太田述正コラム#12138(2021.7.13)
<藤田達生『天下統一–信長と秀吉が成し遂げた「革命」』を読む(その17)>(2021.10.5公開)

 (注25)「公家政権の政治力<の>低下に伴い、朝廷が定めた延久宣旨枡が用いられなくなると、日本各地でまちまちな基準で枡が作られるようになり、・・・戦国時代になると、・・・京都では「京都十合枡」と呼ばれる枡が用いられて畿内一帯で行われた。これを略して「京枡」と称した。・・・1568年・・・に上洛した織田信長は「十合枡」を領国内統一の枡として採用し、豊臣秀吉も太閤検地の石盛決定や年貢徴収の際にこの枡を用いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%9E%A1

 「・・・<1583>年の賤ケ岳の戦い以来、秀吉が7年間もかけて全国規模の遠征を断行したのはなぜだろうか。
 多くの読者諸賢は、一も二もなく「敵対する戦国大名を成敗し、天下を統一するために決まっている!」と答えるかもしれない。
 ここで、その常識をよくよく考えなおしていただきたい。
 たとえ天下統一戦に勝利したとしても、それだけでは甚大な軍事費の失費ばかりか、その後長期にわたってもたらされる田畠の荒廃と、それによる人口減少など、まったくペイなどしないのではないか。

⇒人口だけを見ても、1583~1600年の人口推移はもとより、1550~1600年、いや、1500~1600年、の人口推移すら推計値がなさそうであるものの、1450~1600年の戦国時代の150年に関しては、日本では、1000万人前後⇒1700万人~1940万人、と、人口爆発と言っても過言ではない人口の増え方であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88
藤田が典拠を示していないこともあり、彼のここの記述には大きなクエスチョンマークがつく、と言わざるをえません。(太田)

 だいたい鎌倉と室町の両幕府も、ここまで大規模な統一戦などせずとも成立しているではないか。

⇒その成立を挟んで、日本全国を舞台にしたところの、9年にも及ぶ治承・寿永の乱/奥州合戦を経たところの、鎌倉幕府、最初から私の言う広義の戦国時代に突入していたところの、室町幕府、(どちらもコラム#省略)だというのに、藤田は、なんとまあ日本史学者にあるまじきことをおっしゃることか。(太田)

 その回答は、豊臣軍による軍事行動の一部始終を、現地民衆の脳裏に刻みこませ、有無をいわせず地域社会に構造改革を強制しようとしたためと考える。
 すなわち信長以来の預治思想を注入すべく、戦国大名領の収公、城割、検地などの諸施策の強制を通じて領地・領民・城郭を天下のものと位置づけ、配属大名にそれらを預けたのである。・・・

⇒検地こそされたけれども「預治思想」の対象にならなかった、換言すれば、戦国大名ながら(私の言う)藩司化(前出)を免れた、のが、戦国大名としての出身地を一度も追われることなく明治維新まで続いたところの、薩摩藩の島津氏と人吉藩の相良氏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%90%89%E8%97%A9
であり、これは、両氏が、その現地入りが鎌倉時代という昔にまで遡る由緒ある家系だから(上掲)、ということよりも、島津氏が近衛家と一体に近い特別な存在と見られていたから、だと私は思っています。
 なお、相良氏は、この島津氏の軒先を借りている存在と見られていたのではないでしょうか。(太田)

 これによって荘園制は最終的に解体され、武家領主が年貢を全面的に収奪するようになる。
 これは、民衆にとっては歴史的な大増税となった。

⇒「豊臣秀吉は二公一民を基準とし,江戸時代初期には四公六民,享保年間 (1716~36) 以降・・・検見(けみ)法の実施による五公五民になったとされるが確かではない。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%94%E5%85%AC%E4%BA%94%E6%B0%91-64520
というのですが、ハンドルネーム「元ファンドマネージャー」氏が、秀吉二公一民説に疑問を投げかけており、
http://yujinozaki.blog.fc2.com/blog-entry-91.html?sp
その中に、典拠が示されていないけれど、「秀吉は、文禄の役(1592~1593年)で、朝鮮に遠征軍を送り、明と戦ったが、その時、諸将に、「朝鮮は九州同然に扱うこと、検地をおこない、年貢徴収台帳を作り、「4公6民」で徴税せよとの命令を出したという。」(上掲)とあるところ、私も四公六民という「軽税」だったのではないか、と言いたくなります。(太田)

 秀吉の大規模遠征は、まさしく新政権による総力戦体制創出のための前提だったのである。」(258~259)

(続く)