太田述正コラム#1403(2006.9.10)
<マクファーレン・メイトランド・福澤諭吉(その4)>

 (3)福澤諭吉論
 福澤が、(本当はまるっきり異なる)アングロサクソンと欧州とを一括りにして考えていたのは、福澤がわずか三回洋行した・・二回が米国、一回が欧州(イギリスを含む)・・だけであって欧米経験に乏しかったことや、遠くから欧米を俯瞰せざるをえなかったこと、更には、19世紀後半には、欧州にもイギリス由来の産業革命が普及したことから欧州がアングロサクソンに似通ってきていたことから、やむをえないとしつつ、マクファーレンは、福澤が、前近代と近代(実はアングロサクソン文明)の違いを、集団主義的/ヒエラレルキー(階統)社会に対するところの個人主義的/平等主義社会(PP161)(注8)、と見事に定式化し、近代化(実はアングロサクソン化)の必要性と必然性を主張しただけでなく、自ら日本の近代化の有力な推進者の一人となり、多大の成果を挙げた、として高く評価します(注9)。

 (注8)福澤は、正しく、欧米の個人主義ないし自由主義は、ゲルマン人由来のものであると考えていた(PP225)。
 (注9)福澤諭吉論については、メイトランド論よりも一層、マクファーレンの言葉を私の言葉に置き換えて紹介していることをお断りしておく。
 
マクファーレンは、福澤の功績は、モンテスキュー(1689??1755年。コラム#88、311、503、516、592)がフランスから隣国イギリスを眺めて、自由主義ひいては米独立革命の思想を確立し、アダム・スミス(1723??90年。コラム#529、1126、1220、1254、1255、1257、1259)がスコットランドから「隣国」イギリスを眺めて、資本主義のメカニズムを理論的に提示したのに匹敵する社会思想家としての功績に加え、近代化を欧州文明以上にアングロサクソン文明とは異質な文明において推進し、多大の成果を挙げた社会改革家でもあり、世界史的にはモンテスキューやアダム・スミス以上に評価されてしかるべきである、と主張するのです。
 (以上、特に断っていない限りPP139??150による。)
 日本が福澤のような超一流の社会思想家・社会改革家を生み出すことができたのは、福澤が、日本が急速に近代化するただ中にあって、非近代と近代とを身をもって体験できたこと(PP190)もさることながら、日本文明がイギリスとは別の意味で極めて先進的な文明であったことから、福澤が、モンテスキューやアダム・スミスのように、ひたすらイギリスを仰ぎ見ていたのではなく、批判的に欧米(実はアングロサクソン)を見ていたからである、とマクファーレンは示唆しているように私は思います。
 例えば福澤は、世界でも稀な不可知論(agnosticism=宗教を敬して避ける考え方)的社会であり(PP168??169)、かつ、支那等に比べて権威(天皇という儀礼上の存在)と権力(将軍等)の分離という特徴を持つ(PP220??221)日本にあって、欧米の拝金主義・貧富の差の大きさ・愛情のみによって結びついた夫婦関係(PP238)・弱者の搾取・非白人に対する人種差別・帝国主義(注10)、等を批判し、確かに欧米は科学技術・政治制度・市場経済の面においては日本より優れてはいるが、精神・倫理の面において武士道を持つ日本(PP169、221)より劣っていると考えていました。
 (以上、特に断っていない限りPP188??189による。)

 (注10)福澤が1878年から日本が日清戦争に勝利する1895年までの間、ナショナリスト的なスタンス・・日本の近代化が焦眉の急であるのは日本の独立を確保するためだというスタンス・・をとり、脱亜論を唱えたのは、欧米の帝国主義に対する警戒心からであろう、とマクファーレンは指摘している(PP196、202、206)。

 そして、ここにこそ、日本文明が近代化(アングロサクソン化)の過程で、欧州文明のように危機に瀕することを回避できた秘密がある、とマクファーレンは喝破するのです。

(続く)