太田述正コラム#12134(2021.7.11)
<藤田達生『天下統一–信長と秀吉が成し遂げた「革命」』を読む(その15)>(2021.10.3公開)
「・・・奥羽仕置の頃までに豊臣政権は二派に分かれる深刻な内部矛盾を抱えていた。
第一のグループが、三成ら側近層を中心とする旗本集団と、それによしみを通じる外様大名たちである。
具体的には、毛利氏・島津氏・上杉氏ら統一戦のなかで旗本衆との関係を利用して地歩を築いた有力大名衆である。
三成を中心に形成された派閥だったが、権限を政権に集中して集権的な軍事国家をめざす外征肯定派ということができよう。
第二のグループが、関白豊臣秀次(秀吉甥、近江豊臣家)・豊臣秀保(秀次弟で豊臣秀長養子、大和豊臣家)・小早川秀俊(秀吉甥)そして秀吉の義理の弟となった徳川家康らの一門大名衆である。
かつてこの派閥は、<1591>年正月に没した豊臣秀長と、その直後の二月に第一のグループの策動で死に追いやられた千利休を中核的なメンバーとして、相互に良好な関係で結ばれていた。
⇒この指摘を裏付ける典拠が示されていないので、評価のしようがありません。
とまれ、藤田が利休に注目している点だけはよしとしたいところ、利休という町衆を持ち出す一方で、当時においても依然日本の権威中枢であったところの、朝廷関係者、就中、天皇家や近衛家が完全に無視されているのはいかがなものでしょうか。
「笠谷和比古・・・は『聚楽行幸記』で家康が「大納言源家康」と署名したという記事を指摘し、<1588>年の聚楽第行幸頃の時期であると見ており、足利義昭の出家による将軍家消滅が契機であったと見ている<が、>以降の現存する発給文書でも源姓となっている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B0%8F
ところ、このような家康の方針転換は、「1566年・・・、官職を得ていて朝臣でもあった松平家康が朝廷の許可を得て、家康個人のみが「徳川」に「復姓」(事実上の改姓)し、従五位下三河守に叙任された。このとき正親町天皇は先例のない申請に対して躊躇し不信を述べたが、吉田兼右が万里小路家の文書を改鋳し、新田氏系得川氏が二流に分かれ、一方が「藤原姓」となったという先例が発見されたとした<のだが、>この件には近衛前久が関与して<いた>」(上掲)という経緯に鑑みれば、秀吉から、万一、その方針転換の背景を聞かれた場合に、口裏を合わせてもらえるように、前久と調整の上その了解を得た上で行った方針転換であったのではないか、というのが私の見方です。
つまり、「徳川氏が源氏であるという見解が明確に整えられたのは後のことであり、源氏の名家である吉良氏から源義国からの系図を借り受けてのことであった<が、>これを近衛前久が発給時期不詳の書状で「将軍望に付ての事」と指摘していることもあり、家康の源氏名乗りは将軍職就任を目的とした、1603年・・・の征夷大将軍就任直前のものであるという見解が渡辺世祐や中村孝也の研究以来定説となってきていた」(上掲)ということからも、源氏でないと征夷大将軍にはなれない、的な観念が当時流布していたことが分かるところ、上記、家康の方針転換が行われた1588年頃の時点で、既に、前久は、家康を将来将軍に就任させることを内々決断した、換言すれば、秀吉から家康に支持対象権力者を切り替える決意を固めた、と、私は見ており、それは、即、島津氏もそうしたことを意味することは言うまでもありませんが、同時代人の目端の利く大名なら、400超年後の後知恵込みの私などよりも、むしろより容易に私と似通った見方をし、その少なからざる部分が、密かに家康への接近を開始したのではないでしょうか。(太田)
<こちらは、>内政の充実を重視し外征には批判的な派閥だった。
このようにみると、<1595>年政変は九州国分までに形成された旗本衆やそれに親密な大名衆のグループと、秀吉の一門大名グループによる派閥抗争が、朝鮮出兵の行き詰まりを機に主導権の掌握をめざして表面化した事件と理解することができよう。
三成をはじめとする秀吉側近が大躍進を遂げたのが、政変の結果だった。
厭戦気分さえ漂い始めていた朝鮮出兵は、現職の関白であり、秀吉の後継者とみられていた秀次を葬るという異常な粛清によって、慶長の役として継続されていく。
政権内部の不協和音には、政権草創期から形成された秀吉の正室寧子(ねいこ)(北政所)の人脈と秀頼を生んだ淀殿のそれとの摩擦も、微妙に影を落としていた。
前者は加藤清正・福島正則といったいわゆる賤ケ岳の七本槍に数えられる尾張以来の子飼い大名グループ、後者は浅井氏に連なる淀殿(浅井長政息女)を奉じる三成ら近江系の側近グループが中核となっていた。
⇒ここは、かねてから指摘されてきたストーリーであり、私としても、特段、異存はありません。(太田)
天下統一戦には一丸となり、総力をあげて戦ったメンバーが、朝鮮出兵の行き詰まりのなかで分裂の兆しを生じたのであった。
⇒秀吉は、行き詰まりだとは思っていなかった、と、私は見ており、次回の東京オフ会「講演」原稿でその理由を開陳することになるかもしれませんが、それは、秀吉一人の思いではなかったのではないでしょうか。(太田)
これが・・・1598<年>8月における秀吉の死とともに明確となり、関ヶ原の戦いを準備したのである。
一般的には、関ヶ原の戦いとは石田三成と徳川家康との天下の実権をかけた大規模戦争といわれているが、正確には豊臣政権が天下統一以来抱えていた内部矛盾が表面化した内乱であり、この結果ただちに家康が天下人になったわけでもなかった。
あたかも、小牧・長久手の戦いの翌年の<1585>年正月に織田信雄が上洛し秀吉に臣従して天下が定まったように、関ヶ原の戦いから11年も後の<1611>年3月に豊臣秀頼が京都二条城に家康を訪ねて天下に政権交代が示されるまでは、畿内を中心とする豊臣政権と江戸・駿府を核とする徳川政権との二重政権だったとみることができるのである。」(251~253)
⇒「この会見の意義については、秀頼の家康への臣従を意味すると見る説と、引き続き秀頼が家康との対等性を維持したと見る説とがあり、史家の間でも見解が分かれている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E9%A0%BC
以上、藤田の記述ぶりは断定が過ぎる、というものです。(太田)
(続く)