太田述正コラム#12158(2021.7.23)
<藤井譲治『天皇と天下人』を読む(その35)/平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』を読む(その1)>(2021.10.15公開)
「・・・家康を神に祝うことは天皇を抜きにして行うことはありえなかったが、秀吉のときには「新八幡」を希望した秀吉側の意向を後陽成天皇は押しとどめ「明神」としたのに対し、家康の場合は朝廷抜きで「権現」か「明神」かが議論され、最終的には将軍秀忠の意として「権現」と決し、そのうえで神号の秦請が後水尾天皇になされ、さらに具体的な神号も撰ばれたものを天皇が決めるのではなく、将軍秀忠の意向に従い決定された。
このように、家康の神号決定は、将軍側の優位のもとに進められ、天皇の役割はそれを調えるに過ぎなかった。・・・」(309)
(完)
–平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』を読む(その1)–
1 始めに
平川新(コラム#11274)の表記の本については、後知恵で申し上げれば、前回の東京オフ会「講演」原稿を書く前に読むべきだったのですが、信長まで取り上げることにしていたので、読まなかったものです。
とはいえ、平川が、『戦国日本と大航海時代–信長・秀吉・家康の外交戦略』を書かなかったところに、この本、というか、平川の限界がある、と、最初に指摘しておきましょう。
2 平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』を読む
「・・・秀吉は朝鮮出兵の前後にスペインのフィリピン総督<(注1)>に対して服属要求の書簡を送っており、インド・ゴアのポルトガル副王<(注2)>に対してもキリスト教布教の禁止を通知していた。
(注1)「1565年から1898年までフィリピンはスペイン統治下にあった。1565年から1821年までフィリピン総督は国会の推薦に基づきヌエバ・エスパーニャ副王によって任命され、スペイン国王の名代としてフィリピンを統治した。総督の死亡や総督交代などで総督職に空白が生じた場合はマニラのアウディエンシアがそのメンバーの中から新総督の着任まで総督代理を立てた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3%E9%A0%98%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%94%E3%83%B3%E3%81%AE%E7%B7%8F%E7%9D%A3
「アウディエンシア(Audiencia)はスペイン・カスティーリャ王国にあった最高司法機関である王立の大審問院(「聴訴院」とも訳される)を指し、新大陸のスペイン殖民領においては司法・行政・立法を司った王室機関で、副王と並ぶ重要性を持っていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%A2
「ヌエバ・エスパーニャは、1521年にスペインとメソアメリカの仲間によるアステカ帝国の征服(1519-1521年)が完了した際に設立された。アメリカ大陸に設立された4つのスペイン副王領の中で最初に設立された(残り3つは南アメリカを管轄した)。その領土は、メキシコ、中央アメリカ、アメリカ合衆国の南西部、中部、およびフロリダ、そしてフィリピン、マリアナ諸島およびカロリン諸島に渡った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8C%E3%82%A8%E3%83%90%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%A3
(注2)「1510年、ポルトガル提督(のちにポルトガル領インド総督)アフォンソ・デ・アルブケルケはビジャープル王国を打ち負かし、ヴェーリャ・ゴア(旧ゴア)に恒久の植民地を手に入れた。南端の地域は短縮してゴアと呼ばれ、ポルトガル領ゴアの中心地となり、アジアにおけるポルトガルの領土を治めるポルトガル副王の所在地とした。
ポルトガルはグジャラート・スルターン朝(グジャラート)のスルターンから数カ所の領土を得た。ダマン(正式併合1539年)、サルセット、ボンベイ、バセイン(1534年占領)、ディーウ(1535年併合)である。これらの領土はポルトガル領インドの北部地域となった。ダマンからチャウルまで海岸沿いに100キロ広がり、内陸へ30から50キロあった。地域は城塞都市バサイムが支配した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%AC%E3%83%AB%E9%A0%98%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89
しかも、フィリピン総督への服属要求は一度だけではなかった。
きわめて激しい言葉で、スペインによるルソン諸島の征服を批判した秀吉の書簡もある。
とりわけ、スペイン国王に「予が言を軽視すべからずと伝えよ」、という書簡は驚くべきものであった。
不思議なことに、朝鮮出兵にあたっては、フィリピン総督やポルトガル副王にまで明国征服の野望を、わざわざ知らせている。
ここからは、次はおまえたちだ! という強いニュアンスを読み取ることができる。・・・
じつは・・・、朝鮮出兵もポルトガルとスペインによる世界征服事業への対応のあらわれだった、というのが私の解釈である。
ポルトガルとスペインが明国を支配するくらいなら、自分が先に征服する。
こうした強い意思を抱き、その手始めとして朝鮮に出兵した、ということだったのではないか。・・・
なお、秀吉のアジア外交の始原は、秀吉が仕えた織田信長にあるのではないかという想定から、本書では信長とイエズス会宣教師の関係に遡って素描している。
宣教師から聞いた世界情報は信長を大いに刺激し、明国征服の意欲までも喚起した。
信長は全国平定の途上で斃れたが、統一を成しとげた秀吉は明国征服を実行しようとした。
その手始めとしての朝鮮出兵であった。
この過程をみると、国内統一を成しとげつつある自信と外征意欲の沸き起こってくる関係がよくわかる。」(2~3、5~6)
(続く)