太田述正コラム#12152(2021.7.20)
<藤井譲治『天皇と天下人』を読む(その32)>(2021.10.12公開)

「・・・即位して以降も後水尾天皇<(注71)>と秀頼とのあいだでの年頭の礼は断絶することなく続い・・・<た。>・・・

 (注71)1596~1680年。「後陽成天皇はかねてから第1皇子・良仁親王(<後の>覚深入道親王)を廃して、弟宮の八条宮智仁親王を立てる事を望んでいた。だが、関ヶ原の戦いによって新たに権力の座を手に入れた徳川家康もまた皇位継承に介入し、良仁親王の出家(皇位継承からの排除)は認めるものの、これに替わる次期天皇として嫡出男子であった第3皇子の政仁親王の擁立を求めた。最終的に後陽成天皇はこれを受け入れたものの、結果的には自己の希望に反して家康の意向によって立てられた政仁親王に対しても良仁親王と同様に冷淡な態度を取るようになった。
 <政仁親王は、>・・・1611年・・・3月27日に後陽成天皇から譲位され践祚。4月12日に即位の礼を行う。だが、父・後陽成上皇との不仲はその後も続き、天海や板倉勝重の仲裁にも関わらず不仲は上皇の崩御まで続いた。
 江戸幕府は朝廷の行動の統制を目的として<1613>年6月16日・・・には、「公家衆法度」「勅許紫衣(しえ)法度」を制定し、次いで、豊臣宗家滅亡後の<1615>年7月17日・・・には「禁中並公家諸法度」を公布した。以後、朝廷の行動全般が京都所司代を通じて幕府の管理下に置かれた上に、その運営も摂政・関白が朝議を主宰し、その決定を武家伝奏を通じて幕府の承諾を得る事によって初めて施行できる体制へと変化を余儀なくされた。これによって摂家以外の公卿や上皇は朝廷の政策決定過程から排除され、幕府の方針に忠実な朝廷の運営が行われる事を目指していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%B0%B4%E5%B0%BE%E5%A4%A9%E7%9A%87

 <1613>年2月3日、・・・大阪城で火災<が>起こった<が、>・・・後水尾天皇は、その見舞いとして権中納言広橋総光(ふさみつ)を秀頼のもとに遣わしている。
 同年12月22日には後水尾天皇の新内裏移徒(わたまし)を賀して、秀頼から片桐且元が使いとして遣わされ、後水尾天皇に<様々なもの>が進上された。
 また、<1614>年正月12日には、秀頼の申沙汰(もうしさた)によって内侍所(ないしどころ)で御神楽が催行され、秀頼から金五枚が進上されている。
 さらに豊国祭については、後陽成天皇の時には4月18日と8月18日の祭礼日に奉幣のため勅使が遣わされていた。
 後水尾天皇の即位の年については確認できないが、翌<1612>年には、4月18日、三条西実条(にしさねえだ)を勅使として遣わし、奉幣、また太刀折紙を進め、また8月18日には広橋総光を勅使として奉幣、太刀、馬代五貫文を進めており、その後も大坂冬の陣後の<1615>年4月18日まで勅使を派遣し奉幣を続けた。
 なお、この奉幣は、大坂夏の陣後の<1615>年7月10日に家康が豊国大明神の神号を除き、社殿を方広寺境内に移させるまで断絶することなく続いた。
 さらに、<1616>年8月6日、秀吉の墳墓を大仏殿境内に作らせ仏事勤行を命じることで、秀吉を神として祀ることが完全に否定された。
 この間の豊国社<(注72)>に対しての幕府の措置に天皇が関わることはなかった。・・・」(285~286)

 (注72)「1868年・・・閏4月、明治天皇が大阪に行幸したとき、秀吉を「皇威を海外に宣べ、数百年たってもなお寒心させる、国家に大勲功ある今古に超越するもの」であると賞賛し、豊国神社の再興を布告する沙汰書が下された。同年5月には鳥羽・伏見の戦いの戦没者も合祀するよう命じられた。1873年(明治6年)、別格官幣社に列格した。1875年(明治8年)には東山の地に社殿が建立され、萩原兼従の子孫である萩原員光が宮司に任命された。1880年(明治13年)、方広寺大仏殿跡地の現在地に社殿が完成し、遷座が行われた。・・・1897年(明治30年)には神社境外地の阿弥陀ヶ峰山頂に・・・石造五輪塔が建てられ、翌年、豊太閤三百年祭が大々的に挙行された。この工事の際、土中から素焼きの壷に入った秀吉の遺骸とおぼしきものが発見された。遺骸は丁重に再埋葬された・・・。・・・
 豊国神社の正面には文禄・慶長の役ゆかりの耳塚がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82)

⇒「注72」は、(後水尾天皇が認めたところの、)家康を神として祀ることはそのままにする一方で、家康、秀忠によって勝手に否定された、(後陽成天皇が認めたところの、)秀吉を神として祀ることは復活させた、と、形式的には言えるわけですが、私見では、実質的には、信長流の日蓮主義を是とし、秀吉流の「国体」を危険に晒す形での日蓮主義も、家康流の日蓮主義の否定も、否とした、ということなのであり、爾後、1945年まで日本の対外政策を規定することとなる、頗る付きに重要な戦略指針が、この時、明治天皇によって打ち出された、と、捉えるべきでしょう。
 一体、誰が、そんな戦略指針の案を作ったのか、近い将来の、オフ会「講演」原稿で追究したいと思います。(太田)

(続く)