太田述正コラム#12160(2021.7.24)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』を読む(その2)>(2021.10.16公開)

⇒平川は、信長まで遡ったのに、どうして、「全国平定の途上で・・・明国征服の意欲<を抱きつつ>・・・斃れた」、と、それまでの諸戦国大名が誰も抱かなかったところの、「全国平定」や「明国平定」の決意を信長だけが抱いたのか、を追究しようとしなかったのでしょうか。
 「世界情報<を>・・・宣教師から聞いた」から?
 しかし、それでは、信長と同時代の諸戦国大名中、キリシタン大名になった者達も含め、「世界情報<を>・・・宣教師から聞いた」者が多数いたのに、どうして、そのうち、信長だけが「全国平定」や「明国平定」の決意を抱いたのかが説明できません。
 というか、それが説明できないものだから、「信長・秀吉・家康」の比較から、「秀吉・家康・政宗」の比較に逃げた、と言ったら語弊があるとすれば、に留めた、と、勘繰りたくなります。
 もとより、仙台所在の東北大学に奉職していたこと、現在でも仙台の宮城学院女子大学に奉職していること、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B7%9D%E6%96%B0 前掲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E5%AD%A6%E9%99%A2%E5%A5%B3%E5%AD%90%E5%A4%A7%E5%AD%A6
から、政宗をどうしても取り上げたかった、という気持ちがあったのでしょうが、それなら、「信長・秀吉・家康・政宗」の比較、にすればよかったはずですからね。(太田)

 「家康にとって、気になる大きな存在の一人が伊達政宗であった。・・・
 このころはまだ、ヨーロッパに派遣した支倉常長は帰国していない。
 貿易交渉の結果は、まだ知らされていなかった。
 家康は伊達領への<政宗が>宣教師の<伊達領への>派遣要請を<教皇等に行うことを>了解していたが、禁教令を徹底しようとしている将軍秀忠は納得していなかった。
 むしろ政宗によるスペインとの連携をすら疑っていた。
 こうした疑心暗鬼が募るなかでの、政宗謀反の噂<が一時的に流れ>た。<(注3)>・・・

 (注3)「軍記物『東奥老子夜話』によれば、政宗は幕府軍と天下を賭けて戦うことになった場合を想定し、「仙台御陣の御触に付御内試」という、幕府軍との決戦に備えた図上演習、すなわち作戦立案をしていたとされる。具体的には、名取川を人為的に決壊させて仙台平野を水浸しにし、水を避ける幕府軍を、仙台城の建つ青葉山、近隣の大念寺山、八木山におびき寄せて山岳戦を仕掛ける。奥州米流通で蓄えた豊富な資金をバックに浪人を傭兵化、組織化し、疲弊した幕府軍を江戸へと追撃し、勝利するというものであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E6%94%BF%E5%AE%97

 徳川政権はその後、キリスト教宣教師だけでなく、スペイン人やポルトガル人などの商人も日本から追放した。
 カトリック国とカトリック教徒たちが日本征服の野望を持ち続けている、との疑念が払拭できなかったからである。
 それにしても、世界中を力に任せて思いのままに征服し、植民地化してきた両国が、なぜ唯々諾々とこれに従ったのだろうか。
 その謎を解くカギは、秀吉や家康を“Emperador”(スペイン語:皇帝)、日本という国を“Imperio”(同:帝国)と呼ぶようになったことにある。
 秀吉は宣教師やスペイン人たちにカンパクドノ(“Quamvacudono”関白殿)やタイコーサマ(“Taycosama”太閤様)と呼ばれていたが、朝鮮出兵後は彼をして皇帝“Emperador”とする呼称があらわれはじめた。
 徳川家康が関ヶ原合戦を制したあと、オランダとイギリスを含めたヨーロッパ人は、家康を絶大な権力と軍事力をもつ皇帝(“Emperador”“Emperor”)と、例外なく呼ぶようになった。
 なぜこの呼称が意味をもつのか。
 それは、世界最強を誇るかのスペインの国王ですらも“Rey de Espana”すなわちスペイン国王であり、決してスペイン皇帝ではなかったからである。
 しかも日本は皇帝呼称とあわせて、国家の最上格としての“Imperio”や“Empire”すなわち「帝国」とも尊称されるようになっている。・・・」(10~11、13)

⇒「ナポレオン・ボナパルトが、1804年に国民投票によってフランス皇帝となるまで、長きにわたって<欧州>における皇帝の称号は(若干の例外を除いて)「ローマ皇帝の後継者」としての称号であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%B8%9D
ことを踏まえれば、葡西英蘭の日本来訪者等が日本の最高権力者(や天皇)を皇帝と呼んだのは、比喩的な意味であったと考えられるところ、それは単に、日本が、同時代の神政ローマ帝国が連邦国家であって、その構成領邦等には諸王もいて、その「上」に皇帝がいる体制を彷彿とさせたからに過ぎないのではないか、というのが私の見解です。(太田)

(続く)