁止令が発出された、と、藤田は主張しているわけですが、その当否には立ち入りません。(太田)
賊船禁止令は「諸商売船」に対して無差別に海賊・盗賊行為をおこなっていた深堀氏<(注18)>に適用されたし、伴天連追放令はキリスト教を布教しない限り南欧貿易の保護を内容とする「特許状」としての性格をもつものだった。
(注18)「相模三浦氏、及び和田氏の流れを汲む深堀氏は、・・・戦国時代の頃には、・・・長崎港を利用する貿易船から関税を徴収し、拒否されると船を襲い積荷を強奪するといった海賊のような側面もあった。・・・
[父が、有馬氏から西郷氏に養子として入った純久の子の]純賢は深堀氏に養子として入り18代目を継いだ。以後、兄である西郷純堯と共に肥前西彼杵郡長崎の大村氏や長崎氏との抗争に明け暮れる。・・・1570年・・・、純賢は大村純忠を攻める純堯に呼応し、長崎氏の館を攻めるも抵抗を受け撤兵する。・・・1572年・・・7月、純堯が後藤貴明、松浦氏と結託し、三城城を激しく攻撃し・・・純賢勢は長崎氏領の館や教会を焼きはらったが、武士や百姓の激しい抵抗を受け撤退した。純堯も純忠の反撃を受け撤退している。
・・・1573年・・・、長崎を攻めた純賢は、満潮を利用し六十艘の船で夜襲を仕掛けた。・・・この頃、龍造寺氏に従属する。・・・1574年・・・、龍造寺隆信に従い、大友氏方である津村秀門の籠る筑後津村城を攻略した。
・・・1574年・・・、純賢は純堯と共に長崎純景を攻め、長崎氏の砦と城外及びトードス・オス・サントス教会を焼き払っている。・・・1577年・・・、兄・純堯が龍造寺方に攻撃された際は調停を執り成し兄の降伏を許されている。同年、龍造寺隆信が大村純忠討伐を行うと、純賢は隆信の援助を受けて長崎を攻撃した。続く・・・1578年・・・にも長崎を攻める。<1578>年から・・・1580年・・・にかけて純堯と共に鶴城を攻撃した。
・・・1586年・・・7月から・・・1587年・・・にかけての豊臣秀吉の九州平定には、秀吉に従い本領を安堵されるも、・・・1588年・・・に発せられた海賊停止令に違反する不法行為を咎められ所領を没収され、純賢は佐嘉嘉世床へ移った。朝鮮の役を契機に鍋島氏の家臣となり、それを機に、鍋島氏の外戚石井氏から大宝院(石井忠俊の娘、鍋島直茂正室陽泰院の姪)を継室に、その連れ子である石井孫六(後の鍋島茂賢)を養子に迎えた。
養子である茂賢は、純賢の陣代として文禄・慶長の役に参加している。後に、茂賢は鍋島姓を許され、佐賀藩深堀邑6千石の初代邑主となり、佐賀藩家老職の家柄深堀鍋島家の祖となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B1%E5%A0%80%E7%B4%94%E8%B3%A2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E7%B4%94%E4%B9%85 ([]内)
⇒本筋を離れますが、「注18」から分かるように、深堀氏が、養子縁組を通じて、血統的には、深堀氏→西郷氏→石井氏、と、変遷し、更に深堀から改姓して、血統の異なる鍋島氏、の連枝、へと、変遷したのは、極端な例かもしれませんが、日本では、家業の継承に関して、前段は血統を重視しない、後段は姓もまた重視しない、という慣行が、既にこの頃までには確立していたことを示しているのではないでしょうか。(太田)
このように筑前筥崎の陣所から相次いで発令された両法令は、秀吉が国際貿易を管理し外交権を掌握するための施策だったとみなければならない。
したがって伴天連追放令には、貿易と布教を峻別するために宣教師以下を国外追放し、麾下のキリシタン大名には棄教を強制する意図があったと判断されよう。
それは、棄教しなかった高山右近が陣中で速やかに改易したことによって当座は一定程度の効果を現し、諸国に派遣されていた宣教師たちが九州へ移動したとする史料があるし、キリシタン大名の布教活動が低下したことも知られている。<(注18)>
(注18)「大名のキリスト教への改宗についても秀吉の許可が必要だったという点を除けば可能であったが、実際には政治的圧力によって既にキリシタン大名であった黒田孝高が棄教したり、高山右近が信仰のために<大名の>地位を捨てるということもあった。一方で小西行長や有馬晴信のようにキリスト教徒のままでいた者もいた。
また退去を宣告された宣教師たちも抗議を行うなどして、南蛮貿易を重く見た秀吉は以後黙認する形を取っている。結果として、追放令以後も宣教師達は(制限付きだが)活動することはできた。むしろ、この後、関ヶ原の戦い前後まで毎年1万人余が新たに洗礼を受けていたなど、キリスト教の広がりは活発であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E6%95%99%E4%BB%A4
秀吉は、宣教師を介したポルトガルやスペインとキリシタン大名との結合を危惧していたのである。
また右近らのキリシタン大名たちが、島津氏に弾圧される九州の信者を救済するための聖戦と位置づけ予想以上に激しく戦闘したことも、秀吉に脅威を与えたに違いない。
⇒私からすれば、島津氏≒近衛家、であるところ、そんな島津氏が、どうして、秀吉が出てくることが分かり切った、従って、成功するはずがないところの、九州統一戦的な戦いを行ったのかが問題であって、これについては、次の東京オフ会「講演」原稿に譲ります。(太田)
バテレン追放令は、直前に発令された賊船禁止令とも相俟って、外交からキリシタン大名を排除して南欧国家の侵略に備えるとともに、莫大な利益をもたらす生糸に代表される南欧貿易を秀吉が独占するための、必要不可欠な方策だったといえるであろう。」(187、208~209)
(続く)