太田述正コラム#12150(2021.7.19)
<藤井譲治『天皇と天下人』を読む(その31)>(2021.10.11公開)

 「将軍宣下以降、家康は秀頼のもとに礼に下らなくなり、また、諸大名の年頭礼もごく一部を除き秀頼へのものはなく、家康への礼のみが行われるようになる。
 将軍宣下は、家康が豊臣政権の五大老のひとりとしての地位から明確に脱し、武家の棟梁としてその頂点に名実ともに立つための重要な契機となった。
 <しかし、>・・・秀頼と朝廷・公家の関係は、・・・この後も大きく変化することはなかった。
 ・・・1605<年>3月21日上洛し伏見城に入った徳川秀忠は、3月29日、将軍宣下を前に塗輿(ぬりごし)で参内する。
 後陽成天皇は、儀仗所にて秀忠に対面、三献の儀があり、秀忠からは太刀が後陽成天皇に進上された。・・・
 16日、後陽成天皇は、大納言徳川秀忠を征夷大将軍に任じるとともに、正二位内大臣に叙任し、淳和院別当に補した。・・・
 なお氏長者・奨学院別当は家康が保持し、このときには秀忠へは譲られなかった。・・・
 家康は子の秀忠に将軍職を譲ることで、徳川氏が政権を継承することを天下に宣言したのであるが、秀忠の将軍襲職は、秀忠が家康に取って代わって「天下人」となることではなく、依然として「天下人」は家康であった。
 また、朝廷側からみれば、天下人たる家康を当官に縛り付けておくことに失敗したともいえる。

⇒そうとは必ずしも言えないでしょう。
 家康は氏長者・奨学院別当・・淳和院別当はどうなった?・・という(外交・外征とは何の関わりもない、しかも名誉)官職に就いたままだったのですから、関白を自分の養子の秀次に譲った上で、(名誉官職ではあっても、形の上では外交・外征も所管している)太政大臣の職は手放さないままであり続けた秀吉(注69)と違って、家康が日蓮主義遂行に乗り出す可能性はない、というか、こういう将軍職の子孫への承継のやり方を含め、後陽成天皇が源氏長者への就任を家康に持ちかけた時点において、家康に知恵を付けた上で、両者間で、将来に向けての合意が成立していた可能性すらある、というのが私の見方です。(太田)

 (注69)「太政大臣<は、>・・・日本の律令官制・・・における朝廷の最高職<で、>・・・定員1名で<あって>、律令下においては具体的な職掌のない名誉職で、適任者がなければ設置しない則闕(そっけつ)の官とされた。・・・
 <具体的には、>986年・・・6月の花山天皇の突然の退位のとき・・・摂関と太政大臣<が>決定的に分離し・・・太政大臣の実権は完全に摂関に吸収され、太政大臣は単なる名誉職へと変化する<。>・・・
 <やがて、>摂関にはなれないが太政大臣にはなれる家格・・・としての清華家が成立してくることになる。・・・
 <そして、>「太政大臣」と「前・太政大臣」とは、その意味においてほとんど同じものとなったのである。このため、太政大臣の在任期間は1年前後の短期間であることが多い。特に、清華家出身者が太政大臣となる場合、それはしばしば引退の花道を意味した。・・・1586年・・・12月から足かけ12年にわたって在任した豊臣秀吉は、中世・近世では稀有の例外である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E6%94%BF%E5%A4%A7%E8%87%A3

 後陽成天皇と徳川家康・秀忠との間での年頭の礼は、<1607>年までの家康上洛時には家康の年頭の礼に対し天皇は勅使を派遣しそれに応えたが、上洛がなくなって以降は一方<向>でのみなされ、天皇からの年頭の礼の勅使が駿府や江戸に派遣されることはなかった。・・・

⇒家康は、天皇家から取れるものは全部取ったのでもはや用済み、ということだったのでしょうが、後陽成天皇側は、それに気付き、本来はフェードアウトさせていく予定であったところの、豊臣家との関係を堅持することで、家康に不快感を表明し続けた、ということではないでしょうか。↓(太田)
 
 それに対し後陽成天皇と豊臣秀頼との間で年頭の礼の様子はかなり趣を異にし厚いものであった。・・・
 後陽成天皇は、・・・1601<年>3月27日豊臣秀頼を、翌28日徳川秀忠を相次いで大納言に昇進させた。・・・
 また、・・・<1602>年正月には家康が正二位から従一位に昇進したのにあわせ、秀頼も従二位から正二位に昇進している。
 さらに家康への将軍宣下からほど近い<1603>年4月22日、・・・秀頼を内大臣に任じた。・・・
 また8月11日には、秀頼と家康の孫千姫との婚儀を祝い、後陽成天皇は、太刀折紙・馬を、政仁親王は銀10枚を・・・秀頼に贈っている。
 また徳川への配慮か、天皇は同年11月7日、秀忠を右大将に任じている。・・・
 後陽成天皇の譲位、後水尾天皇の受禅(前帝の譲位をうけて即位すること)の翌日3月28日、家康は秀頼と二条城で会見した。
 秀頼の上洛は、・・・1599<年>正月に伏見から大坂に移って後はじめてのものであった。・・・
 この日、秀頼は、片桐且元<(注70)>の京都屋敷で衣装を改め、家康のいる二条城に入り、家康とのあいだで礼を交わし、家康の饗応を受け、故秀吉の正室高台院との対面を終えて、二条城を退出した。・・・

 (注70)1556~1615年。「信濃源氏の名族である片切氏は、伊那在郷の鎌倉御家人だったが、本流が片切郷に残る一方で、支流は承久年間以降に美濃国・近江に進出し、片桐に改姓し<、やがて、>戦国大名化した浅井氏に仕えるようになった<。>・・・
 羽柴秀吉は、浅井氏に変わって長浜城主及び北近江3郡の領主となり、多くの人材を募っていた。且元は、・・・1574年・・・以降から・・・1579年・・・までの間に、同じく近江国生まれの石田正澄・三成兄弟と同じように若くして秀吉に仕官した。・・・
 1599年・・・1月10日、豊臣秀頼が五大老・五奉行に伴われて伏見城から大坂城に遷った際、自邸のない徳川家康は伏見城に戻るまで、且元の屋敷に2泊している。以後2人は連絡を取り続けていくことになる。・・・
 9月の関ヶ原の戦いでは文治派奉行衆を中心とした石田三成方(西軍)に付き、秀政、頼明、弟の貞隆などの旗本も加わる大津城の戦いに、増田長盛と同じく家臣を派遣したが、武断派武将らを中心に支持を得た家康方・東軍勝利の後は、長女を家康への人質に差し出し、豊臣と徳川両家の調整に奔走した。・・・
 1604年・・・に小出秀政が没して以降は唯一の家老となり、豊臣宗家の外交・財政を一手に取り仕切った。現在発見されている秀頼の発給文書131通のうち、且元が取次者となっているものは100通と大半を<占>めている。淀殿の信頼も厚く、「秀頼の親代わりとなってほしい」「(且元の忠節は)命ある限り忘れることはない」と手紙に記している。・・・
 1614年・・・3月には、再建開始から14年目の方広寺大仏殿がほぼ完成し、秀頼の名において全国から鋳物師を集める。銘文を南禅寺長老の文英清韓に選定させていた梵鐘も4月には完成し、奉行代表として「片桐東市正豊臣且元」の名も刻まれている。・・・
 7月末、板倉勝重から家康への報告により、鐘銘、棟札、座席などに疑惑がかけられる方広寺鐘銘事件が起こる。崇伝と本多正純を中心に調査が行われ、板倉勝重により大仏開眼及び供養は延期が決定される。8月13日の夜、大坂城下が静まらない中、且元、大野治長、清韓などが駿府へ派遣される。17日に鞠子宿にて清韓が駿府奉行に囚えられる。・・・
 徳川家に譲歩の姿勢が無いと見て取った且元自身によるものか、裏で崇伝らに半ば言い含められたものかは不明だが、戦争を避けるために「秀頼の駿府と江戸への参勤」、「淀殿を江戸詰め(人質)とする」、「秀頼が大坂城を出て他国に移る」の中からひとつを早急に選ぶことを提案するが、大野治房や渡辺糺といった淀殿の側近たちから家康との内通を疑われるようになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E6%A1%90%E4%B8%94%E5%85%83
 「清韓自身は家康の諱を祝意として「かくし題」とした意識的な撰文である(「国家安康と申し候は、御名乗りの字をかくし題にいれ、縁語をとりて申す也」)と弁明しているが、五山の僧の答申はいずれも当時の諱の扱いに対する常識や礼儀として問題視し(『摂戦実録』、諱を避けなかったことについて五山僧から非難されている。この事件は、豊臣家攻撃の口実とするため、家康が以心崇伝らと画策して問題化させたとの通説もあるが、近年の研究では問題となって然るべきものと考えられている。・・・
 <清韓>も連座し、南禅寺から追放され、住坊の天得院は一時廃絶の憂き目にあっている。8月28日、天下一の茶人で交友が深かった古田織部が文英を茶席に招いて鐘銘事件について慰め、それが家康の耳に入るところとなり叱責される。
 <清韓>は南禅寺を追われ、戦にあたっては大坂城に篭もり、戦後に逃亡したが捕らえられ、駿府で拘禁され、蟄居中に林羅山と知り合い、のち羅山の取りなしなどにより許され・・・ている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E8%8B%B1%E6%B8%85%E9%9F%93

⇒且元は、北政所と同じ頃までに、北政所よりも更にしっかりと、後陽成天皇が、新たな天下人として家康を認知したことに気付き、積極的に家康に近づき、だからこそ、家康は、大阪に下った時に且元邸に連泊したのでしょうし、方広寺鐘銘事件は、方広寺再建奉行を務めた且元が、家康と示し合わせた上で、清韓に決して悪いようにはしないと(大枚の金品付きで?)言いくるめて、わざわざ問題の銘文を起草させた、というのが私の見方です。
 その折、責任者であった且元はお咎めなしで、実行犯であった清韓も命を奪われることなく後に復権を認められている、のですからね。
 もちろん、関ヶ原の時の且元の日和見的行動も、その後、豊臣家の中枢に且元を潜り込ませるために、家康から依頼されたものだった、と。(太田)

 対等の形でなされたこの会見は、・・・つまるところ秀頼の家康への臣礼とされ、家康が秀頼を臣従させたことを諸大名・公家衆をはじめ多くの人々にみせつけるためのものとなった。」(266~268、271~272、283~284)

(続く)