太田述正コラム#12156(2021.7.22)
<藤井譲治『天皇と天下人』を読む(その34)>(2021.10.14公開)
[徳川家斉と日蓮主義]
「注74」に家斉が登場したので少し追究してみた。↓
「家斉<は、>・・・次男<で将軍職を承継させた>家慶とは不仲であったと言われる。家斉が日蓮宗を信仰していたのに対し、家慶は浄土宗を信仰していた<し>、家斉が大御所となってからも権力を握り続けた<し。>・・・
在職期間50年は、江戸幕府将軍だけでなく歴代の征夷大将軍の中でも最長記録であるが、その生涯で一度も日光社参はしなかった。・・・
<また、>家斉の将軍職就任を祝賀して派遣された朝鮮通信使が、江戸時代最後の朝鮮通信使となった<上、>対馬での応接にとどめ、江戸へ招かなかった。・・・
<更に、>異国船打払令を発するなどたび重なる外国船対策として海防費支出<を>増大<させ>た・・・
従一位・太政大臣にまで昇任しているが、徳川将軍としての従一位への昇任は第3代将軍徳川家光以来、太政大臣への昇任は第2代将軍徳川秀忠以来である。明治期の文献には「藤原氏にあらずして位人臣を極めた者といえば足利義満・豊臣秀吉・徳川家斉・伊藤博文」という趣旨の記載もある。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E6%96%89
⇒家斉は、殆ど実質を伴わなかったけれど、徳川幕府の諸将軍中、唯一の日蓮主義者だったと言えよう。
だからこそ、彼は、非日蓮主義者だった家康を軽蔑して彼を祀る日光の東照宮を参拝しなかったのだし、日蓮主義者で日蓮主義を実行した秀吉を尊敬して、その真似をし、最高権力者たることだけでは飽き足らず太政大臣に就任して死ぬまでその座に座り続けたのだし、海防を命ずるとともに、秀吉から見れば東アジア侵攻の案内役でしかなかったところの朝鮮が日本と対等外交をすることなどとんでもないと考えたのだろう。(太田)
「<その家斉の>正室<は、>近衛寔子<(ただこ)だった。>」(上掲)
近衛寔子(広大院。1773~1844年)は、「11代将軍・徳川家斉の正室(御台所)。実父は薩摩藩8代藩主・島津重豪、実母は側室・市田氏(お登勢の方(慈光院))。市田氏<の実家>は薩摩藩大坂蔵屋敷の足軽から下級武士階級に昇進したとされるが異説もある。養父は近衛経熙。実名は寧姫、篤姫、茂姫。後に天璋院が「篤姫」を名乗ったのは広大院にあやかったものである。・・・
茂姫は誕生後、そのまま国許の薩摩にて養育されていたが、一橋治済の息子・豊千代(後の徳川家斉)と3歳のときに婚約し、薩摩から江戸に呼び寄せられた。その婚約の際に名を篤姫から茂姫に改めた。茂姫は婚約に伴い、芝三田の薩摩藩上屋敷から江戸城内の一橋邸に移り住み、「御縁女様」と称されて婚約者の豊千代と共に養育された。
10代将軍徳川家治の嫡男家基の急逝で豊千代が次期将軍と定められた際、この婚約が問題となった。将軍家の正室は五摂家か宮家の姫というのが慣例で、大名の娘、しかも外様大名の姫というのは全く前例がなかったからである。このとき、この婚約は重豪の義理の祖母に当たる浄岸院<(注75)>の遺言であると重豪は主張した。
(注75)1705~1772年。「薩摩藩第5代藩主島津継豊の継室。権大納言清閑寺熈定の娘。江戸幕府第5代将軍徳川綱吉及び第8代将軍徳川吉宗の養女。名は竹姫(たけひめ)。・・・
継豊との間に一女(菊姫)を儲け、後に福岡藩主黒田継高の子重政に嫁いでいる。また竹姫は嫡母として益之助(次代藩主島津宗信)の養育や義理の孫に当たる島津重豪の養育に携わった。・・・
浄岸院は将軍家の養女という立場を大いに利用し、島津家と徳川家の婚姻関係を深める政策を進め、薩摩藩8代藩主・宗信の正室に尾張藩主・徳川宗勝の娘・房姫と婚約させ(<1748>年、輿入れ前に房姫が死去。<1749>年には房姫の妹邦姫と宗信の婚約の話があがったが、今度は宗信が死去)、義理の孫で9代藩主・島津重豪の正室に一橋徳川家の当主・徳川宗尹の娘・保姫を迎えさせている。この婚姻により、島津家と徳川家との縁戚関係が深まっていくのである。
[<但し、重豪と保姫との間には成人した子はいない。>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E5%B0%B9 ]
浄岸院の死後、その遺言として、当時の薩摩藩主・重豪の娘茂姫(広大院)と11代将軍徳川家斉(婚約当初は一橋家世子)との縁組が行われた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%B2%B8%E9%99%A2
浄岸院は徳川綱吉・吉宗の養女であったため幕府側もこの主張を無視できず、このため婚儀は予定通り執り行われることとなった。茂姫と家斉の婚儀は婚約から13年後の・・・1789年2月4日・・・である。
茂姫は・・・1781年・・・10月頃に、豊千代とその生母・於富と共に一橋邸から江戸城西の丸に入る。また、茂姫は家斉が将軍に就任する直前の・・・1787年・・・11月15日に島津家と縁続きであった近衛家および近衛経熙の養女となるために茂姫から寧姫と名を改め、経熙の娘として家斉に嫁ぐ際、名を再び改めて「近衛寔子」として結婚することとなった。
重豪の正室・保姫は家斉の父・治済の妹であり、茂姫と家斉は義理のいとこ同士という関係であった。・・・
大御所家斉死去に伴い、水野忠邦は天保の改革の綱紀粛正の一環として、寺社奉行・阿部正弘に、家斉夫妻の帰依が厚かった・・・池上本門寺の末寺の感応寺・・・の処分を任せた。感応寺は、家斉の愛妾・お美代の方の実父・日啓の願いにより、・・・1835年・・・に再興されたもので、家斉とともに茂姫も尊崇したために、大奥女中の代参が多く、風紀の乱れが公然化していた。阿部は[中山法華経寺の智泉院の住職]日啓を女犯の罪で捕らえ<るとともに、>感応寺を取りつぶしたが、将軍家の権威に傷がつくことを恐れて、大奥関係者には咎めを及ぼさなかったといわれる。ただし、西の丸大奥の筆頭女房・花園とお美代の方は、押込になったという記録があり、またこの時、広大院の用人・山田日向守と御広敷番頭・稲田八郎左右衛門がお役御免を申し出て職を退いていて、責任をとったものと見なされる。
翌年、広大院は従一位の官位を授かり、以後「一位様」と呼ばれるようになる。生前に従一位を授けられた御台所は、過去天英院しかおらず、広大院は権勢を保った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%A4%A7%E9%99%A2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%82%E8%A1%8C%E9%99%A2 ([]内)
⇒「注75」から、日蓮主義の、日啓→お美代→徳川家斉→広大院…→天璋院→島津斉彬、という伝播経路が浮かび上がってくる。
南部信順→島津斉彬、という伝播経路
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E4%BF%A1%E9%A0%86
なるものは、天璋院を通じて日蓮主義を信奉した斉彬によるメーキングなのではないか。
その辻褄合わせのために、斉彬と天璋院は、池上本門寺系の日蓮宗ではなく、信順の日蓮正宗の檀越になった、と。(太田)
(続く)