太田述正コラム#12146(2021.7.17)
<藤井譲治『天皇と天下人』を読む(その29)>(2021.10.9公開)

 「また、家康は、前田利家の跡を受けて五大老の一人となった前田利長や細川忠興に謀反の嫌疑をかけ、両者を糾弾し、最終的には利長からその母を、忠興からは嫡子忠利を人質として求め、それを江戸に送らせた。
 前田・細川氏は、家康の謀略の前に屈服したのである。
 つぎに狙われたのは会津120万石の上杉景勝であった。
 家康から上洛を求められた景勝は、<1598>年に新たな領国となった会津の仕置きに専念したいと上洛を断るが、家康は再度景勝に上洛を求め、それを景勝が拒むと、景勝に叛意ありとして、<1600>年6月、会津攻めに踏み切った。<(注65)>

 (注65)「上杉家の挙兵には、城地と領民を一元的に支配していた戦国大名の性癖を克服できず、新たな領国(会津)の経営に執着する余り、家康統治の新体制への対応をなおざりにするという政局認識の甘さが結果的に政策優先順位の錯誤を生み、会津征伐を起こされる羽目に陥らせたとする指摘がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%99%AF%E5%8B%9D
 「景勝としては、家康の理不尽に耐えて、前田利長のように・・・家康の意図をきちんと理解し、徳川に優る力が自分たちにないと理解し・・・、土下座するべきでした。しかししなかった。これがまず、ひとつめの失敗です。・・・
 結局、家康は引き返して大坂に向かうのですが、景勝がふたつめの過ちをおかしたのはここです。反転した家康の軍勢、すでに東軍と呼ぶべきかもしれませんが、その背後を突く姿勢を見せなかったのです。」(本郷和人「「失敗の日本史」上杉景勝の判断ミスがなければ徳川家康は関ヶ原で負けていた 大局が読めないしくじり大名の末路」より)
https://president.jp/articles/-/45133?page=6

⇒「注65」の本郷の指摘通りだと私も思いますが、「ひとつめの失敗」のところで、前田利長(や細川忠興)が土下座した理由のより根本的なものが抜けています。
 私が既に累次指摘しているところの、後陽成天皇によって、家康が新たな天下人と認められていることを、前田利家(や細川忠興)は認識していたけれど、上杉景勝は認識していなかった、と。(太田)

 この直前の5月10日、後陽成天皇は、勧修寺光豊を使いとして大坂に派遣し、「御みまい」として、匂い袋を秀頼に30袋、秀頼の母淀殿に20袋、家康に30袋、毛利輝元に20袋、宇喜多秀家に20袋、贈った。
 家康への下賜品の数が秀頼と同数であり、五大老の輝元・秀家への数を超えていることは、後陽成天皇が、この時期家康を秀頼と同等に位置づけていたことを推測させる。

⇒従一位の北政所
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%B0%E9%99%A2
とは違って、無位であった淀殿
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%80%E6%AE%BF
に20袋、ということは、実質、その子である秀頼に計50袋を下賜したようなものであり、形式上は家康、実質上は秀頼、を、それぞれ立てた、と言えるのではないでしょうか。(太田)

 6月8日、後陽成天皇は、家康の会津への陣立てを聞いて、見舞いとして勧修寺晴豊・光豊父子を遣わし、さらし100反を贈った。
 この行為は、後陽成天皇が家康の上杉攻めを暗に支持したことを示していよう。<(注66)>・・・」(250~251)

 (注66)「1600年・・・に元五奉行の石田三成が大谷吉継とともに、会津に向けて出征中の徳川家康に対する挙兵を企てているという情報が入った際に、7月27日付の榊原康政から秋田実季に宛てた書状によると、三成と吉継が謀反を企てているので、事態を沈静化させるために急いで家康に上洛をするように淀殿と三奉行(増田長盛、長束正家、前田玄以)から書状を送っていることがわかる。このことから淀殿には家康・秀忠父子を主軸とした秀吉遺言覚書体制、すなわち内府(家康)・五奉行(ないし三奉行)体制による政権運営を是認する、確たる意思があったことが窺える。その後、大坂城に入った輝元が石田方(西軍)の総大将となり三奉行もそれに同調するが、淀殿は石田方が切望したと思われる秀頼の墨付きの発給や秀頼の出陣などは許さず、石田方の動きを認めつつも豊臣家としては観望する姿勢を保った。なお家康は淀殿らからの書状を石田・大谷の動きが謀叛であると諸大名に主張する材料とし、その後、三奉行が家康糾弾の『内府ちかひの条々』に署名したが、淀殿からは先の書状を覆す文書が発給されなかったことも、家康に「秀頼様の御為」という大義名分を維持させることとなった。
 9月15日の関ヶ原の戦いにおける徳川方(東軍)の勝利の後、家康は大野治長を大坂城に送り、淀殿と秀頼が西軍に関与していないと信じていることを述べさせ、淀殿はこれに対して感謝の旨を返答している。毛利輝元の大坂城退去後に家康が大坂城に入るが、そこで家康を饗応した際に、淀殿は自らの酒盃を家康に下した後に、その盃を秀頼に与えるよう強く求め、家康は秀頼の父親代わりたるべきと公に宣言した。」(上掲)

⇒「注66」から、北政所と違って、淀殿は、相当世間知らずであった上、家康という人物についても全く分かっていなかったため、家康を打倒する、最後で唯一のチャンスをフイにした、と言えそうです。
 彼女は、おまけに、「母の市は戦国一の美女と謳われたが、桑田忠親は長女である淀殿は持明院所蔵の肖像画を見る限り父親の浅井長政の面影を受け継いでいたといえ、美女とは思えないとしている」(上掲)ところであり、彼女、取り柄が殆どなかった人物だったようですね。(太田)

(続く)