太田述正コラム#12328(2021.10.16)
<皆さんとディスカッション(続x4958)/秀吉の唐入りの「失敗」、と、関ヶ原の戦いの際の家康側に味方した豊臣恩顧の大名達の続出、の理由>
<太田>
コロナウィルス「問題」。↓
<やったー。↓>
「・・・死者は23人増えて計1万8076人となった。・・・」
https://www.nikkei.com/article/DGXZQODL250V00V21C20A1000000/
それでは、その他の記事の紹介です。
我が選挙民達は、政府を間違っても脳死から蘇生させない強い決意を表明。↓
「比例選の投票先、自民4ポイント低下の44%・立民ほぼ横ばい12%・・・」
https://www.yomiuri.co.jp/election/shugiin/20211016-OYT1T50038/
宗主国サマに更に武器購入でゴマすりますだってさ。↓
「「敵基地攻撃能力」の保有、首相が明記意欲…改定時期「できるだけ急ぎたい」・・・」
https://www.yomiuri.co.jp/politics/20211016-OYT1T50044/
だっからー、24時間にしろってんだ。↓
「東証、70年ぶり取引時間延長 競争力強化なお途上・・・」
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUB150M80V11C21A0000000/?unlock=1
おめでとうと言うべきなんだろうが・・。↓
「各国を代表するアカデミーなどで構成する国際学術会議(本部・パリ)は15日までに、次期会長に小谷元子東北大副学長を選んだ。今期の財務担当副会長には白波瀬佐和子東京大教授を選んだ。同会議に参加する日本学術会議によると、会長や副会長に日本人が選出されたのは初めて。14日に総会の選挙で選ばれた。・・・」
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%AD%A6%E8%A1%93%E4%BC%9A%E8%AD%B0%E4%BC%9A%E9%95%B7%E3%81%AB%E5%B0%8F%E8%B0%B7%E6%B0%8F-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E5%88%9D-%E6%9D%B1%E5%8C%97%E5%A4%A7%E5%89%AF%E5%AD%A6%E9%95%B7/ar-AAPyH4L?ocid=msedgntp
よーやった。↓
「・・・大学やめて10年後、世界一取ったゲーム・・・バックギャモン・・・」
https://digital.asahi.com/articles/ASPBD5FZXPBBUCFI119.html?pn=19&unlock=1#continuehere
ムオ。↓
「1万km離れた黒潮とメキシコ湾流、同期していた 水温変化が連動・・・」
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/1%e4%b8%87km%e9%9b%a2%e3%82%8c%e3%81%9f%e9%bb%92%e6%bd%ae%e3%81%a8%e3%83%a1%e3%82%ad%e3%82%b7%e3%82%b3%e6%b9%be%e6%b5%81%e3%80%81%e5%90%8c%e6%9c%9f%e3%81%97%e3%81%a6%e3%81%84%e3%81%9f-%e6%b0%b4%e6%b8%a9%e5%a4%89%e5%8c%96%e3%81%8c%e9%80%a3%e5%8b%95/ar-AAPyofh?ocid=UE03DHP
日・文カルト問題。↓
<韓国コロナ死者定休日。>
<本文中に日本登場しないじゃん。ボケ。↓>
「自殺率OECD1位は韓国…米国6位、日本は?・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2021/10/15/2021101580082.html
<報道価値が皆無じゃないのは見出しの前段だけ。↓>
「文大統領、岸田首相と初の電話会談…強制徴用・慰安婦問題では意見の食い違い・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2021/10/16/2021101680008.html
<見出し、全部報道価値なし。↓>
「文大統領「強制徴用、外交解決の摸索が望ましい」 岸田首相「韓国が適切な対応を」・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/283897
<そういや、そーだったね。↓>
「知韓派・河村建夫議員、今月末に政界引退・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2021/10/16/2021101680009.html
<なんで、そんなにユニクロ好きなん?↓>
「韓国ユニクロ「300万ウォンのダウンを15万ウォンで販売」ネットで品切れ・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2021/10/16/2021101680006.html
「「不買運動どこ吹く風?」 ユニクロ、初日からダウンジャケット完売 数百万ウォンを10万ウォン台で=韓国・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/283896
「ユニクロ 韓国で黒字転換=コラボ商品の人気などで・・・」
https://jp.yna.co.kr/view/AJP20211015002300882?section=japan-relationship/index
<カルト使徒達、意気盛ん。↓>
「韓国議員「日本は全方向努力…ベルリン少女像に積極的に対応するべき」・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/283880
<戻りたくない、とさえ言ってもらえる人がいない韓国。↓>
「「日本に戻りたくない」 ノーベル物理学賞受賞した真鍋氏の衝撃告白・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/283894
<サムスンも歓迎よ。↓>
「TSMC「日本に新しいファウンドリー工場開設、2024年に稼動」・・・」
https://www.donga.com/jp/home/article/all/20211015/2985142/1
下手人もイスラム教も悪いに決まってるが、殺された英下院議員は、カトリック教徒で、地元のメソジスト派教会で選挙民の陳情を聞いてたってんで、それはそれで野蛮な話だよ。↓
The killing of Conservative MP Sir David Amess has been declared a terrorist incident by police.
Sir David was stabbed multiple times at a constituency surgery in Leigh-on-Sea in Essex on Friday.
The Metropolitan Police said there was “a potential motivation linked to Islamist extremism”.・・・
https://www.bbc.com/news/uk-58935372
頑張るISIS(とタリバン?)。↓
「アフガンテロ、死者47人に IS声明、シーア派標的か・・・」
https://news.infoseek.co.jp/article/kyodo_kd-newspack-2021101601000069/?tpgnr=world
反プーチンの2派も、私の唱えてきたところのロシアの根本的問題から目を反らしてる限り、プーチンと同じ穴の狢だぜ。↓
How the Nobel Peace Prize Laid Bare the Schism in Russia’s Opposition–Dmitri A. Muratov, a new laureate, engages with the Kremlin, while Aleksei A. Navalny, the most high-profile Putin critic, resists all compromise. The Kremlin capitalizes on the fault line.・・・
https://www.nytimes.com/2021/10/15/world/europe/russia-dissent-muratov-navalny-nobel.html
中共官民の日本礼賛(日本文明総体継受)記事群だ。↓
<邦語媒体より。
ま、我が天皇家は諸君の天皇家でもあるもんね。↓>
「「鳳凰男」か「軟飯男」「渣男」か… 中国では小室圭さんの〝正体〟真っ二つ・・・」
https://news.livedoor.com/article/detail/21032987/
<やられた習ちゃん。↓>
「TPP中国加盟に前向き南米チリ、茂木外相が不快感・・・
チリはTPPに署名したものの、同国議会の同意を得られていない。中国政府は、チリが中国のTPP加盟を支持する考えを伝えたと発表している。」
https://www.sankei.com/article/20211015-Y6QZLC2EXVNAVJP46MTUK5SO44/
<ここからは、サーチナより。
定番。↓>
「日本での生活ってどんな感じ? 日本で暮らす中国人たちの答えは・・・中国のQ&Aサイト知乎・・・」
http://news.searchina.net/id/1702820?page=1
概ね、概ね、定番。↓>
「日本人で「三国志」が長く愛される4つの理由・・・中国のポータルサイト・騰訊」
http://news.searchina.net/id/1702811?page=1
<同じく。↓>
「・・・中国メディアの快資訊・・・記事によると、かつて海外へ渡航した中国人は「3種類の刃物」で世界中へと羽ばたいていったという。それは「包丁、はさみ、かみそり」で、つまりは料理人、裁縫人、理容師の3種類の職業のことを指している。
記事は、「日本人は排他的な傾向があり、裁縫人と理容師は拒否することができたが、中華の美食の誘惑には抵抗できず、料理人の中国人は横浜に留まることができ、中華街となって今日に至るのだ」と主張した。
そして、横浜中華街は日本人の間で「食の天国」と呼ばれていると紹介し、日本は「日本料理」を誇りにしているとはいえ、中華の美食の前では降参せざるを得ないようだと、日本人がいかに中国の美食を好んでいるかを強調した。」
http://news.searchina.net/id/1702814?page=1
<これもそう。↓>
「日本の製造業が存在感を失った3つの理由・・・
中国を始めとする製造業の新興国が力をつけ、消費者が多くの選択肢を持つようになった・・・
米国は日本の工業発展を支援し、日本が科学技術の巨頭となることを認める一方で、その影響力を一定の範囲に制御していた・・・
日本は第3次工業革命の波に乗って世界の製造業のトップに立ったものの、現在進行中の第4次工業革命には乗り遅れて「部外者」になっている・・・中国のポータルサイト・百度・・・」
http://news.searchina.net/id/1702819?page=1
<新しい。↓>
「大連で建設中の海上空港に、「日本はきっと焦っている」・・・中国メディアの百家号・・・」
http://news.searchina.net/id/1702817?page=1
<同じく。↓>
「まさかこんなに客がいるとは! ・・・広東省広州市にある・・・日系ショッピングモールで驚いた中国人・・・中国メディアの快資訊・・・」
http://news.searchina.net/id/1702818?page=1
一人題名のない音楽会です。
殆ど知る人がいない作曲家による、佳品の32回目です。
Gaston de Lille(注a) Berceuse // Rêve charmant, Op.120 “Dream of Joy” 3.03分 ピアノ:Gamma1734
https://www.youtube.com/watch?v=vicSQ4oryvk
(注a)1825~1911年。フランスの舞踊曲の作曲家。
https://data.bnf.fr/fr/13990519/gaston_de_lille/
Sergei Bortkiewicz(コラム#11935、12075、12286) Prelude Op.13/5 (Andante placido) 5.12分 ピアノ:Gamma1734
https://www.youtube.com/watch?v=JDEPq8LAnpw
Albert Biehl(注b) Barcarole Vénitienne “Au Clair De Lune”, Op.10/3 2.59分 ピアノ:Gamma1734
https://www.youtube.com/watch?v=zsr-wI15l1c
(注b)アルバート・ビール(1835~1899年)。「ドイツの作曲家、ピアノ教師。」
https://enc.piano.or.jp/persons/684
Mischa Levitzki(注c) Valse, Op.2 2.23分 ピアノ:Gamma1734
https://www.youtube.com/watch?v=SAGcF1SzW8Y
(注c)ミッシャ・レヴィツキ(1898~1941年)。「ウクライナ生まれのロシア系アメリカ人ピアニスト。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%84%E3%82%AD
以下、殆ど知る人がいない作曲家、では全くありませんが、どちらもこれまで取り上げていない名曲故、忘れないうちに収録しておきました。
F.Kreisler Prelude and Allegro(注d) 5.52分 ヴァイオリン:五嶋みどり
https://www.youtube.com/watch?v=qnHj_3cCn3o
(注d)プニャーニの様式による前奏曲とアレグロ(上掲)
ガエターノ・プニャーニ(Gaetano Pugnani。1731~1798年)は、「イタリアのヴァイオリニスト、作曲家。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%82%A8%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%8B%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%8B
Bellini(注e) Casta Diva (Norma) 10.26分 ソプラノ:Aida Garifullina
https://www.youtube.com/watch?v=rK6GsRUl4WI
(注e)ヴィンチェンツォ・サルヴァトーレ・カルメロ・フランチェスコ・ベッリーニ(Vincenzo Salvatore Carmelo Francesco Bellini。1801~1835年)。「シチリア島・カターニアに生れ、パリ近郊で没した作曲家。主としてオペラの作曲家として有名である。名字はベルリーニ、ベリーニとも表記される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%84%E3%82%A9%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8B
<太田>
小林愛美、必ずしも注目されてないな。
ま、彼女の演奏以外を一切視聴してないんだからねえ。
でも、結果が楽しみ。↓
Chopin competition 2021// (my) Top 6 Finalists
https://www.youtube.com/watch?v=6ua5GYYV_-I
コワ。↓
「Windows 11を最小システム要件を満たしていないPCにインストールする方法・・・」
https://www.msn.com/ja-jp/news/techandscience/windows-11%E3%82%92%E6%9C%80%E5%B0%8F%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%A0%E8%A6%81%E4%BB%B6%E3%82%92%E6%BA%80%E3%81%9F%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%AA%E3%81%84pc%E3%81%AB%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%81%99%E3%82%8B%E6%96%B9%E6%B3%95/ar-AAPxF7z?ocid=msedgntp
昨日、久しぶりに「サミット」で買い物をした時に、サミットのポイントを使おうとしたら、残金は現金か電子マネーでしか支払えません、と言われた。
なーるほど、そういう時に、J Coin Payが役に立つのね、と思った。
(使わなかったけど。)
秀吉の唐入りの「失敗」、と、関ヶ原の戦いの際の家康側に味方した豊臣恩顧の大名達の続出、の理由
1 始めに
(1)問題意識
(2)私の新説:補助線
(3)私の新説:結論
2 概観
(1)前題–琉球の第二尚氏王統の奄美群島征服
(2)本題–島津義久と石田三成の観点から
3 秀吉の唐入り「失敗」の理由
(1)日朝交渉
(2)千利休の切腹
[野上弥生子『秀吉と利休』]
[対徳川家康牽制説]
[利休の茶とキリスト教]
(3)後陽成天皇の反対
(4)叛逆
[北政所とキリシタン]
[秀吉・その出自と日蓮宗との関りと日蓮宗不受不施派との関り]
[秀吉と豪姫]
(5)豊臣秀次の切腹
[近衛信尹の奇行]
[朝鮮出兵に関する既存の諸説]
4 関ヶ原の戦い
(1)概観
(2)石田三成邸襲撃事件
(3)関ケ原の戦い
[その他の寝返り諸大名]
[五奉行中の残りの二奉行]
[前田利長]
(4)方広寺鐘銘事件と興意法親王
[織田有楽斎]
5 エピローグ
1 始めに
(1)問題意識
A:どうして、秀吉の唐入りは「失敗」したのか?
当時は、万暦帝(1563~1620年。皇帝:1572~1620年)の時代
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E6%9A%A6%E5%B8%9D
だったが、明は既に名存実亡状態であり(コラム#12040)、秀吉が暴走したどころか、秀吉が失敗するはずがない唐入りに、文禄の役段階で成功を収めることができなかったことの方が異常だ、と、思わなければならない。
B:どうして、関ヶ原の戦いで豊臣恩顧の大名達で家康側に味方した者達が続出したのか?
これは、もちろん、豊臣恩顧の大名達が分裂していたからなのだが、どうして分裂していたかについてのこれまでの通説は次元が低過ぎる。
(2)私の新説:補助線
広義の豊臣家の中に、a:秀吉流日蓮主義者、b:信長流日蓮主義者、c:キリシタン/キリシタンシンパ、の三つのグループがあった。
(3)私の新説:結論
Aについて:aをbとcが邪魔をしたため。
Bについて:Aに係る遺恨があり、aが敵の敵である家康側に味方したため。
2 概観
(1)前題–琉球の第二尚氏王統の奄美群島征服
「琉球王国の正史『中山世鑑』や『おもろさうし』などでは、12世紀に源為朝(鎮西八郎)が現在の沖縄県の地に逃れ、その子が琉球最初の王統の始祖・舜天になったとされる。・・・
南西諸島の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であるとされて<おり、>・・・琉球列島の・・・の集団は、・・・核DNA分析から遺伝的に、アイヌから見て琉球人が最も近縁であり、次いで日本本土人が近縁であるという研究結果が発表されている。・・・
<他方>で、薩摩侵攻時の王府三司官であった謝名利山や羽地王子朝秀の改革を引き継いだ蔡温らは、1392年・・・に明の洪武帝より<琉球に>下賜され・・・入籍した閩人・久米三十六姓<(注1)>の末裔であり、琉球王朝の高官や学者、政治家を多く輩出している。
(注1)「久米三十六姓<は、>・・・1392年、洪武帝の命により多くの学者や航海士などの職能集団が来琉したと言われる。閩(びん)と呼ばれた現在の福建省からの渡来人であったため閩人三十六姓とも呼ばれた。しかし福建人だけではなく、福建省出身の客家も部分的に含まれた可能性が明らかになってきている。
洪武帝からの下賜と言われるが大量集団移住と言う性格のものではなく、その多くは琉球において次第に形成されていった華人社会が基礎となった見られている。明からの人材提供と言う側面はあった。朝貢事務や船舶の運航に携わるよう琉球への帰化が命じられた事例が確認されている。人材育成の面でも明は支援しており、1392年以降、琉球留学生三五郎亹らを国子監で受け入れた。なお留学生の受け入れは、途中中断をしながらも1868年まで続けられた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E7%B1%B3%E4%B8%89%E5%8D%81%E5%85%AD%E5%A7%93
その多くは久米士族として琉球人と同化していった。・・・
1429年・・・、第一尚氏王統の尚巴志王の三山統一によって琉球王国が成立したと考えられている。・・・<これを、>第一尚氏王統<と呼ぶ。>・・・
<そして、>1469年<に>・・・成立した・・・第二尚氏王統は、・・・1571年・・・には奄美群島北部まで征服し、最大版図を築いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E7%8E%8B%E5%9B%BD
「『漂到琉球国記』(1243年・・・)や臨済僧虎関師錬著『元亨釈書』(1322年)では、日本から見て奄美大島を含めた南方の島々は日本の影響下にあり「貴海国」と称され、いっぽう奄美より南の「琉球国」は異域と見做されていた。
13世紀頃の『平家物語』でも、奄美と沖縄は違うと捉えられていた。・・・
<ところが、その後、>日本本土は群雄割拠と戦乱の時代に向かっており、京や関東はおろか九州からも遠く離れた辺境の奄美群島への関心および影響力は次第に衰微した。その隙を狙い、琉球王国は勢力の拡大に成功した<(すぐ下参照)・・・。
<但し、>例外的に、琉球王国や奄美大島の「隣国」にあたる薩摩と大隅の守護を務める島津氏や、種子島氏などは交易などを通じて奄美群島への関心を持ち続けた。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%84%E7%BE%8E%E7%BE%A4%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
「・・・南九州の島津氏7代島津元久は1410年、多数の南方物産を足利将軍に献上している。15世紀後半になると細川氏と大内氏の海外交易を巡る対立から、堺商船は紀伊水道を南下し高知沖を通り南九州を経由して南島に至った。これに対し大内氏は周防灘から東九州沖、南九州を経由して南島へのルートを取り、いずれの勢力も島津勢力圏への寄港や警固依頼をしており、これにより島津氏は朱印状の発給など、大和側からの交易独占権を事実上持つようになった。これに関し1472年に尚円王から僧に持たせた書簡や、1559年に首里天界寺の僧と世名城大屋子を派遣において、琉球側は諒解する旨を伝えている。1516年には備中国の三宅和泉守国秀が琉球に攻め入るため12隻の船団で坊津に入港、これに対し島津氏は交易の独占を侵すものとして幕府の許しを得て三宅の船団を尽く討ち滅ぼしている。以上のように島津義久の代、1570年代以前は、島津氏と琉球は表面的ながらも修好関係を保っていた。
<しかし、>実際<に>は、琉球王国が成立した15世紀半ば以降、奄美大島群島の交易利権等を巡って、王国と日本との衝突が起きていた。それ以前の15世紀には奄美南部の沖永良部島と与論島は既に王国の支配下に入っており、1466年までには大島、喜界島など奄美群島全域が王国の支配下に入った。(なお、大隅諸島の種子島・屋久島は古代から大隅国の一部であり、トカラ列島はこの時期、薩摩国寄りの日琉両属関係にあった。)・・・
日本と明間の貿易は、大内氏の滅亡により1549年に日明貿易が途絶えて以降は商人や倭寇(後期倭寇)による私貿易・密貿易が中心であった。日明間の貿易は朝鮮出兵以降は断絶状態であり、私貿易・密貿易が盛んであった。安土桃山時代(1573年 – 1603年)には南蛮貿易が推奨され」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E4%BE%B5%E6%94%BB
⇒島津家/近衛家は、日本が群雄割拠と戦乱の時代となり、また、島津家自体においても内紛が続き、島津忠良・貴久親子によって内紛が完全に克服されるのは1552年で、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%BF%A0%E8%89%AF
薩摩<全体>を回復するのは貴久の子の義久<(注2)>が当主の時代の1570年であり、引き続き、1574年には大隅<全体>を回復し、更に、1576年に、島津家の昔からの悲願であったところの、日向<全体>の<「回復」>も達成する
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E4%B9%85
ところ、その間、1571年に琉球王国が奄美群島征服を完了するのは指をくわえて眺めているしかなかったわけだ。
(注2)「義久<は、>・・・細川幽斎から古今伝授を受けたり、関白・近衛前久との親交が厚かったなど、教養人でもあった<。>・・・
ある日、義久の居城の城門があまりにも質素なので、弟が「他国の使者が来た時に恥ずかしいのでは?」といったところ、「小板葺きにして立派になっても、百姓が疲れきっているようでは、使者は国主の政治が良くないことを見抜くだろう。使者になるほどの者は、様々なことに気付く者だ。途中、当国の地を通って風俗、生活を見て、富み栄えているか、城門が粗末であろうと何の問題もない。むしろ、城門は立派なのに民衆が疲労している方が問題だ」と言い返した。・・・
1586年・・・、義久は豊臣秀吉から直書をもって大友宗麟との和睦と豊臣氏への臣従を迫られたが、1月11日に出した書状では宛名を細川幽斎にして和睦・臣従を拒むという返信を送っている。この内容は秀吉の出自の低さを厳しく指摘する内容であり、その後、島津氏に対する秀吉の心証を非常に害した可能性がある。<↓>
「この御返書、関白殿へにて候へば、勿論その通りに相応の御請けをなすべく候。さりながら羽柴事は、寔(まこと)に由来なき仁と世上沙汰候。当家の事は、頼朝已来愁変なき御家の事に候。しかるに羽柴へ、関白殿あつかいの返書は笑止の由どもに候。また、右の如きの故なき仁に関白を御免の事、ただ綸言の軽きにてこそ候へ。何様に敬はれ候ても苦しかるまじきよし、申す人も候。(以下省略)」」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E4%B9%85
しかも、後述するように、島津氏は、九州内のキリシタン勢力の脅威にも晒され始めていた。(太田)
(2)本題–島津義久と石田三成の観点から
信長・秀吉によるところの、九州平定は、近衛・島津家によるところの、信長流日蓮主義への協力、及び、キリシタン(大友宗麟ら)と秀吉流日蓮主義への抵抗、がもたらしたものだった。↓
「大友氏<の>・・・第21代当主・義鎮<(よししげ)(大友宗麟。1530~1587年)>・・・は<、>立花道雪<(3)>ら有能な家臣団の存在にも助けられ、・・・飛躍的に・・・大友家<の>・・・勢力を拡大する。・・・
(注3)1513~1585年。「本人は立花姓を名乗っておらず、戸次鑑連<(べっきあきつら)>または戸次道雪で通している。<ちなみに、戸次氏は大友氏の庶家(※)だ。>・・・道雪はただ1人の愛娘である誾千代に家督を譲り、立花山城主としている。・・・1581年・・・、同じ大友氏の一族・家臣であり、道雪と同じく高橋氏の名跡を継いでいた高橋紹運の子・統虎を婿養子に迎え、家督を譲っている。・・・
[1578年・・・年7月、・・・<に>正式にキリスト教徒となった・・・大友宗麟
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E7%BE%A9%E9%8E%AE ]
<・・ 「1551年9月、ザビエル<が>豊後国に到着<し、>大友義鎮(後の宗麟)に迎えられ、その保護を受けて宣教を行った」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%82%B6%E3%83%93%E3%82%A8%E3%83%AB
という経緯あり・・>は<、>島津氏討伐を企図し始める。
道雪はこの方針に反対していたが、宗麟は<島津領の>日向侵攻を強行した。この際、道雪は従軍していなかった。この日向侵攻により発生した耳川の戦いで大友勢は大敗を喫し、宗麟の参謀役・・・や重臣<達>・・・など多数の有力武将を失っている。これにより、大友家の勢力は大いに衰えることになった。この大敗を知った際、道雪は宗麟とその嫡子の大友義統、そしてこの合戦を指揮した重臣を痛烈に批判した。
以後、大友氏は島津氏に対して守勢に回ることになる。この不利な情勢下で道雪は家臣の離反が相次ぐ大友氏に忠誠を尽くし、高橋紹運とともに島津氏と戦い続けることになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E8%8A%B1%E9%81%93%E9%9B%AA
1551年<8~9月>・・・に・・・大内義隆が家臣の陶隆房(陶晴賢)の謀反(大寧寺の変)により死去すると、義鎮は弟の大内義長を大内家当主として送り込み、北九州の旧大内領はもとより、周防や長門にも影響力を誇った。・・・1557年・・・に義長が毛利元就に討たれて大内氏が滅亡すると、周防・長門方面での影響力は失ったが、北九州の権益の大半は確保した。さらに義鎮はキリシタンを保護し、自らも改宗した。このことにより豊後府内(現大分市錦町・顕徳町付近)には日本初の西洋式病院が設けられるなど、南蛮文化が花開いたが、反面、元来より八幡信仰や仏教信仰の篤い家臣団との不和をもたらすこととなった。
⇒大友宗麟と家臣団中、反キリシタンの者達、等との間でぎくしゃくした状況が出来したわけだ。(太田)
また、義鎮は・・・1556年・・・頃に臼杵の丹生島城に本拠地を移している。近年の研究ではこれは政庁機能を全面的に府内から移転させたものであったとされている。
また、義鎮が早くに家督を子の大友義統に譲って第22代当主と成したが、これにより天正年間には義鎮・義統の二元政治の弊害が現れ、大友家の内部に抗争が起こるようになる。
⇒この大友氏の親子間の不和も一つの理由として、義統はキリシタンにならなかった・・但し、後述参照・・と考えられる。(太田)
さらに対外戦争でも、・・・1570年・・・の今山の戦いで龍造寺隆信に、・・・<そして「注3」で紹介したように、>1578年・・・の耳川の戦いで島津義久に大敗を喫した。特に後者の大敗では多くの有力武将を失う結果となり、それまで大友氏の幕下にあった肥前・筑前・筑後の国人領主が、龍造寺氏や秋月氏を筆頭に次々と謀反の反旗を翻し、大友氏は危機的状況に陥る。・・・
1584年・・・、龍造寺隆信が島津氏の前に戦死すると、筑後方面で巻き返しを図るが、今度は島津氏<側から>の侵略を受けることとなり、・・・1586年・・・には大友家の本国である豊後にまで侵攻され、旧府内の町は焼け野原になることとなった。
⇒先に手を出したのは宗麟であり(「注3」)、義久をこれを奇禍として、九州におけるキリシタン勢力の雄たる宗麟に大打撃を与えようとしたのだろう。(太田)
しかし、義鎮は当時の天下人である豊臣秀吉に支援を要請して自ら臣従したことにより、秀吉の九州征伐が開始されることとなり、島津氏は豊臣氏との戦いで完敗・放逐され(根白坂の戦い)、大友家は豊臣政権下で存続することとなった。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E6%B0%8F ※
⇒後述。(太田)
「大友 義統<(おおともよしむね。1558~1610年)は、>・・・1587年・・・4月に、・・・隣国の豊臣大名・黒田孝高の強い勧めで、夫人や子供らと共にキリスト教の洗礼を受けコンスタンチノという洗礼名を受けていたが、6月に発令された秀吉の棄教令により、棄教した。・・・
つまり<、彼が>キリスト教に帰依したのは、僅か2ヶ月である。・・・
1593年・・・、平壌城の戦いで明の大軍に包囲されていた小西行長から救援要請を受けたが、行長が戦死したという家臣からの誤報を信じて撤退し、鳳山城も放棄した。ところが行長は自力で脱出したことから、吉統は結果的に窮地の味方を見捨てた格好になった。これが秀吉の逆鱗に触れ、軍目付の熊谷直盛、福原直高が派遣されて詰問されて名護屋城に召還を命じられる。
吉統は剃髪して宗厳を号し、大友家は源頼朝以来の由緒ある家であるとして死一等は減じられたものの、石田三成<(注4)>らの意見を聞いた秀吉から・・・改易を言い渡された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E7%BE%A9%E7%B5%B1
(注4)「秀吉の初政時代に生まれた側近勢力の中心人物は秀吉の異父弟の羽柴小一郎秀長だった。<後は、>・・・茶匠の千利休である。そのほか・・・医師の徳雲軒全宗、あるいは堺衆の豪商茶人今井宗久・津田宗及らだった。・・・
<1585>年・・・秀吉は関白に任ぜられ、・・・名実ともの秀吉政権<が>成立<し、>・・・<織田信長によって任命された>前田玄以<が>京都奉行に留任<し>、翌<1586>年に<は>・・・石田三成と<小西行長の父の>小西立佐が<側近に登用される。>・・・
<ところが、1591>年正月、豊臣秀長が病死し・・・その2月、千利休が勘気をうけ死を命ぜられた。・・・
<この>利休事件に三成が関係していることは<明らかだ>。・・・
<そして、>小田原役で秀吉の全国平定は完了し・・・秀吉が宿志の大陸出兵に踏み切るとき<がやってき>た。・・・
<このように見てくると、>秀長の死に乗じて<、三成を中心として、秀吉の>武家官僚<達>がいっきょに<自分達以外の>側近勢力排除に起ったといえるだろう。」(永島福太郎「豊臣秀吉政権と武家官僚」より)
https://core.ac.uk/download/pdf/143630555.pdf
なお、秀吉は、「1584年・・・11月21日、従三位権大納言に叙任され、これにより公卿となった。この際、将軍兼任を勧められたがこれを断<ってい>る」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89
ところ、このことについて、「山本博文氏・堀新氏・曽根勇二氏編「偽りの秀吉像を打ち壊す」(柏書房)<の中の>堀<新>氏の論文では、・・・秀吉が正親町天皇から征夷大将軍任官を勧められたという「多聞院日記」の・・・1584<年>10月16日条の記事が取り上げられて、それについて論じられています。同時代の公家などの日記を検討し、将軍推任の部分は「直接裏づけることはできない」が、「『多聞院日記』の他の記述は裏づけられ」、将軍推任についての記述も「正確である可能性が高い」と<した上で、>「秀吉は征夷大将軍になりたかったのに、足利義昭に養子入り(本姓を源氏に改姓しようとして)を断られたため、仕方なく関白になったという捉え方は、林羅山の「豊臣秀吉譜」に最初に出てくるものであ<るところ、>それは捏造されたもの<であり、>「この<征夷大将軍任官云々>直後の記事は、<1585>年7月11日の関白任官で」あり、「その直前の出来事として扱われてい」るが、この記事の「時点で秀吉の本姓は、織田信長と同じく平氏で」あり、「将軍任官の条件が本姓源氏であれば、なぜ前年の将軍推任の際に、秀吉の本姓が問題にならなかったの」かという疑問が堀氏によって投げかけられています。」
https://94979272.at.webry.info/201302/article_12.html
また、「堀氏の<この>論文では、将軍任官に、本姓源氏が関係なかったという根拠<として、>・・・1582<年>の朝廷による織田信長への三職推任<が挙げられていま>す。「朝廷が信長に『太政大臣か関白か将軍か』の三職に推任しますが、信長がこれを辞退したことが明らかになっています(堀新『織豊期王権論』校倉書房・2011年)」とあり、この時、「信長が平姓であることを朝廷が問題視した形跡はありません」と指摘されています。・・・」
https://94979272.at.webry.info/201302/article_13.html
ちなみに、堀新(1961年~)は、早大文(日本史)卒、同大院単位取得退学、共立女子大講師、助教授、教授。早大博士(文)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E6%96%B0_(%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%AD%A6%E8%80%85)
という人物だ。
⇒朝廷としては、義昭を解任し、秀吉を新たな征夷大将軍に任ずる用意があったが、秀吉は、関白、そして、太政大臣へと成り上がるつもりでいて、征夷大将軍になる気など、最初からなかった、と見てよかろう。(太田)
今度は、以上を、島津家の側から見てみよう。↓
「1578年・・・7月、・・・宣教師のフランシスコ・カブラルから洗礼を受け、洗礼名を「ドン・フランシスコ」と名乗り、正式にキリスト教徒となった・・・大友宗麟」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E7%BE%A9%E9%8E%AE 前掲
が、「1578年・・・10月、大軍を率いて日向国に侵攻してきた。宗麟は務志賀(延岡市無鹿)に止まり、田原紹忍<(注5)>が総大将となり、田北鎮周・佐伯宗天ら4万3千を率いて、戦いの指揮を取ることになった。
(注5)じょうにん(田原親賢(ちかかた)。?~1600年)。「大友宗麟の正室・奈多氏の兄(一説には弟)にあたるため、側近として重用された。・・・
親賢はキリスト教を嫌悪したらしく、・・・1568年・・・に柳原氏から養子にした親虎が・・・1577年・・・に洗礼を受けてキリシタンとなったことを知ると、奈多夫人と相談してこれを廃嫡したほどである。・・・耳川の敗戦はキリシタン信仰によるものとし、キリスト教の施設の破却を宗麟に主張している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%8E%9F%E8%A6%AA%E8%B3%A2
島津軍は山田有信を高城に、後方の佐土原に末弟の島津家久を置いていたが、大友軍が日向国に侵攻すると家久らも高城に入城し、城兵は3千余人となった。大友軍は高城を囲み、両軍による一進一退の攻防が続いた。
11月、義久は2万余人の軍勢を率いて出陣し、佐土原に着陣した。島津軍は大友軍に奇襲をかけて成功し、高城川を挟んで大友軍の対岸の根城坂に着陣した。大友軍は宗麟がいないこともあり、団結力に欠けていた。大友軍の田北鎮周が無断で島津軍を攻撃し、これに佐伯宗天が続いた。無秩序に攻めてくる大友軍を相手に義久は「釣り野伏せ」という戦法を使い、川を越えて追撃してきた大友軍に伏兵を次々と繰り出して壊滅させた。島津方は田北鎮周や佐伯宗天を始め、吉弘鎮信や斎藤鎮実・軍師の角隈石宗など主だった武将を初め2千から3千の首級を挙げた(耳川の戦い)。 この大友氏の敗退に伴い、宗麟が守護を務める肥後国から、名和氏と城氏が島津氏に誼を通じてくる。
・・・1580年・・・、島津氏と織田信長との間で交渉が開始される。これは信長が毛利氏攻撃に大友氏を参戦させるため、大友氏と敵対している島津氏を和睦させようというものであった。この交渉には朝廷の近衛前久が加わっている。最終的に義久は信長を「上様」と認めて大友氏との和睦を受諾し、・・・1582年・・・後半の毛利攻めに参陣する計画を立てていたが、本能寺の変で信長が倒れたことにより実現はしなかった。
⇒近衛前久が、自身のイニシアティヴで、近衛家と一心同体に近い島津家に働きかけ、信長に西国を先行した形で全国統一を早期に概成させ、信長の日蓮主義を引き続き大陸へと志向させようとした、といった私見を申し上げたことがある(コラム#省略)。(太田)
・・・1581年・・・には球磨の相良氏が降伏、これを帰順させている。
耳川の戦いで大友氏が衰退すると、肥前国の龍造寺隆信<(注6)>が台頭してきた。<そして、>龍造寺隆信の圧迫に耐えかねた有馬晴信が八代にいた義弘・家久に援軍を要請してきた。
(注6)1529~1584年。「キリスト教には否定的だったようで、三男・後藤家信がキリスト教に入信しようとした際、これに猛反対して入信をやめさせた事もあるという」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E9%80%A0%E5%AF%BA%E9%9A%86%E4%BF%A1
それに応えた島津軍は・・・1582年・・・、龍造寺方の千々石城を攻め落として300人を打ち取った。これを機に、晴信は人質を差し出し、島津氏に服属した。翌年、有馬氏の親戚である安徳城主の安徳純俊が龍造寺氏に背いた。島津軍は八代に待機していた新納忠堯・川上忠堅ら1,000余人が援軍として安徳城に入り、深江城を攻撃した。
1584年・・・、義久は家久を総大将として島原に派遣し、自らは肥後国の水俣まで出陣した。家久は3,000人を率いて島原湾を渡海し、安徳城に入った。有馬勢と合わせて5,000余りで、龍造寺軍2万5千(一説には6万)という圧倒的兵力に立ち向かうことになった。家久は沖田畷と呼ばれる湿地帯にて、龍造寺隆信を<始>め、一門・重臣など3千余人を討ち取り勝利した(沖田畷の戦い)。ほどなくして龍造寺氏は島津氏の軍門に降ることとなった。
<次は、>豊薩合戦<だ。>
1584年・・・、龍造寺氏が島津氏の軍門に降り、肥後国の隈部親永・親泰父子、筑前国の秋月種実らが、次々と島津氏に服属や和睦していった。・・・1585年・・・、義弘を総大将とした島津軍が肥後国の阿蘇惟光<(注7)>を下した(阿蘇合戦)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E4%B9%85
(注7)これみつ(1582~1593年)。「阿蘇神社大宮司。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E8%98%87%E6%83%9F%E5%85%89
「豊後の大友宗麟(義鎮)は、島津氏の圧迫を回避するため、当時畿内近国、北陸、山陽、山陰、四国を平定し天下統一の道を歩んでいた羽柴秀吉に助けを求めた。
これを受け、関白となった秀吉は、・・・1585年・・・10月島津氏と大友氏に対し、朝廷権威を以て停戦を命令した(九州停戦令)。しかし、大友氏は停戦令をすぐさま受け入れたのに対し、島津氏側は家中で激しい議論となった末に停戦令受諾の方針を決定するとともに家臣鎌田政近を秀吉のもとへ派遣して、島津は従前織田信長と近衛前久の調停にしたがって停戦を守ろうとしたのにもかかわらず大友氏側が攻撃を仕掛けてきたので防戦したものであると弁明させた。この論理については大友側も同じ根拠で島津側が命じられた豊薩和平を破ったと主張している。
さらに島津義久は・・・1586年・・・1月、源頼朝以来の名門島津が秀吉のごとき「成り上がり者」を関白として礼遇しない旨を<前述したように>表明した。3月、秀吉が島津氏の使者鎌田政近に対して占領地の過半を大友氏に返還する国分案を提示したが、島津側は「神意」としてこれを拒否、大友攻撃を再開して九州統一戦を進めたため、秀吉は大友氏の手引きによる九州攻めに踏み切った。
島津氏側としては、すでに九州の大半が島津領であるという現状を無視した秀吉の九州国分案は到底受け入れがたいものであった。<1586>年4月5日、大友宗麟は大坂城に秀吉を直接たずね、島津氏からの脅威を取りのぞいてくれるよう懇願している。
秀吉と軍監(戦奉行)黒田孝高は、九州攻めにあたって、なるべく豊臣本隊を使うことなく、すでに秀吉に帰服していた毛利輝元・吉川元春・小早川隆景や、宮部継潤などの中国の大名、あるいは長宗我部元親・十河存保などの四国の大名を用いようとした。・・・
島津氏の軍事行動について、日本史学者池上裕子は「島津は自力で九州の殆どを平定し、その実績を秀吉に認めさせようと考えた」ものであるとしている。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E5%B9%B3%E5%AE%9A
⇒秀吉が、1585年に近衛前久の猶子になり、7月11日に関白であるところの藤原秀吉となった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89 ☆
ばかりのこの当時、秀吉は、短期間で摂関の地位を近衛家等に返納し、(右近衛大将就任後、短期間で無官となった信長
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7
同様、)無官となった上で、信長流日蓮主義者として、全国統一を西国を先行させた形で行った上で唐入りに乗り出す、と、前久は思い込んでいたはずだ。(太田)
「島津家中でも論議を重ねたが、義久はこれを無視し、大友氏の所領の筑前国の攻撃を命じた。・・・1586年・・・7月、義久は八代に本陣を置いて筑前攻めの指揮を取った。筑前へ島津忠長・伊集院忠棟を大将とした2万余が大友方筑紫広門の勝尾城を攻めた。島津軍の攻撃を受け、広門は秋月種実の仲介により開城し軍門に降り、義久は広門を大善寺に幽閉した。これを見て、筑後の原田信種・星野鎮種・草野家清ら、肥前の龍造寺政家の3,000余騎、豊後の城井友綱と長野惟冬の3,000余騎など、大名・国衆が参陣した。
⇒秀吉が発した惣無事令を無視して九州内で北上を続けるよう、近衛前久が島津義久に促したからこそ、義久はこのような行動をとった、というのが私の見方だ。
そして、その目的は、できる限り義久が勢力圏を広げることで、秀吉を自ら出馬させ、その秀吉に形の上だけ抵抗した上で敗れることで、島津家の本拠地と勢力圏をまとまった形でそっくり秀吉に「献上」して、秀吉の九州平定を前倒しで達成させると共に、キリシタン勢力の脅威を秀吉に肌で感じさせることだった、と見る。(太田)
これにより筑前・筑後で残るは高橋紹運<(注8)>の守る岩屋城、立花宗茂<(事実上のキリシタン(コラム#12273))・・立花氏も大友氏の庶家(※)・・>の守る立花城、高橋統増の守る宝満山城のみであった。
(注8)じょううん(1548~1586年)。「立花宗茂の実父<。>・・・
岩屋城の戦いの最中、島津方の武将が城方に矢止めを請い「なぜ仏法を軽んじ、キリスト教に狂い人心を惑わす非道の大友氏に尽くされるのか。貴殿の武功は十分証明されました。降伏されたし」と問いかけた時、紹運は中櫓の上から「主家が隆盛しているときは忠勤に励み、功名を競う者あろうとも、主家が衰えたときには一命を掛けて尽くそうとする者は稀である。貴方自身も島津の家が衰退したとき主家を捨てて命を惜しむのか。武家に生まれた者として恩・仁義を忘れるものは鳥獣以下である」と応え<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E7%B4%B9%E9%81%8B
7月、島津忠長・伊集院忠棟を大将とした3万余が岩屋城を落とした(岩屋城の戦い)。しかしこの戦いで島津方は上井覚兼が負傷、死者数千の損害を出す誤算となった。直後に宝満山城も陥落させたが立花城は諦め、豊後侵攻へ方針を転換した。島津軍は撤退する際、立花宗茂の追撃を受け高鳥居城・岩屋城・宝満山城を、また幽閉先を脱出した筑紫広門に勝尾城を奪還されている。
義久は肥後側から義弘を大将にした3万700余人、日向側から家久を大将にした1万余人に豊後攻略を命じた。しかし、義弘は志賀親次<(注9)>が守る岡城を初めとした直入郡の諸城の攻略に手間取ったため、大友氏の本拠地を攻めるのは家久だけになっていた。
(注9)ちかつぐ/ちかよし(1566~1660年)。「19歳の若さで家督を継ぐことを命じられた。・・・1585年・・・にはキリシタンとなり、ドン=パウロという洗礼名を得ている。
その後 阿蘇高森城の防衛戦に参戦し、島津軍を退けている ・・・
・・・1586年・・・、薩摩国の島津氏が37000の大軍で豊後国に侵略して来ると(豊薩合戦)、父親度や他の南郡衆が島津氏に味方する中で、親次は1500程の兵で居城・岡城に立て籠もって徹底抗戦し、島津義弘や新納忠元が指揮する島津方の大軍を寡兵で何度も撃退した。鬼ヶ城の決戦では、数千の島津義弘相手に500の兵でこれを散々に打ち負かして見事勝ったと言う。この時の志賀軍の損害は20に留まったと言われる。豊臣秀長の援軍が豊後に上陸すると、反乱した南郡衆を滅ぼし父を自刃させる。その後、一万田城に囚われた5人の島原の武将を救出し、その時にキリスト教を持ち帰ったことから島原の隠れキリシタンのルーツはここよりと思われる。これらーの戦いで見事な采配を振った親次に対し、豊臣秀吉に厚く絶賛された。
その後は祖父親守の後見を受け、岡城を中川家に明け渡し豊臣秀吉から現在の大分県日田市に所領1000石をもらい、島津侵略で多くの家臣を失った大友氏家中において、抜群の武功で名を上げかつ名族でもある親次は発言力を強めていたようである。ところが、こうしたことから主君・吉統(義統より改名)からはかえって疎まれることになった。なかでも、宗麟の死後にキリスト教は禁教とされるも、親次は棄教を拒否し豊後におけるキリシタンの事実上の保護者となっていたが、親次が義乗の大阪訪問に随行中に吉統によって宣教師達は豊後から追放される仕打ちをうけている。
・・・1592年・・・の文禄の役に参陣したとき、誤報を信じたため小西隊が苦戦にも関わらず戦況を見誤り撤退を吉統に進言してしまい、これを敵前逃亡とみなした豊臣秀吉の怒りに触れて、大友氏は改易され親次も所領を失った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E8%B3%80%E8%A6%AA%E6%AC%A1
家久は利光宗魚<(注10)>の守る鶴賀城を攻め、利光宗魚が戦死するも抵抗は続いた。
(注10)としみつそうぎょ(?~1587年)。「主に大友義鑑の子・義鎮(宗麟)とその子・義統父子に仕えた重臣である。・・・1585年・・・に宗麟の勧めを受けてキリシタンの洗礼を受けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A9%E5%85%89%E5%AE%97%E9%AD%9A
⇒ところが、「1586年・・・9月9日、秀吉は正親町天皇から豊臣の姓を賜り、<関白であり続けつつ、>12月25日には<内大臣を辞して>太政大臣に就任し、ここに豊臣政権を確立させた。」(☆)
ちなみに、「称号(家名)は変更された形跡が無いため羽柴(もしくは近衛)のままであった。」(☆)というのだが、(この個所に典拠が付されていないところ、)私は、後に述べる理由から、羽柴→近衛→羽柴、と変遷した、と見ている。
なお、「これより前<の>・・・同年5月に妹・朝日姫を家康の正室として嫁がせ、さらに9月には母・大政所を人質として家康のもとに送り、配下としての上洛を家康に促した。家康もこれに従い、上洛して秀吉への臣従を誓った。だが、結果的には秀吉は家康を軍事的に服属させることには失敗して不完全な主従関係に止まり、家康と北条氏の婚姻同盟関係は継続した。家康は北条氏と秀吉の間では依然として中立の立場を保持する一方、秀吉は徳川氏の軍事的協力と徳川領の軍勢通過の許可が無い限りは北条氏への軍事攻撃は不可能になった。そのため、秀吉は東国に対しては家康を介した「惣無事」政策に依拠せざるを得ず、西国平定を優先する政策を採ることになった。」(☆)というのは、話は逆で、秀吉は、家康を軍事的に服属させることはあえてせず、西国平定を優先する政策を採った、のだ。
1586年の天正大地震によって、「秀吉は家康征伐を中止して和解路線に転じ<た>」(コラム#12122)わけだが、秀吉が、その後、その年に家康の下に実質人質として送り込んだ、実妹である朝日姫が、1588年に大政所の病気の見舞いに上洛した際や、1590に死去する前からも上洛しており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%97%A5%E5%A7%AB
これらの機会を捉えて、家康を征伐すべきだったし、しておれば、成功していたというのにそれをしなかったことを思え。
秀吉のこの逡巡は、後で、と言っても、既に秀吉の存命中に、高くつくことになる。
(「<1592>年3月15日、軍役の動員が命じられ、諸国大名で四国・九州は1万石に付き600人、中国・紀伊は500人、五畿内は400人、近江・尾張・美濃・伊勢の四ヶ国は350人、遠江・三河・駿河・伊豆までは300人でそれより東は200人、若狭以北・能登は300人、越後・出羽は200人と定めて、12月までに大坂に集結せよと号令された。ただしこれらの軍役の割り当ては一律ではなくて、個別の大名の事情によって減免された。動員された兵数の実数はこの8割程度ともいわれる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9
が、このような軍役の割り当ては、家康が唐入りのために動員する兵力を少なく抑えることで、寝首をかかれることを回避することが最大の目的だった、と、私は考えている。
関東以北の兵力は名護屋まで移動する経費が相対的に高くつくわけだが、この問題は、朝鮮半島への渡海作戦に着手するまでの間、水軍を関東以北の諸大名の軍勢の輸送に使えば相当程度克服できたのではなかろうか。
結局、このことにより、唐入りを最大限の兵力でもって一挙に敢行することが不可能になったのだ。)
そして、高くつくどころではないところの、秀吉が、ほぼ同じ時期に犯した致命的な判断ミスが、既述した、関白就任後において、豊臣氏を正親町天皇に下賜させたことだ。
「秀吉が藤原氏から豊臣氏に改めたのは、・・・1586年・・・12月19日の太政大臣任官を契機としているものとみるのが通説である」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E6%B0%8F
ところ、これは、正親町天皇が、信長の時代から、長男の誠仁親王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E8%A6%AA%E7%94%BA%E5%A4%A9%E7%9A%87
への譲位を切望してきていたものの、信長も、そして、恐らくは信長に倣って秀吉も、即位関連の資金の提供を約束しないまま時間が経過し、ついに、誠仁親王が「1586年・・・7月24日」に逝去してしまったところ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%A0%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
意気消沈した正親町天皇に、秀吉が、同天皇の孫で誠仁親王の長男である和仁親王(上掲)の即位、と、それに伴う、同天皇が上皇となった後の仙洞御所<(注11)>の造営のため等に充てる資金の提供話を持ちかけ、その見返りに豊臣氏の下賜を同天皇に飲ませたのだろう。
(注11)「その場所がどこか定かでない。正親町の送り名は、生前ゆかりの地名が冠せられることがあることから、平城京の正親町(上京税務署近く)にゆかりの地即ち<、秀吉が正親町上皇のために建てた>仙洞御所があった可能性がある(藤岡道夫)。」
http://shujakunisiki.her.jp/m-36.html
こうして、「1587年・・・11月25日」に和仁親王は後陽成天皇として天皇に即位し、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%99%BD%E6%88%90%E5%A4%A9%E7%9A%87
秀吉は、その直後の12月19日に藤原から豊臣への改姓に成功する。
秀吉は、(私の想像だが、)信長の日蓮主義を継承して唐入りを実現するためには、守護代家出身の信長なら箔付けに右大臣で十分だったが、自分のような下賤の出の場合、関白くらいにならないと箔付けとして不十分だし、そもそも、「一応」平氏だった信長と違って、自分には姓もない、と、近衛前久に泣きを入れて、日蓮主義者で信長の親友だった彼の心を動かし、1585年7月にその猶子となり、藤原秀吉と名乗った上で、同年7月11日に関白に就任させてもらったところ、前久は、これは単に箔付けのためであって、信長同様、官職は直ぐに返納するだろうと思い込んでいて、秀吉もその思い込みを助長する言動をとっていたのではなかろうか。
ところが、豊臣への改姓がなされた。
秀吉の魂胆は、姓を藤原から豊臣に変更することによって、前久との猶子関係も自動的に解消され、近衛家(前久)との、短期間で関白は返納するとの「約束」を反故にできる、というものだったのではないか、とも。
秀吉にしてみれば、唐入りは、成算は十分過ぎるくらいあるけれど、天皇家を巻き込んだところの、(実動総兵力に関してはともかく、)精神的には天皇家を巻き込んだ総力戦でなければ成功させられるものではないのであって、自分自身や自分の後継予定者がトップレベルの官職を占め続けることによって、そのことを担保しなければならない、という気持ちだったに違いない。
この時、前久は、秀吉に騙されていたことに気付き、激怒したのではなかろうか。
そして、秀吉が関白の座に座り続け、「1591年・・・12月」に至って、太政大臣のままで、関白の職を甥の秀次に譲る運びになる(注12)ところ、そういったことを、1587年11月月末の時点で、前久は予見するに至っていたのではないか、とも。
(注12) 「羽柴秀次<(年)は、>・・・1585・・・年10月頃、従四位下右近衛権少将に叙任された。
1586年・・・の春頃、秀次はさらに右近衛権中将に叙され、11月25日、豊臣の本姓を秀吉から下賜され、同時に参議にも補任された。
・・・1587年・・・、九州征伐では、前田利家を輔佐として、秀吉の名代で京都留守居を命じられて、秀次は出陣しなかった。11月22日に従三位に昇叙して権中納言に任ぜられた。
・・・1588年・・・4月19日には従二位に昇叙。・・・
<1591>年・・・関白職の世襲のために秀次の官位は、急遽引き上げられ、11月28日には権大納言に任ぜられ、12月4日には内大臣に任ぜられた。・・・12月28日に、秀次は関白に就任して、同時に豊臣氏の氏長者となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E6%AC%A1
前久の嫡子の「近衛信尹<が、>・・・1591年<、12月28日の>・・・豊臣秀次<の>関白就任<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E6%AC%A1
直後に、それ>に反対し<、>豊臣秀吉と対立して左大臣を辞した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%AE%B6
のは、近衛家によるところの、秀吉への、遅ればせながらの、公然たる非難であり、絶縁宣言であった、と、我々は受け止めるべきだろう。(注13)
(注13)「秀吉が太政大臣にはとどまった・・返上するのは1598年の死の直前・・ ・・・ことを通常指摘しませんが、それはおかしい。
というのも、「太政大臣<は、>・・・名誉職として定着して<久しく、わずかに、>・・・天皇元服に際して・・・太政大臣が加冠を務めること<だけ>が先例として<維持されてきていた>」・・・というのに、秀吉の太政大臣任官は、後陽成天皇即位直前の1586年9月20日・・即位は11月25日・・ ・・・より後の12月25日であって、・・・秀吉の発意で、属人的に、太政大臣が非名誉職化させられた、換言すれば、「<支那>の三師と三公を一身に兼ねる<ところの、>・・・太政官が管轄するすべての職務について権限を有する・・・内外の政統べざるな<き>・・・職掌<を>有<する>」・・・、本来の太政大臣へと回帰するに至っていた、更に言えば、関白より上位の最高官職と化していた、と解されるからです。」(コラム#12311)
これは、近衛家の単なる私憤ではない。
天皇家と近衛家は、建武親政/南北朝時代に、天皇家を巻き込んだ日蓮主義か巻き込まない日蓮主義かを巡って分裂し、後者のスタンスをとった北朝側の天皇家と近衛家だけが生き残って、信長、秀吉の時代に至っており、近衛前久・信尹父子は、秀吉が天皇家を巻き込んだ日蓮主義を抱懐している、ということに気付き、激怒したところの、公憤、であった、と、私は見ている。
そもそも、近衛家は、「五摂家の中でも近衛家のみが7、8歳での元服の際に天皇の直筆で名前を賜った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%AE%B6 上掲
ところの、公家の筆頭的存在であり、前久・信尹父子は、正親町上皇(~1593年)/後陽成天皇に、その怒りをぶつけ、同じく天皇家を巻き込まない日蓮主義を抱懐してきたところの、北朝系の天皇家もこの近衛家の秀吉に対する怒りを直ちに共有するところとなった、と、私は見ている次第だ。
そして、電光石火、(翌1588年までに)前久がやったのが、将来における、秀吉ないし秀吉の後継者の権威と権力を失墜させる可能性が高いところの、家康への将軍職宣下を含みとするところの、家康の藤原から源への改姓のお膳立てだ(コラム#12134)。
これを秀吉が咎めることができなかったのは、相手が、激怒させてしまったばかりの前久であって、知力・胆力が抜きんでていて、信長の親友であった、この貴族筆頭の前久、と、秀吉に次ぐ兵力量の動員が可能で信長の盟友であった家康、とが、手を組んでやったことである上、自分自身が、強引に、藤原から豊臣に改姓した「前科」があったからだろうし、ここで、この2人を相手にことを荒げては、唐入りが遠のいてしまうと思ったからだろう。
その秀吉は、「・・・1577年・・・10月、信長から播磨征伐を命じられた秀吉が「中国征伐の後は九州を退治し、更には進んで朝鮮を従へ、明を征伐する許可を請うた」という有名な逸話<が>、堀正意が『朝鮮征伐記』に載せ<たために、>江戸時代から広く信じられており、原典を確認できないので史実とは明言できないが、何らかの由来があった可能性<が>ある」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9
上、「秀吉本人が海外進出の構想を抱いていたことを示す<、原典が存在するところの>史料<が>、・・・1585年・・・以降のものに存在し、史学的には1585年が外征計画を抱いた初めであろうとされ<ており、>関白就任直後の同年9月3日、子飼いの直臣一柳市介(直盛の兄)の書状で「日本国ことは申すにおよばず、唐国まで仰せつけられ候心に候か」という記述がそれである。
・・・1586年・・・3には、『日本西教史』によると、イエズス会準管区長ガスパール・コエリョに対して、国内平定後は日本を弟秀長<(注14)>に譲り、唐国の征服に移るつもりであるから、そのために新たに2,000隻の船の建造させるとしたうえで、堅固なポルトガルの大型軍艦を2隻欲しいから、売却を斡旋してくれまいかと依頼し、征服が上手く行けば中国でもキリスト教の布教を許可すると言ったという記録がある。
(注14)「豊臣秀長<(1540~1591年)は、>・・・従二位、大納言の官位を得て、大和大納言と称される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E9%95%B7
同年4月、毛利輝元への朱印状14カ条のなかの「高麗御渡海事」という箇所で外征の計画を披露し、6月の対馬宗義調への帰順を促す書状でも九州のことが終わり次第、高麗征伐を決行すると予告し<、>また8月5日の安国寺恵瓊と黒田孝高への朱印状でも、九州征伐の後の「唐国」ついても沙汰があったと記述があった。
・・・1587年・・・になると登場頻度は増え、話も徐々に具体化した。九州征伐の後、泰平寺で相良家家臣で連歌師の深水宗方に謁見した際、秀吉は「もはや日本もすでに統一した。この上兵を用いるならば高麗琉球ならん」と述べて和歌を所望。宗方はこれに応えて、「草も木もなびきさみだれの 天のめぐみは高麗百済まで」と詠んで、大いに気に入られたという出来事があった。5月9日、秀吉夫妻に仕える「こほ」という女性への書状において、「かうらい国へ御人しゆつか(はし)かのくにもせひはい申つけ候まま」と記し、九州平定の延長として高麗(朝鮮)平定の意向もあることを示している。6月1日付で本願寺顕如に宛てた朱印状の中にも「我朝之覚候間高麗国王可参内候旨被仰遣候」と記している。
妙満寺文書(5月29日付)によれば、秀吉は北政所に宛てた手紙で、壱岐対馬に人質を求めて出仕を命じただけでなく、朝鮮に入貢を求めて書状を出したこと、唐国まで手に入れようと思うと述べていた。小早川文書によれば、10月14日付の肥後国人一揆後の佐々成政の処罰について、「唐南蛮国迄も従へんと欲するによって、九州の如きは五畿内同前に平定さねばらぬ」と秀吉が述べたという。
秀吉の唐国平定計画は、長期的に順を追って進められており、しかも日本統一の過程と手段や方法が同一であって、諸国王を諸大名と同列に扱ったことに特色と一貫性があった。明への入朝要求はことごとく無視されたことから、その道中の朝鮮は前段階となった。・・・九州征伐の後に日朝交渉は始まっていて、鶴松の誕生や小田原征伐、大仏建立などで中断はあったが、以後はもはや遠征は単なる構想ではなかった。」(上掲)
という次第であり、1587~88年にかけて、既に秀吉の頭の中は、唐入りのシャドーボクシングで占められていた、ということを思え。
そして、1591年1月20日、唐入りの遠征準備を始動させた秀吉
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9
だったが、「1月22日に<秀吉の弟の>秀長が、8月5日には秀吉の嫡男・鶴松が相次いで死去した。通説ではこの年の11月に秀次は秀吉の養嗣子となったとされるが、養子となった時期についても、従来より諸説あって判然としておらず、それ以前に養子とされていたという説もある」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E6%AC%A1
と、秀吉が豊臣家内の出来事への対処にも追われる状態であった、1591年2月28日、秀吉は千利休を切腹させた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%88%A9%E4%BC%91
わけであり、その意味は、この文脈の中で解明されなければなるまい。(後で解明を行う。)(太田)
<1586年>12月、大友軍の援軍として仙石秀久を軍監とした、長宗我部元親・長宗我部信親・十河存保ら総勢6,000余人の豊臣連合軍の先発隊が九州に上陸する。家久はこれを迎え撃つべく戸次川を挟んで対陣した。<12日の>合戦は敵味方4,000余が討死した乱戦であったが、家久は釣り野伏せ戦法を用い豊臣連合軍を圧倒した。長宗我部信親・十河存保が討死し、豊臣連合軍が総崩れとなり勝利した(戸次川の戦い)。
この戦いの後、鶴賀城は家久に降伏した。大友義統は戦わずに北走して豊前との国境に近い高崎山城まで逃げたため、家久は鏡城や小岳城を落として北上し、府内城を落とした。家久は大友宗麟の守る臼杵城を包囲した。
<「城は、宗麟がポルトガルより輸入し「国崩し」と名付けた仏郎機砲(石火矢)<(注15)>の射撃もあり、島津軍に勝利した。その後北上する島津軍は杵築城(大分県杵築市)を攻めたが木付鎮直の激しい抵抗を受け敗北、豊後南部では大友家臣佐伯惟定がいったん島津方に奪われた諸城を奪回して後方を遮断した。また、志賀親次が島津義弘軍を数度にわたって破る戦いを展開した。
肥後の阿蘇から豊後に攻め込んでいた島津義弘の軍勢は12月14日、豊後山野城(竹田市久住)に移動して、そこで冬を越した。家久は豊後の府内城で、当主島津義久は日向国塩見城(宮崎県日向市塩見)で、それぞれ越年した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E5%B9%B3%E5%AE%9A 前掲>
(注15)石火矢(いしびや)=フランキ(仏朗機・仏郎機・仏狼機)=ハラカン(破羅漢)=国崩。「但し、江戸時代では棒火矢(ぼうびや)と呼ばれる矢状の飛翔物を大筒で発射する術が登場するにおよび、それと区別する意味で、単に球状の金属弾を打つ砲を石火矢ということが多いため、江戸時代の記録に「石火矢」とあってもフランキを指すとは限らない。・・・青銅を用いた鋳造製で、砲尾に空けられた穴から直接点火して発射する。最大の特徴は砲身に火薬や弾丸を直接こめるのではなく、子砲とよばれる火薬と弾丸を装填したものが別体式になっている点で、いわばカートリッジのような構造である。これを子母砲という。これにより予め子砲を複数用意しておけば短時間で連射が可能となる。この形式はヨーロッパでは当初艦載砲として好まれた。
融点温度が低い青銅鋳造製のため比較的製造は容易であるが、主原料の銅は鉄に比べて高価である。弱点は本体と子砲の間から発射ガスが噴出する事で、そのため前装式の砲に比べて威力が劣る事であった。後には鉄砲の製造技術を用いて鍛造される鉄製の大筒や和製大砲などの前装式に取って代わられる事になる。
石火矢の初見は大友宗麟が<1576年>に南蛮人から購入した子母砲で、“国崩し”と名付けられ臼杵城の戦いでは攻め寄せた島津軍を撃退した。安土桃山時代の後期には国内で製造される様になり、文禄・慶長の役や関ヶ原の戦い、大坂の陣などで用いられた。因みに江戸初期までは大口径(8センチ以上)の大砲の事は全て石火矢と呼んでいた様で、国史大辞典によれば1639年、肥前国平戸で作られ、江戸幕府へ贈呈された臼砲や、1841年に高島秋帆が作った大砲が「石火矢」と称されていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%81%AB%E7%9F%A2
⇒越年直前、上述の、秀吉の改姓と、それへの近衛前久の憤怒が島津義久に伝えられ、その時点で、島津軍北上の目的が、秀吉の唐入りの促進から妨害へと切り替わった、と、私は想像している。
但し、秀吉を引っ張り出してキリシタンへの警戒心、敵意を植え付ける、という付随的目的は、引き続き維持された、とも。
キリシタン大名の大友宗麟による、(イエズス会を通じて)ポルトガルから輸入した石火矢によって島津軍が敗退したことは、前久やその弟の義弘が、さぞかし、繰り返し、大袈裟に、秀吉との会話の中で持ち出したことだろう。(太田)
<そして、>秀吉<自身が出馬して>の九州征伐<となる。>
・・・1587年<3月上旬
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E5%B9%B3%E5%AE%9A >
・・・、豊臣軍の先鋒の豊臣秀長率いる毛利・小早川・宇喜多軍など総勢10万余人が豊前国に到着し、日向国経由で進軍した。続いて、豊臣秀吉率いる10万余人が小倉に上陸し、肥後経由で薩摩国を目指して進軍した。豊臣軍の上陸を知った豊後の義弘・家久らは退陣を余儀なくされ、大友軍に追撃されながら退却した。豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後の諸大名や国人衆は一部を除いて、次々と豊臣方に下った。秀長軍は山田有信ら1,500余人が籠る高城を囲んだ。また秀長は高城川を隔てた根白坂に陣を構え、後詰してくる島津軍に備えた。島津軍は後詰として、義弘・家久など2万余人が宮部継潤の陣に夜襲を仕掛たが、継潤が抗戦している間に、藤堂高虎・黒田孝高が合流する。島津軍の夜襲は失敗に終わり、島津軍は多くの犠牲を出し、本国・薩摩国へと撤退・敗走した(根白坂の戦い)。
島津の本領に豊臣軍が迫ると、出水城主の島津忠辰はさして抗戦せずに降伏、以前から秀吉と交渉に当たっていた伊集院忠棟も自ら人質となり秀長に降伏、家久も城を開城して降伏した。義久は鹿児島に戻り、剃髪して、名を龍伯と改めた。その後、伊集院忠棟とともに川内の泰平寺で秀吉と会見し、正式に降伏した。
<ところが、>義久は降伏したものの、義弘・歳久・新納忠元・北郷時久らは抗戦を続けていた。高野山の木食応其から和議を促され義久は彼らに降伏を命じたが、歳久は<、なお、>これに不服であり、秀吉の駕籠に矢を射かけるという事件を起こしている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E4%B9%85
⇒義久が、近衛前久とも気脈を通じつつ、弟の義弘や歳久らと相談を上、この義弘や歳久に秀吉への反抗を続けさせた、ということだろう。
その狙いは、唐入りの出撃拠点になるであろう九州を完全には安定化させない(注16)ことによって、唐入りを断念させ、それができなくても、唐入りを失敗させるところにあった、と見る。
(注16)「秀吉に屈した島津氏に残されたのは薩摩大隅の二国と日向の一部だけだった。しかも太閤検地によって当初の倍以上の石高が計上、すなわち負担の増加を招き、島津家も家臣団も領地の総入れ替えが行われ、当主義久は薩摩鹿児島から大隅富隈へ、義弘が大隅帖佐から薩摩鹿児島へと領地替えとなったが義弘は家中の反発を懸念してこれを辞退して帖佐に留まり、次期当主とされた息子の忠恒が薩摩鹿児島に入ることとなった。また、親秀吉派の家老伊集院忠棟も日向都城に八万石が与えられ、さらに豊臣政権直轄地も定められるなど島津家は分割統治状態になった。特に義久(富隈)、義弘(帖佐)、忠恒(鹿児島)の三勢力は島津家の政策を巡って事あるごとに対立するようになる。
島津家の統治構造の弱体化と分裂は朝鮮出兵によってよりあきらかなものとなる。家中に蔓延する強い反秀吉感情は家臣団のサボタージュとなり、一方で常にさらされる改易の恐怖の前に、面従腹背の綱渡りの対応を余儀なくされた。朝鮮出兵に際しても当初予定の半分以下の兵しか集められず、島津氏は石田三成に対し深く陳謝している。親秀吉派の義弘・忠棟、独立派の義久、反秀吉派の忠恒という対立の構図があり、この構図の中で朝鮮出兵時に三勢力が軍功を競い合った結果としての島津軍の苛烈な活躍がある。」
https://call-of-history.com/archives/15591
「島津忠恒<(ただつね。1576~1638年)は、>・・・薩摩藩初代藩主。・・・戦国大名として島津氏を成長させた島津貴久の孫にあたり、島津義弘の子。・・・後に家久と改名するが、同名の叔父が存在するため、初名の忠恒で呼ばれることが多い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%BF%A0%E6%81%92
1587年7月~12月の肥後国人一揆
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%A5%E5%BE%8C%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E4%B8%80%E6%8F%86
と島津家との関りについては、コラム#12128参照。
その根拠だが、下掲を読めば、更なる説明は要しないのではなかろうか。↓
「歳久<は、>・・・1592年、秀吉の始めた朝鮮出兵(文禄の役)も病気(中風)を理由に出陣しなかった。嘘ではなかったのだが、今回だけではなく普段から上記のように反抗的な態度を取り続けたことから、秀吉は朱印状を、義久、義弘、家久には与えたが、歳久には出していない。これは豊臣秀吉による島津氏を分断する意図であったと思われるが、これ以後も、島津氏は長兄義久から本当に独立してしまった兄弟はいない。
それに加えて、同年に島津氏の家臣が無断で秀吉の籠に矢をいかけ、自分の意に反し秀吉の怒りを一手に買うことになり、兄・義久は、やむを得ず、歳久のもとに追討軍を送ることを決断する。
自分の兵を失うは薩摩島津の兵を失うことと、<歳久は、>初陣ゆかりの岩剣神社に向け<、逃げるように>出港した。
付き従うは二十七人。小舟船足は遅くやがて追討軍に捕捉される歳久は、現在の「平松神社」鳥居付近に上陸、その場を、最後の場と定め切腹を決意し、追跡してきた町田久倍率いる上意軍と戦うことになった。
また追手も太守の実弟ということで手が出せず、歳久にはもはや刀を握る力はなく、傍らにあった石を懐刀と見立て、「早う近づきて首を取れ」と言ったのち、家臣、原田甚次が首を取った。
享年56。歳久の自害のとき、従者二十七人が殉死、討手の者たちも皆槍や刀を投げ捨て、地に倒れ臥し声を上げて泣いたという
亡骸を調べると義久に宛てた遺書と辞世の句が見つかり、そこには「私は病に侵され、太閤の前に出ることが出来なかったのであって、何らやましいところはない。しかし謀反を疑われた以上、島津家安泰のために切腹しようと思う。家臣たちは承服しがたいらしいので武士の本分を貫くべくやむをえず交戦するが、これは兄に対して弓を引こうというものではなく、また、付き従う兵には全く罪はないので残された家族に類が及ばぬように」という主旨の文がしたためられていたと伝わる。
辞世の歌は「晴蓑(せいさ)めが 魂(たま)のありかを 人問わば いざ白雲の 上と答へよ」。
首級は京都・一条戻橋に晒された後島津忠長によって盗み出され京都浄福寺に、遺体は帖佐の総禅寺に、それぞれ葬られ、霊は島津氏歴代の菩提寺・福昌寺にて供養された。また秀吉の没後、歳久最後の地に心岳寺を建立し霊を祭った。
歳久死後、娘婿・忠隣の嫡男・島津常久が跡を継いだ。その子孫は藩政時代を通して日置領9000石を領したために日置島津家と称され、維新に至り男爵に叙された。・・・
旧薩摩藩内ではその生き様から多くの藩士の崇拝を受け、妙円寺詣りと同様に心岳寺詣りも盛んに行われた。また幕末に安政の大獄にて錦江湾海上に追い詰められた西郷隆盛が、自身の覚悟として小舟の上で同乗していた僧月照に歳久の故事を語った後、心岳寺の方角へと手を合わせ闇夜の海に身を投じたともいわれる。
島津義久・義弘の追悼の和歌
島津義久
岩木まで 蔭ふる寺を 来てみれば 雪の深山ぞ 思ひやらるる
住み馴れし 跡の軒端を 尋ねてきて 雫ならねど 濡るる袖かな
写し絵に 写しおきても 魂は かえらぬ道や 夢の浮橋
島津義弘
夕浪に 月と雪とを 待ちとらば いづくはありと 磯の山寺
み佛を 頼むものゆえ 袖に散る あられの玉を 手向けにやせむ」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%AD%B3%E4%B9%85
「<1587年>4月21日、ついに島津義久は伊集院忠棟と平田増宗を人質として秀長に和睦を申し入れた。・・・
義久はいったん鹿児島にもどり、5月6日には同地を出発して途中伊集院(鹿児島県日置市)の雪窓院で剃髪して名を「龍伯」と改めて出家し・・・5月8日、<鹿児島県薩摩川内・・・にある真言宗の寺
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%B0%E5%B9%B3%E5%AF%BA_(%E8%96%A9%E6%91%A9%E5%B7%9D%E5%86%85%E5%B8%82) >
泰平寺に滞留していた秀吉のもとを訪れて降伏した。秀吉は、義久の降伏の意思をすでに聞いており、義久もまた墨染の衣によって俗界を離れる姿勢を示したため、「一命を捨てて走り入ってきたので赦免する」として赦免の措置をとった。
秀吉はその後もしばらく泰平寺に滞在し、5月18日には同寺をはなれて筑前に向かった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E5%B9%B3%E5%AE%9A
⇒この、泰平寺で秀吉との会見で、義久は、(秀吉の隷下の諸大名にキリシタン大名が多いところ、)キリシタンが危険で信用ができないことを、縷々訴えたのではないか。(注17)
(注17)「イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルは戦国時代の日本をよく理解し、まず各地の戦国大名たちに領内での布教の許可を求め、さらに布教を円滑に進めるために大名自身に対する布教も行った。後から来日した宣教師たちも同様に各地の大名に謁見し、領内布教の許可や大名自身への布教を行っている。
その際、大名たちの歓心を得るために、布教の見返りに南蛮貿易や武器・弾薬(特に当時日本で生産できない硝石は羨望の的であった)の援助などを提示した者もおり、大名側もこうした宣教師から得られる利益をより多く得ようと、入信して歓心を買った者もいた。入信した大名の領地では、特に顕著にキリスト教が広がることになった。その後、キリスト教の教義やキリシタン大名の人徳や活躍ぶり(特に高山右近)に感化され、自ら入信する大名が現れ、南蛮貿易に関係のない内陸部などでもキリシタン大名は増えていった。また、畠山高政や六角義賢のように没落したのち改宗した大名もいた。
しかし、キリスト教に入信した大名とその配下達の中には、領地内の寺や神社を破壊したり焼き払ったり僧に冒涜を加えた者もあった。たとえば大村純忠が、領内の寺社や仏像といった偶像を大規模に破壊したことが『大村郷村記』やルイス・フロイスの報告書(1563年11月14日)に記されている。これらの破壊行為は宣教師自らが異教撲滅のため、キリシタン大名に教唆することもあった。また異教撲滅こそが神への奉仕であり、その見返りに神が合戦で勝利をもたらしてくれるという、大名自身の願望もその理由に含まれていただろうと考えられる。・・・
九州<の>・・・キリシタン大名<に>・・・大友義鎮(宗麟)・・・有馬晴信・・・大村純忠<がいる。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%BF%E3%83%B3%E5%A4%A7%E5%90%8D
その目的の第一は、秀吉によってキリシタン禁制を発令してもらうこと、と、秀吉にキリシタン大名を唐入りに用いることを諦めさせ、唐入りそのものに再考を促すこと、であった、と。
ところが、秀吉は、 「<1587>年6月19日)に・・・筑前箱崎(現・福岡県福岡市東区)において・・・バテレン追放令・・・<を>発令」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%B3%E8%BF%BD%E6%94%BE%E4%BB%A4
こそしてくれたものの、実行が伴わず、また、唐入りを再考するどころか、唐入りの陣立て等の検討に着手し(典拠省略)、よりにもよってキリシタン大名を先鋒として使う形での唐入りを1992年に敢行するに至ってしまうことになる。
目的の第二は、嘉吉附庸論(注18)(コラム#12309)を史実として秀吉にインプットした上で、島津家による琉球の征服を認めてもらうことだったのではないか。
(注18)「豊臣秀吉が明とその進路にある李氏朝鮮を征服しようとし、琉球王国に助勢するよう薩摩藩を通じて直接これを恫喝したが、王府の財政事情や明の冊封国である事から、要求の兵糧米の半分を差し出すに留まり、残りの兵糧と軍役は薩摩藩が負担した。
1609年・・・、島津氏の渡航朱印状を帯びない船舶の取締りや、徳川への謝恩使の再三の要求に最後通牒を突き付けられてもなお応じず黙殺したため、家康・秀忠の許しにより、薩摩藩は琉球侵攻に乗り出した。島津氏は3000名の兵を率いて3月4日に薩摩を出発、3月8日に奄美大島に進軍。3月26日には沖縄本島に上陸し、4月1日には首里城にまで進軍した。島津軍に対して、琉球軍は島津軍より多い4000名の兵士を集めて抗したが敵せず敗れた。4月5日には尚寧王が和睦を申し入れて首里城は開城した。
これ以降、王国代々の王と三司官は「琉球は古来島津氏の附庸国である」と述べた起請文の薩摩藩への提出を命じられ、「掟十五条」を認めさせられるなど、琉球王国は薩摩藩の付庸国となり、同藩の間接支配下に入る事になる。薩摩藩への貢納、中城王子(王世子)の藩への上国を義務付けられ、謝恩使・慶賀使の江戸上りで幕府に使節を派遣した。・・・
1622年・・・、八重山に南蛮船が渡来し布教をしたのが琉球におけるキリスト教のはじまりと言われている。既に日本本土ではキリスト教が禁教となり、琉球王国も薩摩藩支配下となっていたため、公には禁止されていた。しかし琉球には南蛮船がたびたび寄港したため布教活動がたびたびあった。キリシタンは摘発されると罰せられた。
琉球における最も大きなキリシタン禁圧は1624年・・・の八重山キリシタン事件である。神父と石垣島の地頭が薩摩藩の要求により処刑されている。1636年・・・、薩摩藩は琉球に宗門改の実施を求めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E7%8E%8B%E5%9B%BD
ところが、これについても、翌1588年に、「豊臣秀吉<が>謁見した島津義弘<(注18-2)>に対し、天下統一するも琉球だけが臣従の例を尽くしておらず、このままでは兵を発して琉球を滅ぼす事になると、これを直接的に恫喝する「上意」を発し<、>その旨<を>1588年の島津義久から尚永王の書簡に著された」(コラム#10329)ところまではよかったけれど、「1592年、かねてから琉球守を自称していた大名亀井茲矩<(注19)>が約三五〇〇名の兵で肥前名護屋城に到着、秀吉の許可を得て大型船で琉球に侵攻する動きを見せ・・・た。」
https://call-of-history.com/archives/15591 前掲
ことに吃驚、「島津氏としては、この動きをなんとしても阻止<すべく、>薩摩と琉球での軍役負担を条件として亀井氏の琉球侵攻中止の命を秀吉から引き出し、これを琉球にも通達、難航していた琉球使節派遣にこぎつけた。
(注18-2)「九州国分後、「義弘<は、>・・・義久から家督を譲られ島津氏の第17代当主になったとされているが、正式に家督相続がなされた事実は確認できず、義久はその後も島津氏の政治・軍事の実権を掌握しているため、恐らくは形式的な家督譲渡であったものと推測されている。また、秀吉やその側近が島津氏の勢力を分裂させる目的で、義久ではなく弟の義弘を当主として扱ったという説もある。・・・1588年・・・に上洛した義弘に羽柴の名字と豊臣の本姓が下賜され<、>以降、羽柴兵庫頭豊臣義弘(後に出家し羽柴兵庫入道)となる。一方、義久には羽柴の名字のみが下賜された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E5%BC%98
というのですが、これまた、島津氏は、義久の全般的指揮の下、兄弟で協議して、反秀吉派と親秀吉派をでっちあげ、秀吉を含む世間の目を欺こうとした、というのが私の見方です。(太田)」(コラム#12130)
(注19)これのり(1557~1612年)は、「尼子氏の家臣・湯永綱の長男<だが、>・・・山中幸盛<(鹿介)>・・・の養女(亀井秀綱の次女)を娶り、亀井姓を名乗ってその名跡を継いだ。・・・
秀吉が中国大返しによって姫路城に戻った6月7日の翌日、毛利と講和したため茲矩に約束していた出雲半国の代わりに恩賞となる別国の希望を聞いたところ「琉球国を賜りたい」と答えたため、秀吉は「亀井琉球守殿」と書いた扇を茲矩に授けたという(『寛永諸家系図伝』)。しかし、茲矩は朝鮮出兵初年にこの扇を搭載した船を李舜臣の攻撃で奪われた。・・・琉球守は律令にないユニークな官職名であり、茲矩も琉球征伐を秀吉に申し出て一度は許可されている。しかし豊臣政権として琉球政策は島津氏を取次とする支配体系となったため、権益を有する島津家からの妨害もあって茲矩の官職名は九州征伐の頃から小田原征伐の頃にかけて武蔵守となっている。その後、台州守の号を称したが、これは現在の中華人民共和国浙江省の台州市のことである。ただし、文禄・慶長の役で明攻略が挫折した以降は再び武蔵守を名乗っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E4%BA%95%E8%8C%B2%E7%9F%A9
山中幸盛が日蓮宗信徒であったかどうかは不明(コラム#10123)であるところ、亀井茲矩が日蓮主義者であったことは、以上から明らかであって、そうである以上は、「義父」たる幸盛も少なくとも日蓮主義者であった可能性が高い、と思う。
この時、単なる使節派遣<だったもの>を琉球が従属したと勘違いした秀吉は琉球を薩摩の「与力」とする命を下し<、>以降、琉球との書簡で島津氏は亀井氏琉球侵攻阻止の一件を事あるごとに持ちだして交渉を優位に進めようと試みるようになる。」(上掲)
と、胸をなでおろした、という次第だ。
なお、「1587年・・・、豊臣秀吉に降った島津氏は領地争いの終了で軍事的経済的余裕が生まれ、秀吉から琉球に課された琉球軍役(兵糧米)を薩摩が半分肩代り(琉球は半分を負担)した事などを理由として、琉球王国に対する圧力を更に強めていった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%84%E7%BE%8E%E7%BE%A4%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2 前掲
さて、こうして、唐入りのための派兵そのものを秀吉に先延ばしさせることに失敗した義久は、派兵後に唐入りを挫折させるための布石を、次々に打って行った、と、私は見ている。
第一に、秀吉がキリシタン大名達を唐入りの先鋒に使う以上は、彼らが、イエズス会の「指示」を受けて、取敢えず、唐入りの第一波を挫折させてくれるだろうが、その結果、秀吉が、キリシタン大名を除いた形で、派兵勢力を再編成する形で第二派を企画し、実行に移すことがないような算段を講じようとしたのではないか。
第二に、これは、島津家と一体である近衛家が担うことになったと思われるが、豊臣家そのものを分裂させて、豊臣家が、一丸となって派兵の中心勢力となるのを不可能ならしめることだったのではないか。
まず、第一の目的のために、義久が取り込みを図ったのが石田三成だ。↓
「石田三成<は、>・・・九州平定後、博多奉行を命じられ、軍監の黒田孝高らと共に博多町割り、復興に従事した。
⇒石田三成が、どうして、秀吉に重用されたかだが、私は、彼が1590年までに、島清興(注20)(通称島左近)を、「三成の禄高4万石のうちの半分を与えられるという破格の待遇で・・・召し抱え・・・た」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B8%85%E8%88%88
ことが決め手になったと見ている。
(注20)1540~1600年?)。「関ヶ原の戦いの前日・・・の夜に島津義弘・小西行長らと共に提案した夜襲は、三成に受け入れられずに終わった<が、>・・・関ヶ原合戦での戦いぶりは、徳川方をして「誠に身の毛も立ちて汗の出るなり」と恐れさせた<。>・・・<5か所の墓所の筆頭に>京都<の>・・・立本寺教法院<が出てくる。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B8%85%E8%88%88
妙本寺は日蓮宗の寺院。島左近の墓の写真が載っている。↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E6%9C%AC%E5%AF%BA
⇒「注20」に出てくる、三成によるの夜襲の拒否は、三成が、関ヶ原の戦いで勝利を収める・・戦術的勝利を含む・・ことなど考えていなかったことの傍証の一つだと私は考えている。(太田)
「注20」から、左近が軍師として、また、武将として、傑出していたことが窺えるが、それ以上に重要だったかもしれないのが、彼が日蓮宗信徒であり、日蓮主義の何たるかを知悉していたと思われることだ。
三成は、左近のおかげで日蓮主義に通暁することができ、自身が日蓮主義者になったかどうかはともかくとして、近衛前久・信尹/島津義久の信長流日蓮主義と秀吉の秀吉流日蓮主義の違い、等が完全に理解でき、秀吉にとって、三成は、能吏にして・・ここまでは自前・・優秀な武将にして自分の最大の理解者・・ここはどちらも右近のおかげ・・、と受け止められたのではなかろうか。(太田)
また、・・・1588年・・・、取次として薩摩国の島津義久の秀吉への謁見を斡旋した。・・・
⇒この折、義久は、三成に対して直接、後陽成天皇が関白秀吉によるところの、天皇家を巻き込んだ形での唐入りに反対していること、これは島津家と縁が深い近衛家から得られた情報であること、帰京の折に直接近衛家にそのことを確認されたい旨を三成に伝えた上で、来るべき唐入りにあたっては、いずれにせよ、朝鮮事情に通暁している宗氏を先鋒に入れなければならないところ、現在の当主の義智はキリシタンで、同じくキリシタン大名である小西行長の女婿である
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E7%BE%A9%E6%99%BA
ことから、先鋒の司令官を行長とし、(バテレン追放令下で必死の働きをしなければ秀吉に切り捨てられかねないと思っているに違いないところの、)キリシタン大名ばかりで先鋒を構成するよう秀吉に進言し、実現させて欲しいこと、そうすれば、明への布教を行いつつあるイエズス会は、前年にバテレン追放令を出した秀吉が明を征服するのを妨げるべく、行長らに、唐入りのサボタージュを依頼することが必至であって、行長らは、秀吉の期待に反し、この依頼に沿った行動をとり、その結果として、唐入りが挫折するであろうことを伝え、結果的に三成はこの義久の要請を受諾した、と、私は想像している。
一方、京では、近衛前久・信尹父子が、秀吉を関係の深い人々のうち信頼の置けるとふんだ何人かに、言質を与えない形で、極秘のうちに、後陽成天皇や自分達が秀吉の唐入り計画に強い懸念を抱いている旨を伝える活動を行った、と見たい。
伝えられた人々のうちの一人が千利休だったが、利休が、これまた、茶席等で、信頼の置けるとふんだ何人かに言質を与えない形で、この話をささやいた、とも。
ところが、この動きが秀吉に察知されるところとなり、後陽成天皇と近衛父子、等、への警告の意味で、1591年2月末に、秀吉は、利休に切腹を命じた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%88%A9%E4%BC%91
のではないか。
この私の、一見ぶっとんだ新説を念頭に置いて、三成に係る続きであるところの、下掲↓、を読んでみて欲しい。(太田)
<三成は、>1592年・・・からの文禄の役(朝鮮出兵)では渡海し、増田長盛や大谷吉継と共に漢城に駐留して朝鮮出兵の総奉行を務める。・・・1593年・・・、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いに参加。その後、明軍の講和使・謝用梓、徐一貫を伴って肥前名護屋城に戻るなど、明との講和交渉に積極的役割を果たしている。 しかし、秀吉と現地の連絡役という立場の行動は、豊臣家中で福島正則<(注20-2)>、黒田長政ら武断派の反発を招いた。
(注20-2)1561~1624年。「尾張国海東郡二ツ寺村(現・愛知県あま市二ツ寺屋敷)で桶屋・・・の長男として生まれたという。しかし、<この>父・・・は義父であったともいわれている。後者の場合、実父と目されているのは、同国春日井郡の清洲村界隈(旧・愛知県西春日井郡清洲町、現在の清須市の中核地域)の桶大工・・・である。母は、秀吉(のちの豊臣秀吉)の母(のちの大政所)の妹(秀吉の叔母)にあたる人物である。・・・賤ヶ岳の七本槍の<一人。>・・・
文禄の役では五番隊の主将として戸田勝隆、長宗我部元親、蜂須賀家政、生駒親正、来島通総などを率いて京畿道の攻略にあたった。年末には京畿道竹山の守備についた。この後、正則はいったん日本に帰国し、文禄3年(1594年)1月に再び朝鮮に渡った。 講和交渉の進展により南部布陣が決まったため、正則は巨済島の松真浦城や場門浦城の守備、補給などの兵站活動を担当した。10月、朝鮮水軍を率いる李舜臣が場門浦を攻撃した時(場門浦海戦)には正則自ら軍船に乗って指揮を執り、敵船を焼き討ちするなどの反撃でこれを撃退した。・・・
続く慶長の役には参加しなかった正則であったが、慶長4年(1599年)に秀吉は朝鮮半島に大軍勢を派遣して大規模な軍事行動を計画しており、その軍勢の大将として石田三成と増田長盛とともに抜擢されていた。・・・
1611年・・・3月、家康が秀頼に対し二条城での会見を迫った時には、いまなお豊臣家が主筋と自負して強硬に反対した淀殿を加藤清正や浅野幸長とともに説得し、秀頼の上洛を実現させた。なお正則自身は病と称して会見に同席せず、枚方から京の街道筋を1万の軍勢で固めて変事に備えた。・・・
大坂の陣では秀頼に加勢を求められても、正則は拒絶し、大坂の蔵屋敷にあった蔵米8万石の接収を黙認するに留まった。また、一族の福島正守・福島正鎮は豊臣軍に加わった。幕府には従軍も許されず、正則は冬の陣、夏の陣ともに江戸留守居役を命じられたが、嫡男の福島忠勝が兵を率いて幕府軍に加わった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E6%AD%A3%E5%89%87
⇒「バテレン追放令により、秀吉から改宗を迫られ、父の孝高が率先してキリスト教を棄教すると長政自らも改宗した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E9%95%B7%E6%94%BF
ことから、父子ともにいわゆる敬虔なキリシタンではなかったのだろう。
唐入りの時点で、長政が既にキリシタンではなかった、ということを念頭に留めておいて欲しい。。
で、「文治派」「武断派」というレッテルは、一般に使われてきたものだが、怪我の功名で、まことにもって適切な命名なのであり、前者の三成は裏から手を回して明との「和平」を追求したのに対し、その動きを察知したところの、唐入りの推進を図りたかった、後者の正則や長政らがそれに強く反発した、というのが私の見方なのだ。(太田)
・・・<三成は、>1594年・・に島津氏・佐竹氏の領国を奉行として検地する。
⇒三成は、当時の日本の南端と北端を、超人的に慌ただしく駆け巡ったわけだが、島津については、別の者が指名される予定であったところを、三成が秀吉に頼み込んでやらせてもらったのではないか。
その目的は、唐との「和平」工作がうまく進んでいることを義久に報告することと、検地を義久にとって有利なように執り行うためだった、と。
なお、この間、秀吉の嫡男の鶴松(1589~1591年8月)が亡くなり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E9%B6%B4%E6%9D%BE
同じ年の12月には、秀吉が関白職を甥で養子にしていた秀次に譲っている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E6%AC%A1
そして、1593年8月、秀頼が生まれ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E9%A0%BC
1595年6月末に秀次切腹事件が出来する。↓(太田)
・・・1595年・・・、秀吉の命により、秀吉の甥・豊臣秀次を謀反の嫌疑により糾問する(秀次事件)。
⇒後に詳述するが、これは、秀次が、後陽成天皇及び近衛前久・信伊父子から、唐入りへの反対の意向を密かに聞かされていたため、秀吉からの出兵命令を拒否するとともに、やむなく代わりに秀吉が命じたところの唐入りへの後方支援までサボタージュしたことが、文禄の役での不首尾をもたらしたと秀吉は考え、謀反の謀議があったとして、秀次の妻妾や子供達のみならず、秀次とかかわりの深い諸大名等まで処罰することによって、天皇家と近衛家に恐怖を与える形で報復を行い、以後彼らによる妨害活動を殆ど不可能ならしめた、というのが私の見方だ。
ところで、かねてから、無官の秀吉が、現役の関白を、いかなる権限があって詮議し、解官し、切腹させ、あまつさえ、眷属殺戮まで行わせることができたのか不思議で仕方だったのだが、秀吉が、太政大臣であって、しかも、かつてのオールマイティの太政大臣だったとすれば、納得できるというものだ。
(関白は、摂政とは違ってあくまでも諮問官であって、天皇に関白(建白)した上で、天皇が関白以外の臣下に命じるわけだが、オールマイティの太政大臣であれば、摂政と同様、基本的に天皇の権限全てに関して自分だけの判断で直接、いかなることであれいかなる臣下に対しても命じることができるわけだ。)(太田)
秀次の死後、その旧領のうち近江7万石が三成の代官地になる。 また、同年に畿内と東国を結ぶ要衝として、軍事的にも政治的にも、重要な拠点である近江佐和山19万4,000石の所領を秀吉から与えられ 、正式に佐和山城主となった。
・・・1596年・・・ 明の講和使節を接待。同年、京都奉行に任じられ、秀吉の命令でキリシタン弾圧を命じられている。 ただし、三成はこの時に捕らえるキリシタンの数を極力減らしたり、秀吉の怒りを宥めて信徒たちが処刑されないように奔走したりするなどの情誼を見せたという(日本二十六聖人)。
⇒キリシタン大名達が、自発的に、しかし、三成と連携して、動いてくれたおかげで、唐入りを挫折させることができた、と、(その時点で)思っていた三成・・キリシタンでもなければ、キリシタン・シンパとさえ思われない・・は、キリシタン大名達だけではなく、キリシタン達全体に対して感謝の念を抱いており、だからこそ、彼らをかばったのだろう。
しかし、「和平」工作が破綻してしまい、秀吉が再出兵を決意したことから、三成は、改めて、唐入りの挫折に向けて腐心しなければならない羽目になった、と見る。↓(太田)
慶長2年(1597年)、慶長の役が始まると国内で後方支援に活躍した。
⇒私は、亡き秀次同様、三成も、「国内で後方支援に活躍した」どころか、「国内で後方支援をサボった」と見ており、そのこともあって、慶長の役の時に渡海した日本軍は、秀吉が命じた戦略守勢を維持することこそ何とかできたものの、大変な苦労を強いられることとなったことから、彼ら司令官達は、そもそも、三成は、文禄の役当時から、唐入りの挫折を図っていて、文禄の役の「和平」工作の背後にも三成がいたのでは、と、(正しく)猜疑心を募らせ、やがて、その思いが確信に変わった段階から、彼らは三成に復讐心をたぎらせるようになった、と見る。↓(太田)
その一方で、この年に起きた蔚山城の戦い<(注21)>の際に在朝鮮の諸将によって戦線縮小が提案され、これに激怒した秀吉によって提案に参加した大名が譴責や所領の一部没収などの処分を受ける事件が起きた。
(注21)
「籠城 加藤清正 太田一吉 浅野幸長
援軍 一番隊 鍋島直茂、勝茂 毛利吉成等 蜂須賀家政 黒田長政
軍監(軍目付) 福原長堯 垣見一直 熊谷直盛 竹中重利
目付 早川長政 竹中隆重 毛利高政
二番隊 加藤嘉明 中川秀成 生駒一正 脇坂安治 山口宗永 池田秀雄
三番隊 毛利秀元
水軍 長曾我部元親等
「蔚山攻防戦の後、宇喜多秀家・毛利秀元・蜂須賀家政ら13将は蔚山・順天・梁山の三城放棄する戦線縮小案(1月26日付、連署注進状)を豊臣秀吉に上申しているが、3月には秀吉の不興を蒙り却下され、僅かに黒田長政の守城が梁山から亀浦に変更されるにとどまった。
この合戦について、軍目付の福原長堯・熊谷直盛・垣見一直は、蔚山救援軍の陣所に一部の明軍部隊が攻撃を仕掛けたとき、先鋒の蜂須賀家政・黒田長政が「合戦をしなかった」と豊臣秀吉に報告した。このため両者は秀吉の不興を蒙り、とくに蜂須賀家政は三城放棄案の件と併せて秀吉の逆鱗に触れ、領国への逼塞が命じられた。他に目付の早川長政・竹中隆重・毛利高政も秀吉の不興を蒙り領国への逼塞が命じられた。一方、福原長堯・熊谷直盛・垣見一直には報告の褒美として豊後国内に新地が与えられた。また秀吉は筑後国・筑前国を石田三成に与えようとした。これは三成が辞退したものの、筑後国・筑前国における蔵入地の代官に三成を任じ筑前国名島城を与えた。
しかし、この蔚山城救援諸将に対する処分は後の・・・1599年・・・に石田三成襲撃事件が発生して三成が失脚すると、発言力を高めた徳川家康は五大老会議を招集し、蔚山城救援諸将に「落ち度がなかったことは歴然としている」との裁定を下し、処分の撤回と名誉回復の処置がとられる。翌・・・1600年・・・には関ヶ原の戦いが起こるが、このとき蜂須賀家政・黒田長政は東軍につくことになる。
また、この際に譴責を受けた諸将の中には加藤清正<(注21-2)>なども含まれていたが、彼らは秀吉への報告を行った福原長堯<(注22)>の縁戚である石田三成がこの処分に関わっていると見て反発を深め、後に所謂「七将」と呼ばれる反・石田三成勢力が結成されるきっかけになったとみられており、結果的には関ヶ原の戦いの一因になった事件であったと考えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%9A%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
(注21-2)1562~1611年。「刀鍛冶・加藤清忠の子として尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に生まれた。・・・1573年)、羽柴秀吉の生母である大政所と母が従姉妹(あるいは遠縁の親戚)であった縁から、近江長浜城主となったばかりの秀吉に・・・仕え<た。>・・・「賤ヶ岳の七本槍」の一人<。>・・・<そ>の清正・・・は、豊臣政権の財務官僚として<腕を振る>った。・・・<やがて、>肥後半国を与えられ<たが、>・・・治績は良好で、田麦を特産品化し南蛮貿易の決済に当てるなど、世に知られた治水以外に商業政策でも優れた手腕を発揮した。・・・1589年)、小西領の天草で一揆が起こると、小西行長の説得を無視して出兵を強行、これを鎮圧している。・・・
文禄の役では二番隊主将となり鍋島直茂、相良頼房などを傘下に置いた。同じく先鋒である小西行長率いる一番隊とは別路をとり、4月17日の釜山上陸後は行長と首都漢城の攻略を競い、5月3日南大門から漢城に入城した。漢城攻略後は一番隊や黒田長政の三番隊と共に北上し、臨津江の戦いで金命元等の朝鮮軍を破る。その後、黄海道金郊駅からは一番隊、三番隊とは別れ東北方向の咸鏡道に向かい、海汀倉の戦いで韓克諴の朝鮮軍を破り、咸鏡道を平定して、現地の朝鮮人によって生け捕りにされていた朝鮮二王子(臨海君・順和君)を捕虜にした。だが、清正の本意は秀吉の意向が明本国への進撃である以上、朝鮮半島の平定に時間をかけるべきではないという考え方で、日本側が取った八道分遣策には批判的であった。
清正の危惧通り、明軍の援軍を得た朝鮮軍の反撃を受けた一番隊や支援にかけつけた三番隊は苦戦をし、日本軍の進撃は停止してしまう。一方、明への侵攻路から外れた辺境で敵軍も少なかった二番隊は大きな抵抗を受けずに侵攻を続けたため、一番隊や三番隊の苦戦を知る日本本国では「清正が虚偽の戦果を報告しているのではないか」と疑惑を持たれることになった。当然、清正はこうした流れに反発し、それが一番隊を率いていた小西行長や本国と現地の取次をしていた石田三成への不信の発端になったとみられている<。>・・・
明・朝鮮と本格的な交渉が始まると、・・・秀吉の命令を無視してでも和睦を結ぼうとする小西行長と対立し、行長は清正が講和の邪魔になると見て、彼が豊臣姓を勝手に名乗ったこと、独断専行した罪などで秀吉に訴えた。この時、戦争継続は不利と考える石田三成が行長を支持したことなどから、清正は京に戻され謹慎となる。増田長盛が三成と和解させようとしたが、清正は断っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%B8%85%E6%AD%A3
(注22)ながたか(?~1600年)。「播磨福原氏は赤松氏の一族<。>・・・正室は石田正継の娘で、石田三成の妹婿。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%8E%9F%E9%95%B7%E5%A0%AF
⇒キリシタン大名が含まれていない「在朝鮮の諸将によって戦線縮小が提案され」のは、三成が、武器・弾薬・食糧等を十分補給しなかったからではないか、と、私は見ているわけだが、そのことをうすうす感じ取っていたこれら諸将は、そんな三成が、後述するように、辞退したとはいえ、秀吉が報いようとしたことで、もともと、キリシタン大名達と三成が唐と和平交渉に乗り出すことでサボタージュ活動をしているのではないか、と疑っていた、加藤清正らの三成への猜疑心が怒りへと変わった、と思うのだ。(太田)
「石田三成<は、>・・・1596・・・年、京都奉行に任じられ、秀吉の命令でキリシタン弾圧を命じられている。ただし、三成はこの時に捕らえるキリシタンの数を極力減らしたり、秀吉の怒りを宥めて信徒たちが処刑されないように奔走したりするなどの情誼を見せたという(日本二十六聖人)。
⇒どうして三成がそうしたかについての私見も、既に述べた。(太田)
・・・1597年・・・、慶長の役が始まると国内で後方支援に活躍した。その一方で、この年に起きた蔚山城の戦いの際に在朝鮮の諸将によって戦線縮小が提案され、これに激怒した秀吉によって提案に参加した大名が譴責や所領の一部没収などの処分を受ける事件が起きた。
この際、現地から状況を報告した軍目付は三成の縁戚である福原長堯らであり、処分を受けた黒田長政、蜂須賀家政らはこの処分を秀吉に三成・長堯が意見した結果と捉え、彼らと三成が対立関係となるきっかけとなった。
・・・1598年・・・、秀吉は小早川秀秋の領地であった筑後国・筑前国を三成に下賜しようとしたが、三成は辞退している。しかし、筑後国・筑前国の蔵入地の代官に任命されて名島城を与えられた。・・・
1599年・・・に予定されていた朝鮮における大規模攻勢では、福島正則や増田長盛と共に出征軍の大将となる事が決定していた。しかし、・・・1598年・・・8月に秀吉が没したためこの計画は実現せず、代わって戦争の終結と出征軍の帰国業務に尽力した。・・・
三成は自身の書状で特に親しかった武将として小西行長と寺沢広高を挙げている・・・
墓所<は、>大徳寺三玄院<と>高野山奥の院」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%94%B0%E4%B8%89%E6%88%90
この際、現地から状況を報告した軍目付は三成の縁戚である福原長堯らであり、処分を受けた黒田長政、蜂須賀家政らはこの処分を秀吉に三成・長堯が意見した結果と捉え、彼らと三成が対立関係となるきっかけとなった。
・・・1598年・・・、秀吉は小早川秀秋の領地であった筑後国・筑前国を三成に下賜しようとしたが、三成は辞退している。
⇒秀吉は、三成を予定していた唐入りの大規模攻勢の総大将格にするつもりで、出撃拠点であるこの二国を三成にあたえようとしたのだろうが、三成は、そんなことをされたら、直ちに武断派が大挙して秀吉に三成の悪行を訴えかねないと思い、辞退せざるを得なかったのだろう。(太田)
しかし、筑後国・筑前国の蔵入地の代官に任命されて名島城を与えられた。・・・
1599年・・・に予定されていた朝鮮における大規模攻勢では、福島正則や増田長盛と共に出征軍の大将となる事が決定していた。
⇒このことが決定されたのは、秀吉が死の病にかかった5月以降だったのではないか。
私の視点からすれば、さもなければ、憤りと危機意識にかられたところの、武断派中渡海していなかった連中が、秀吉に、三成にそんな役目を負わせてはならない、と、秀吉に訴え出ていたはずだからだ。
「気軽に」彼らが秀吉に訴え出るわけにはいかなかったのは、三成は秀吉の全面的な信頼を得ており、訴え出ることは、自分達の命をかけるに等しい営為だったからだろう。(太田)
しかし、・・・1598年・・・8月に秀吉が没したためこの計画は実現せず、代わって戦争の終結と出征軍の帰国業務に尽力した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%94%B0%E4%B8%89%E6%88%90
⇒こんな具合に唐入りの中止が淡々と語られるのが通例だが、それはおかしい。
秀吉が、残されている遺言的なもの
https://koueorihotaru.hatenadiary.com/entry/2016/08/13/120145
の中で、現在進行形であった唐入り、しかも彼にとって、最重要課題であり続けた唐入り、について、全く触れられていないから、ということもあるのだろうが、仮に本当に触れられていなかったのだとすれば、秀吉の死後、一体誰が唐入りの中止を言い出し、いかなる経過を辿って中止が決定されるに至ったのかが、何らかの形で史料として残されていて然るべきだが、全く何も残っていないのは異常だと考えるべきだろう。
ということは、秀吉は、唐入りの継続を当然視していて、その旨を、口頭を含む遺言的なものの中で明らかにしていたけれど、誰かがそれを握りつぶして、真逆の内容へとそれを改竄した、と考えるのが自然だろう。
その誰かとは三成以外はありえない。
というのも、「三成を中心とする五奉行たちは、家康らいわゆる五大老のことを奉行と呼び、自分たちこそが年寄、おとな(老)だと主張。豊臣政権の家老は自分たちで、家康たちは役人にすぎないという意味を込めて、そういう言葉の使い方をしていた<、というのが、>現在の歴史研究者の方達の主流な見方といってよい」(上掲)らしいところ、要するに、日本の現在の法務省で言えば、三成は事務次官で、家康は検事総長といったところだったと思えばよさそうなのだ。
(事務次官は、検事総長はもとより、検事総長が率いる、各地の高検の検事長達よりも「階級」こそ下でもらっている給与も少ないけれど、法務大臣の膝下にあって事実上全権力を握っている。)
だから、秀吉は、最重要事にかかる遺言は三成に託し、五大老に託した遺言は、我々の知っているような、老人の繰り言のような低次元のものばかりだった、と思われるのだ。(太田)
3 秀吉の唐入り「失敗」の理由
(1)日朝交渉
「対馬国領主宗氏20代当主<の>・・・宗義智<(そうよしとし。1568~1615年)>・・・は<、養父の宗氏第17代当主の義調<(よししげ。1532~1589年)>と共に秀吉に従ったため対馬国一国を安堵された。
このころ、秀吉から李氏朝鮮を服属させるようにとの命令を受け、義調や小西行長<(コラム#12032)>、島井宗室<(注23)>らと共に交渉に尽力する。<(コラム#12243)>
(注23)島井(嶋井)宗室(1539~1615年)。「名は茂勝。・・・。神屋宗湛・大賀宗九と並び「博多の三傑」と呼ばれる。
「武士とキリシタンには絶対になるな」などの遺訓一七ヵ条が有名。・・・
⇒これは、「武士」であり、かつ「キリシタン」であった、宗義智と小西行長に、「武士」たる属性が一般に自分の利益のために平気で人を裏切る言動をとらせ、「キリシタン」たる属性が一般に外国勢力の指示を国内の上司の指示よりも優先する姿勢をとらせた、と見抜いたからだろう。(太田)
神屋宗湛とは親族関係にあたる。・・・
嶋井家は代々博多で酒屋や金融業を営むかたわら、寧波の乱で大内氏が東シナ海の貿易を独占すると明や李氏朝鮮とも日朝貿易を行なって、巨万の富を築き上げた。茂勝(宗室)の代になると先ず・・・1573年・・・に、当時の博多を支配していた戦国大名・大友宗麟との取引きを開始し、大友氏や対馬の宗氏らの軍資金を調達する代わりに、宗麟から様々な特権を得て豪商としての地位を確立してゆく。また、堺の茶人兼豪商である千宗易(後の千利休)や津田宗及、その叔父天王寺屋道叱らと懇意になり、数奇者として朝鮮貿易業者として交歓しあった。京都大徳寺にて出家し、名を宗室とした。
耳川の戦いで大友氏が没落し、代わって島津氏が台頭してくると、大友氏寄りの宗室は自身の特権が島津氏に奪われることを危惧して当時の天下人・織田信長に謁見してその保護を得ようとし、・・・1582年・・・5月に同じ博多の豪商神屋宗湛と共に上洛、信長と近江国安土城にて謁見した。この際に、保護する代わりとして宗室が所有していた天下三肩衝<・・「茶入れの形の一つ。肩の部分が張っているもの。」https://kotobank.jp/word/%E8%82%A9%E8%A1%9D-463517 ・・>の一つである茶器・楢柴肩衝<(ならしばかたつき) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A2%E6%9F%B4%E8%82%A9%E8%A1%9D >を信長に譲ることが条件とされたといわれている。
また、信長は諸外国との貿易を前提に宗室を保護しようとしたという。
続いて二人は上洛すると本能寺で再び信長と謁見し、そのまま本能寺に宿泊して本能寺の変に巻き込まれてしまった。その際、宗室は燃える本能寺から脱出する際に空海直筆の『千字文』を、宗湛は信長愛蔵の牧谿・『遠浦帰帆図』(現・重要文化財)を持ち出している。・・・
信長の死後に台頭した豊臣秀吉の保護を得て、畿内から博多、さらには対馬にいたる交通路を築き上げ、これによって南蛮・朝鮮などの貿易品の取引を行ない栄華を極めた。また秀吉の九州征伐にも協力している。天下統一後、秀吉が朝鮮出兵(文禄・慶長の役)を企むと、大切な通商国と戦争するという利害からこれに強硬に反対し、宗義智や小西行長と協力して渡朝し、朝鮮国王と戦争回避を図る折衝を行なった。しかしこれは空回りに終わったうえ、秀吉の派兵後も撤兵を強硬に主張したため、遂に秀吉の怒りを買って蟄居を命じられた。後に許された後は、五奉行の石田三成と協力して日本軍の後方兵站役を務める一方で、明との和平の裏工作を行ない、その後はまた海外貿易により、豪商として莫大な富を蓄積し、諸大名に金を貸し付け、上方では貿易で手に入れた珍品や茶器などを売り利益を得た。しかし江戸時代に入ると宗湛と同じく家康からは冷遇された。
・・・1600年・・・の関ヶ原の戦い後、筑前博多が豊前国中津より移ってきた黒田長政の支配下に入ると、宗室は長政の福岡城の築城のために金銀や材木、名物茶器の寄進など、その財力において協力している。・・・
墓地は<現在の福岡市博多区にある臨済宗大徳寺派の>崇福寺」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E4%BA%95%E5%AE%97%E5%AE%A4
・・・1588年・・・に義調が死去するなどの悪条件もあって、交渉は思うように進まなかった。なお義調の死後、再び家督を継いで宗家の当主となった。
・・・1590年・・・朝鮮から来日した使節を服属使と称して秀吉に謁見させた。秀吉はこれを朝鮮が服属したものと受け止め、朝鮮には明の征服事業の先導が命じられることとなる。だが、この朝鮮使節は義智が朝鮮側に秀吉による全国統一に対する祝賀使節を送るようにと偽りの要請をして実現した使節であった。朝鮮は建国以来、明の冊封国であり、秀吉の明征服事業の先導を了承する可能性はなかった。窮した義智は朝鮮に伝えるべき明征服の先導命令を、明への道を貸すようにと偽り要請した(假途入明<(かどうにゅうみん)>)。しかし、これも実現しなかった。<(注24)>
(注24)「1587年・・・5月初旬、薩摩川内に在陣中に(すでに秀吉に帰順していた)宗義調の使者・・・が来て、秀吉に拝謁を願い出た。彼らは秀吉が前年に予告した朝鮮出兵(高麗征伐)を何とか取り止めてもらい、貢物と人質を出させることでことを済ませることはできないかと請願に来たのである。しかし、九州征伐を成し遂げたばかりの秀吉は、次は琉球、朝鮮だと考えており、聞き入れなかったばかりか、朝鮮国王自らが入朝することを要求し、それが無い場合は征伐するとした。そして彼ら宗氏を朝鮮との交渉役に命じて、入朝を斡旋させる任務を与えた。6月7日、帰路の箱崎で宗義調と宗義智の親子に謁見して、直にその旨を重ねて厳命した。このように宗氏に強い態度に出た背景としては、琉球が島津に従属したように、朝鮮も対馬に従属していると秀吉が誤解していたためである。ルイス・フロイスも「朝鮮は年毎の貢物として米一万俵を対馬国主に納めていた」と書いていて、このような認識は秀吉に留まらず、当時の一般的なものであった・・・。ところが実際にはこの米というのは朝鮮側から倭寇防止のために下賜される歳賜米のことで、量も僅か100石に過ぎず、対馬・宗氏は朝鮮貿易に経済を依存していて、逆に従属的な立場であり、対外的には嘘を吐いていたに過ぎなかった。・・・秀吉の難題への対応を苦慮した彼らは形式的にでも双方を満足させねばならず、折衷案がないかと模索した。
<1587年>9月、宗氏は柚谷康広を日本国王の偽使(橘康広)として渡海させ、秀吉の日本統一を告げたうえで、新国王となった秀吉を祝賀する通信使の派遣を朝鮮側に要請した。
[<ちなみに、柚谷康広(ゆずややすひろ。?~?年)は、>「宗義調家臣。1564年、宗義調の意向を受け李氏朝鮮と交渉し、貿易制限の一部緩和に尽力した<、という前歴があった。>・・・「慶長の役」後、李氏朝鮮国との国交回復を図るべく宗家は数度使者を送ったが、送った三人の使は誰一人として帰国しなった。それでも<、康広の子の>柚谷智広は景轍玄蘇とともに日朝交渉に尽力し、自ら交渉を持つべく李氏朝鮮に渡るが捕らえられ、幽閉のまま・・・1600<年に>・・・病没した。」
http://takatoshi24.blogspot.com/2011/09/blog-post.html
という人物だ。]
これは通信使を朝鮮国王入朝の代わりとして事態を収めようという配慮であったが、朝鮮側は・・・要請を断った。・・・朝鮮側の記録によると、報告を受けた秀吉は激怒し、交渉失敗は裏切りの結果であるとして柚谷康広を一族共々処刑したといわれる。
期限を越えても1年間進展なかったので、・・・1589年・・・3月、秀吉は朝鮮国王遅参を責め、入朝の斡旋を再び宗義智へ命じた。6月、義智は博多聖福寺の外交僧景轍玄蘇を正使として自らは副使となり、家臣の柳川調信や博多豪商島井宗室など25名を連れて朝鮮へ渡った。漢城府で朝鮮国王に拝謁した一行は、重ねて通信使の派遣を要請し、宗義智は自らが水先案内人を務めるとまで申し出た。ところが朝鮮側は先に誠意を見せろと数年前に倭寇が起こした事件を持ち出して、対馬へ逃亡したと疑われる朝鮮人の叛民・沙乙背同(サウルベドン)なる人物の引き渡しを要求した。義智もこれに応えてすぐに柳川調信を対馬に帰し、沙乙背同と数名の倭寇を捕縛して連行させたので、断る理由がなくなった朝鮮側はついに通信使の派遣に応じた。返礼に宗義智は孔雀と火縄銃を献上した。
・・・1590年・・・3月に漢城府を発した通信使は、正使に西人派の黄允吉、副使に東人派の金誠一、書状官許筬(許筠の兄)ほか管楽衆50余名という構成で、4月29日に釜山から対馬に渡って滞在1ヶ月した。このとき金誠一が宴席に轎(駕籠のこと)に乗って後からやってきた宗義智を無礼と怒ったので、謝罪に轎夫を斬首にするという事件があった。京都に到着したのは7月下旬で、大徳寺を宿とした。しかし秀吉は小田原征伐と奥州仕置のために9月1日まで不在で、凱旋後もしばらく放置された。
11月7日になってようやく秀吉は聚楽第で引見したが、義智とその舅小西行長が共謀して通信使は服属使節であると偽って説明して、秀吉は朝鮮は日本に帰服したものだと思い込んでいたようである。それで秀吉は定められた儀礼もほとんど行わずに、国書と贈物(入貢)を受け取っただけで満足し、中座して赤子の鶴松を抱いて再び現れて、使者の前で小便を漏らした我が子を笑い、終始上機嫌だった。対等な国からの祝賀の使節のつもりだった通信使一同は侮辱と受け取り憤慨したが、正使と副使にはそれぞれ銀400両、その他の随員にまでも褒美の品々が分け与えられ、功が労われた。もちろん返答の用意もなく、儀礼に反すると通信使が抗議した後で、僧録西笑承兌が起草し、堺で逗留していた一行に国書が届けられた。
その内容は、・・・大明国を征服して日本の風俗や文化を未来永劫に<支那>に植え付けるという大抱負を述べ、先駆けて「入朝」した朝鮮を評価して安堵を約する一方で、「征明嚮導」つまり明遠征軍を先導をすることを命じ、応じるならば盟約はより強固になるとするものだった。・・・文章を一読した通信使は属国扱いに驚愕して宗義智と玄蘇に抗議した。玄蘇は秀吉の本意とは異なる嘘の説明で誤魔化していたので、それを信じた金誠一は誤字であると考えた「閣下」「方物」「入朝」の文字の書き換えを要求して食い下がったが、もはや一刻も早く帰還すべきと考えていた黄允吉はそのままで出立した。・・・1591年・・・1月に対馬に到着。2月に朝鮮に帰国し、玄蘇と柳川調信が同行した。
・・・1591年・・・3月、通信使は朝鮮国王に報告した。しかし、彼らが来日中に朝鮮朝廷では政変があって西人派の鄭澈が失脚して東人派の柳成龍が左議政となっていた。黄允吉が「必ず兵禍あらん」と戦争が切迫している事実を警告したが、対抗心をむき出しの金誠一が大げさであると横やりを入れ、全否定して口論になった。柳成龍が同じ東人派の金誠一を擁護して彼の意見が正しいことになり、黄允吉の報告は無視された。通信使に同行した軍官黄進はこれを聞いて激怒し、「金誠一斬るべし」といきり立ったが周囲に止められた。人事の変更と若干の警戒の処置は取られたが、対日戦争の準備はほとんど行われなかった。「倭軍」の能力を根拠なく軽視したり、そもそも外寇がないとたかを括る国内世論で、労役を拒否する上奏が出されるほどだった。・・・
5月、朝鮮朝廷は「日本は朋友の国で、大明は君父である」として仮途入明の要求を拒否し、宗氏が別に要求した斉浦と監浦の開港も拒否した。玄蘇と調信は国書を手に対馬に戻った。
同年6月、玄蘇の復命を受けてすぐに宗義智は再び渡海し、釜山の辺将に対して「日本は大明と国交を通じたい。もし朝鮮がこの事を(明に)奏聞してくれるならとても幸いであるが、もしそうしなければ、両国は平和は破られるだろう」と警告を発し、再交渉を要望した。辺将はこれを上奏したが、朝鮮朝廷では先の玄蘇らの言動を咎め、秀吉の国書の傲慢無礼さを憤激していたところだったので、何の返事も与えなかった。義智は10日間待ったが、断念して不満足のまま去った。これ以降、日本との通信は途絶えた。釜山浦の倭館に常時滞在していた日本人もだんだんと帰国し、ほとんど無人となったため、朝鮮ではこのことを不審に思っていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9
⇒「注24」には、小西行長が登場しないが、宗義智による日朝交渉は、全て、義父で、同じキリシタンたる小西行長に相談しながら行われたものだろう。(太田)
1592年・・・からの文禄の役では舅・小西行長<(注25)>の一番隊に属して日本軍の最先鋒として戦った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E7%BE%A9%E6%99%BA
(注25)「小西行長<の>・・・長女であるマリアは名前を妙といい、輿入れした・・・1590・・・年には15歳であった。
夫の宗義智は・・・1568・・・年生まれと伝わるので20代前半である。二人の関係を伝える史料は少ないが今宮若宮神社の由来や当時の史料でも、宗義智はマリアの影響で洗礼を受けてダリオと名乗ったとされている。・・・
小西行長が西軍につくと、宗義智もこれに従い前哨戦の伏見城の戦いに参戦。関ヶ原の戦いには参加しなかったものの家臣を派遣している。
知られる通り西軍は敗北し、小西行長は京都・六条河原で斬首となった。当然、宗義智も処罰されるはずなのにそうはならなかった。朝鮮と関係修復を望んだ徳川家康は、交渉役として欠かせない宗義智を罪には問わず所領を安堵したのである。
だが、所領が安堵されても問題はマリアである。いくら許されたとはいえ西軍の大名の娘を正室においていては、いつ二心があると疑われかねない。そのため・・・1601・・・年10月、マリアは離縁された。
もはや頼るところもないマリアがたどり着いたのは、交易で栄えまだ多くの切支丹が暮らしていた長崎であった。マリアはこの地で神に祈る生活をおくり5年後の・・・1606・・・年に世を去ったという。・・・
宗義智はマリアの死から9年後の・・・1615・・・年に死去している。宗義智の後を継いだのはまだ11歳の宗義成(そうよしなり。母はマリアとは別の女性)。
その頃、藩内では不穏な空気が流れ始めた。とりわけ藩の家老職で朝鮮との交渉の実務を担っていた柳川氏は、幕府直参の旗本になることを計画して宗義成と対立する。
この対立抗争は、・・・1633・・・年に柳川家の当主・柳川調興(やながわしげおき)が対馬藩が朝鮮との交渉にあたり国書を改竄していたことを幕府に直訴する、お家騒動・柳川一件へと至る。・・・
そうした中、父を失ったマリアを離縁し追いだしたことで、祟られているのではないか、と畏れた人々が神社を建立したのである。
逆賊の娘かつ切支丹であったマリアを祀ることは、あまり表立ってできるものではなかったようだ。
そのためか、現在に伝わっている史料は少ない。
ただ、江戸時代を通じて対馬ではなにか不幸な出来事や不穏な騒動が起こると、マリアの怨霊ではないかと畏れられた。
今はそうした畏怖も薄れ、マリアの名前に相応しい聖母のようなイメージだけが残っている。」
https://intojapanwaraku.com/culture/86194/
⇒宗義智(と小西行長)による假途入明提案は、朝鮮側が飲む可能性が皆無ではなく、仮に飲んでおれば、唐入りは順調に進捗することとなり、それを、石田三成や小西行長が挫折させることは、はるかに困難なものとなっていたであろうだけに、飲んでくれなくて助かったわけだが、朝鮮側は、この提案を飲むべきだったのに、金誠一はもとよりだが、黄允吉だって、事態を正しく把握した報告をしなかった点では同じだったこともあり、悲惨な目に遭うことになるわけだ。(太田)
(2)千利休の切腹
千利休(1522~1591・・・年2月28日)の「死の原因<について、>・・・秀吉の朝鮮出兵を批判した<から>という説・・・<があるが、>桑田忠親は、「ある長編の歴史小説で試みられた作家のフィクションであって、史実ではない」と否定している。なお、その歴史小説とは、野上彌生子『秀吉と利休』を指す。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%88%A9%E4%BC%91
と、野上説・・後で詳述する・・は切り捨てられているが、前述したような、唐入りを巡ってクソ慌ただしいさなかに、秀吉がよりにもよって利休を殺害した、ということだけで、この野上説は核心を衝いていると受け止めるに十分だろう。
但し、問題は、野上自身は何も記していないけれど、一体どうして、利休が唐入りを批判したのか、だ。
可能性の一つとして、利休が朝鮮や明にシンパシーを抱いていたから、ということが考えられる。↓
「高麗茶碗<は、>・・・朝鮮半島で焼かれた日常雑器を日本の茶人が賞玩し茶器に見立てたものである。高麗茶碗の「高麗」とは「朝鮮渡来」の意であり、「高麗茶碗」と称されるもののほとんどは高麗時代ではなく、朝鮮王朝時代の製品である。
日本の茶道は室町時代の「書院の茶」からわび・さびを重んじる「草庵の茶」へと変化していった。その過程で茶器も唐物(<支那>製)中心から高麗物(朝鮮半島製)、和物(日本製)がよしとされるように価値観が変わっていった。もともと日用雑器として作られた「高麗茶碗」は、こうして茶器として取り上げられるようになった。・・・
1580年には千利休が珍品を求め、京の瓦師・長次郎らにつくらせた「ハタ(縁の部分)ノ反リタル茶碗」「ゆがミ茶碗」を、1584年には「ひづミたるかうらい(高麗)」を茶会に用いた。このことから利休の高麗茶碗趣味はもとは楽焼<(注26)>趣味から生じたともいわれる。なお、この趣味はのちに瀬戸や志野、古唐津趣味へと継承されている。
(注26)「瓦職人だった長次郎が千利休の指導により、聚楽第を建造する際に土中から掘り出された土(聚楽土)を使って焼いた「聚楽焼」(じゅらくやき)が始まりとされる。
田中常慶(樂家では二代目)の父、田中宗慶が豊臣秀吉より聚楽第からとった樂の銀印を賜り、これを用いるとともに家号にしたことから楽焼となった、との説が広く知られる。・・・
初期の製法としては、素焼き後に加茂川黒石からつくられた鉄釉をかけて陰干し、乾いたらまた釉薬をかけるといったことを十数回繰り返してから1000℃程度で焼成する。焼成中に釉薬が溶けたところを見計らって窯から引き出し急冷することで、黒く変色する。これは美濃焼と共通する手法である。
天正9年(1581年)~同14年(1586年)頃に長次郎によって黒楽茶碗が焼かれたのが始まりである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%BD%E7%84%BC
天正16年(1588年)の『山上宗二記』には、「唐茶碗はすたれ、当世は高麗茶碗、瀬戸茶碗、今焼茶碗がよい」という意味の記述がある。ここで言う「瀬戸茶碗」は今日の美濃焼、今焼茶碗は楽茶碗に相当すると考えられている。ここには、<支那>の官窯の磁器のように器形、文様ともに整ったものよりも、作為のないもの、ゆがんだものをよしとする美意識の転換がみられる。
なお、朝鮮半島では、朝鮮陶磁は<支那>陶磁と同様に高い技術をもって精緻に作られたものがその主流である、日本でいう高麗茶碗の趣味は主流ではないといわれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%BA%97%E8%8C%B6%E7%A2%97
山上宗二(1544~1590年)は、「堺の豪商(町衆)、茶人。・・・千利休に20年間茶の湯を学んだ高弟<。>・・・1584年)に理非曲直の発言で秀吉の怒りを買い、浪人する。この後に前田利家に仕えるようになるが、天正14年(1586年)にも再び秀吉を怒らせたため高野山へ逃れ、・・・1588年・・・頃から自筆の秘伝書『山上宗二記』の写本を諸方に授けている。その後は小田原に下って北条氏に仕えた。
・・・1590年・・・の秀吉による北条氏攻め、いわゆる「小田原征伐」の際には当初、小田原城に籠城する北条勢と共にあったが、包囲が始まって数日後の4月8日、茶道を通して交友があった皆川広照が手勢と共に城を抜けて秀吉の包囲軍に投降する際、宗二も同行した。
4月10日に利休の仲裁により秀吉との面会が叶った。秀吉は宗二を赦免し再登用しようとしたが、茶席において仕えていた北条幻庵<(注27)>に義理立てしたため秀吉の怒りを買ったとされ、耳と鼻を削がれた上で打ち首にされた。享年46。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8A%E5%AE%97%E4%BA%8C
(注27)1493~1589年。「北条早雲の男子の中では末子<で、>・・・記録の残っている家臣では唯一、初代の北条早雲から5代氏直まで、後北条氏の全ての当主に仕えた人物<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E5%B9%BB%E5%BA%B5
そして、喫茶という営みそのものも、支那由来のものだ。
しかし、およそ、舶来品というものは、それに、新たな用途や新たな観点といった独自の工夫が加わった瞬間に、事実上、国産品へと転化する。
高麗で評価されていないかった高麗茶碗に高評価を与えた瞬間、また、茶(喫茶)に人間主義的な意味が付与された瞬間、どちらも、事実上国産品に転化したのであって、利休が、このような意味での国産の諸品を愛でたからといって、彼が、それぞれの由来元であるところの、朝鮮や明について、守られるべき対象、的な思い入れを抱いたはずがなかろう。
もう一つの可能性として、利休が日蓮宗、ひいては日蓮主義的なものに反感を抱いていたから、が考えられる。↓
辻玄哉(げんさい。?~1576年)は、「利休の<茶人としての>師であった<が、その玄哉は、>・・・武野紹鴎に師事し、その「一の弟子」と評されている<人物だ。>・・・
<玄哉は、>兄の江村栄紀と共に、当時六条堀川にあった本圀寺の檀那であり、玄哉の住んだ京都新在屋町の住民のほとんどは法華宗徒だった。
玄哉の子と孫である、五助等政と甚介宗二は、対馬に流罪になっていた法華宗不受不施派の祖である日奥が・・・1612年・・・に赦免された際、対馬へ渡り、日奥を迎えに行っている。
・・・1653年・・・に、利休の曾孫である江岑宗左が、仕える紀州徳川家に提出した『千利休由緒書』には、利休の師は紹鷗であると書かれ、玄哉の名前は出てこない<が、>その理由は、後の・・・1665年・・・に禁制となる不受不施派と、辻玄哉の子孫が深い関わりを持っていたため、千家と辻玄哉の関わり合いを隠すためだった可能性がある。その結果、利休の師は紹鷗であるとの説が『南方録』を通じて広まったと考えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%BB%E7%8E%84%E5%93%89
利休は、「堺の南宗寺に参禅し、その本山である京都郊外紫野の大徳寺とも親しく交わった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%88%A9%E4%BC%91 前掲
とされ、また、その「墓所は京都の大徳寺聚光院」
https://kotobank.jp/word/%E5%8D%83%E5%88%A9%E4%BC%91-18237
なので、彼が日蓮宗信徒ではなかったことは確かだとしても、日蓮宗に対して反感を抱いていたとすれば、いくらなんでも、日蓮宗信徒であった玄哉を師にはしないだろう。
しかも、後述するように、利休は、家康と伊達政宗との京都での茶会を、自分同様この両者も信徒ではない、日蓮宗の妙覚寺でわざわざ開催している。
https://blog.goo.ne.jp/shuichimaeda/e/8479e025fbc1f03a01ae3aaa70ca524a
すなわち、利休は、むしろ、日蓮宗に好意を抱いていた、と見るべきだろう。
で、私なのだが、次のように考えている。
まず、利休と近衛家との関係がある。↓
「近衞前久は織田信長を介して利休と接点があったようですね。<前久の子の>近衞信尹は利休と直接の縁がありましたが、むしろ利休の弟子、古田織部と親しかったようです。
<信尹は、>後陽成天皇の第四皇子で信尹の養子となった信尋(のぶひろ)、織部に茶を習い、利休の孫である三代元伯宗旦(げんぱくそうたん)とも密に交流していたようです。」
https://www.curioswitch.com/omotesenke-interview
だから、利休は直接、または、織部らを通じて、前久や信尹、ひいては後陽成天皇、の唐入りに対する考えを示唆される機会がありえたわけだ。
他方、利休は、秀吉とは、次のような関係にあった。↓
「秀吉の茶堂となった利休は、次第に天下にその名が知られることになります。また同時に秀吉の側近として、政治的にも重要な役割を演じました。この頃の大友宗麟の書状に「内々の儀は宗易、公の儀は宰相存じ候」と見られます。秀吉の私的な窓口は利休、公的な窓口は秀吉の弟である宰相の秀長が承るとあり、利休の権威が秀吉の政権内で絶大なものであったことがうかがえます。」
http://www.omotesenke.jp/list3/list3-1/list3-1-2/
そして、利休が、このような立場であるにもかかわらず、当然ぼかしながらだっただろうが、茶席等で、唐入りの話題が出た時に、彼が聞いた上出の話を、相手に対して示唆したのではあるまいか。
これを、誰かが、三成の耳に入れ、三成自身、島津義久を通じて、後陽成天皇/近衛父子の唐入りへの否定的姿勢を承知していて唐入りを挫折させる計画を練っていたことから、秀吉に自分に対する疑念を絶対に生じさせないためにも、利休の口封じを行う決意をしたのではないか、と。
そこで、三成は、秀吉に事の次第を報告し、利休処分の了解を取り付けた、と。↓
「石田三成は以下の2つの罪を挙げることで秀吉の千利休切腹の命令を執行しようと試みたとされています。
1.大徳寺山門(三門)の金毛閣に安置された千利休の木像が不敬であったこと。
2.茶道具を法外な高値で売り、売僧(まいす)と成り果てていたこと。
まず1つ目の説に関して、金毛閣に建てられた千利休の木像に、秀吉が山門をくぐる際その頭を土足で踏むことに不敬の罪を指摘したとされています。しかし、実際は応仁の乱で焼けた寺の再建のために、千利休は多額の寄付をしています。そして、寺がその功を顕彰するために建てたのが千利休の木像だったのです。千利休自身が建てたものではないので、千利休は罪の対象ではありません。さらに、像を寺に安置することは秀長(秀吉の弟)に届けられていた記録に残っていることから、許可を得ての建立ということがわかります。
次に2つ目の説に関して、千利休が茶道具に高額な値段をつけて売り、儲けているということを指摘したとされています。ですがこれは、千利休が故意に行っていることではないことを市場が証明しています。千利休には類稀なる美的感覚があることから、その目利きで選んだ骨董品は、たしかに間違いなく美しいと誰が見てもわかるものでした。そのような天才が選んだたった一つの商品は、市場での価値が上がり、茶の湯に憧れを抱く商人が買い求め、転売に転売が重なり値段が一気に上昇するのです。さらに千利休が大切にしていた香合には、秀吉自身が小判千枚の値段をつけて交渉をしたとも言われています。秀吉自身も、千利休が選んだ品を高値で買い取ろうとしていたのですね。」
https://intojapanwaraku.com/gourmet/86526/
三成が、1のようにすぐバレるような、また、2のようにおよそバカバカしい、2つの理由を挙げたのは、本当の理由が、分かる人には分かるからこそであり、そのような人々、すなわち、後陽成天皇/近衛父子、及び、その考えを共有するに至っていたごく少数の、豊臣家の人々や大名達等、に、唐入りについて、自分が秀吉の考えに忠実であることを訴えるのが目的だったからだ、と、私は思うのだ。
[野上弥生子『秀吉と利休』]
一 始めに
我が家の本棚に新潮文庫の1969年初版の第四刷(1970年11月)の、野上弥生子の『秀吉と利休』がずっと鎮座していた。
私は、父親か母親の本だと思い込んでいたのだが、この発行日付から見ると、私自身が大学生時代に買った可能性が高い。
一つだけ確かなのは、この本を読みかけて、茶の世界のことを当時・・今もだが・・ほとんど知らなかったためか、面白くなくて数頁読んだだけで読むのを止めたままだったことだ。
さて、この本のことを思い出したのは、秀吉のことを調べていて、利休のウィキペディアに目を通した時に、利休の死の原因について、「秀吉の朝鮮出兵を批判したという説」があり、「桑田忠親は、「ある長編の歴史小説で試みられた作家のフィクションであって、史実ではない」と否定している。なお、その歴史小説とは、野上彌生子『秀吉と利休』<(注28)>を指す。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%88%A9%E4%BC%91
というくだりがあり、この野上説が、表見的には私の説と同じだったからだ。
(注28)「1962年(昭和37)1月~63年9月の『中央公論』に連載発表。64年中央公論社刊。・・・
野上文学最高の傑作。女流文学賞受賞。」
https://kotobank.jp/word/%E7%A7%80%E5%90%89%E3%81%A8%E5%88%A9%E4%BC%91-1581946
「野上弥生子・・・77-8歳の執筆」
http://blog.livedoor.jp/floatingworld/archives/51798639.html
(ちなみに、野上弥生子(やえこ。1885~1985年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E4%B8%8A%E5%BC%A5%E7%94%9F%E5%AD%90
は、東大紛争が起こった(私が二年生の)時の東大教養学部長の野上茂吉郎(1913~)
https://www.c.u-tokyo.ac.jp/info/about/history/dean/index.html
https://www.fundokin.co.jp/yaeko/episode/27/vol27.html
のお母さんだ。)
そこで、7月23日にこの本を斜め読みした。
この頃の歴史に通暁しているだけでなく、茶道史にもある程度通じていないと読みこなすのは容易ではない感じを受けたので、昔の私が、読みかけて投げ出したのも無理はないと思った。
幸い、今では、利休の高弟の山上宗二についても、若干の知識はあるので、まず分かったのは、宗二の言動を説明する弥生子の洞察力の深さだ。
そんな彼女が、利休朝鮮出兵批判説を唱えたのだから、小説家の空想、といったディスり方はしてはいけない、と思った。
以下、『秀吉と利休』からの引用だ。↓
「秀吉の唐御陣の雄図は、今日や昨日のことではなかった。
二年まえ九州征伐で博多に滞在していたあいだに、街をひろげ港湾を改修させたのも、その夢にそなえてのいち早い準備であった。
とはいえ、日本六十余州にとどまらず、高麗もろこしまで手中に握ろうとするの望みは、剣の魔力に憑かれての征服欲ばかりではない。
世界のどこの国であろうと、史上に残るほどの覇者の侵略戦はそれにもとづく通り、秀吉の唐御陣もけっきょくは経済的なもので、目的は明貿易の恢復にあった。
大陸の沿岸をよい稼ぎ場所にした、いわゆる倭寇なる海賊の跋扈が、明との取引きを杜絶させてからは、輸出入はことごとく南蛮船に委ねなければならず、これは便、不便より、利潤を独占されるのだから日本としては大きな損失であった。
⇒「戦後、弥生子は<日本共産党の宮本顕治の妻である>宮本百合子が中心人物であった新日本文学会に賛助会員として加わったがまもなく辞退している。しかし百合子との交友は続き、1951年に百合子が亡くなったあとも、命日には宮本家に花を贈ることを恒例としていた。宮本側からも1950年に亡くなった豊一郎の命日には、毎年花が贈られてきたという。・・・1956年の ハンガリー動乱に際しては、「ロシアといえば、第二次戦争の後漸くできあがったハンガリアの人民民主政体が一度独占資本家、地主、…軍人の支配に逆転しようとするのを、少々粗暴に引き戻そうとしたわけで…」と武力介入したソ連を擁護し、動乱により発生したハンガリー難民を救済しようとした〈日本ハンガリー救援会〉の活動を、「事件が起こるまで「ハンガリー」がどこにあるかすら知らなかった者が、にわかに地球儀を買いに走り、またにわかに募金活動をはじめだす光景に複雑な思いがする」、と批判した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E4%B8%8A%E5%BC%A5%E7%94%9F%E5%AD%90
と、マルクスレーニン主義かぶれであった弥生子らしい、唯物論的な、しかし、この場合は、いや、この場合も、見当違いの、ヨミだ。(太田)
国内の事情も、なんらかの変化を要求した。
小田原の討伐で天下統一の目的は果されたとはいえ、荒らっぽい外科手術の傷跡やひき吊りは、さまざまな形態で残された。
なによりまず百姓を土に縛りつけようとする身分制の確立をみだす、『主人もなく、田畠も耕さない者』でいて、農民を勝手に追い使う野武士、禄を失った流浪人がおびただしくふえた。
これらのやくざを、かえって便利なものに組織化するのは戦争だけであり、外征ともなれば、質より量で、雑兵から、中間、小者、荒らし子は、いくらあろうと多過ぎはしない。
⇒このあたりは、マルクスの「「政治的に変節しやすい」あるいは「犯罪に走りやすい」・・・「あらゆる階級の中のクズ、ゴミ、カス」」であるルンペンプロレタリアート」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%AC%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88
像が念頭にあったのではなかろうか。(太田)
商人らも唐御陣をよろこんだ。
軍需品の儲けを思うのみではなかった。
国内の産業はしだいに発達しながら、一般庶民の購買力は低かったので、海外の市場が欲しく、堺がよい例であるように、御朱印船がにぎやかに港をでて行けば、沖からは舳先きや艫(とも)を美しく彩色したもろこし船がはいって来た、そのかみの盛んな取引きをもう一度と念願した。
堺の町の商人での、ただ一人の大名なる小西行長が、石田三成の相談相手として唐御陣に重要な役割りをつとめたのは、父隆佐(りゅうさ)いらい、貿易関係ではくろうととされたためである。
⇒上述の唯物論的な発想が邪魔をして、小西行長がキリシタンであったことに、弥生子は、全く関心を示していない。
ちなみに、小西行長(1558~1600年)は、「堺の商人・小西隆佐の次男として京都で生まれ<、>はじめ備前福岡の豪商・阿部善定の手代であった源六(後に岡山下之町へ出て呉服商をしていた魚屋九郎右衛門)の養子となり、商売のために度々宇喜多直家の元を訪れていたが、その際に直家に才能を見出されて抜擢されて武士となり、家臣として仕えた<が、>織田氏の家臣・羽柴秀吉が三木城攻めを行っている際、直家から使者として秀吉の下へ使わされた。この時、秀吉からその才知を気に入られ、臣下とな<った>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%A5%BF%E8%A1%8C%E9%95%B7
人物であり、「堺の町の商人」という表現はいかがなものかと思う。(太田)
しかし三成のほうは、曾(か)つてない海外派兵の大がかりな企劃を、経済政策にむすびつけていたのは同じでも、他にもっと深いねらいをもっていた。
それもかねて壮挙を知ったバテレンたちに、秀吉はこの戦争で、日本の大英雄として死後神に祭られんとするのだ、と報告させたような一面の空想とはかなり違った、いかにも三成らしい地道で、いっぽん気な考慮からであった。
彼は諸国の大名たちが表面おとなしくしていても、ことの次第では、いつ向きを変えるかわからないのを忘れなかった。
とりわけ徳川家康に対する警戒は、小田原の戦功で関東一帯を与えられてからはいっそう深まっており、奥州の伊達、南方の島津とても油断はできないと見た。
なお戦後の必然で、彼らをはじめ強力な大名は、所領内に土地を失った小身の大名や土豪らを抱えこんでいる。
これらを外征軍に編入すれば、危険のある相手から潜在的な戦力を奪うのみではなく、かえって諸軍勢が秀吉の司令下に統一されて、膨大な親衛軍ができあがるうえに、いっさいの関心を海外戦にむけさせることで、国内での角突きあいや、それ以上に気の許せない野望を封ずることができる。
もとより、これらは秀吉の見地でもあった。
⇒「戦国武将が対外侵略の戦いに踏み出す論理はいくつかあるが、その一つは、うちの矛盾<(注29)>を外に転嫁することであった。」(小和田哲男『武田信玄と戦国時代 諏訪・佐久・北信濃三地域侵攻』より
https://books.google.co.jp/books?id=LfzrBAAAQBAJ&pg=PT8&lpg=PT8&dq
(小和田は1944年生まれ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%92%8C%E7%94%B0%E5%93%B2%E7%94%B7 )
、「すべての戦争は国内矛盾<(注29)>の対外転嫁として勃発する」(瀬戸崗紘「すべての戦争は国内矛盾の対外転嫁として勃発する」より)
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/35649/rkz047-2-02-setooka.pdf
(瀬戸岡は1945年生まれ。
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/35651/rkz047-2-04-ryakureki_gyoseki.pdf )
、「国内矛盾<(注29)>(急速な上からの近代化の歪み)を対外戦争と植民地経営へと転化するのを国家の方針とした日本」(丸川哲史『竹内好 アジアとの出会い』(河出ブックス)より)
https://books.google.co.jp/books?id=jYeEDwAAQBAJ&pg=PA17&lpg=PA17&dq
(丸川は1963年生まれ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B8%E5%B7%9D%E5%93%B2%E5%8F%B2 )
(注29)「基本矛盾<について。>
通常は、マルクスおよびエンゲルスの表現に従って「生産の社会的性格」と「取得の私的・資本主義的(もしくは資本家的)形態」との矛盾をさす。ここで「取得」とは、生産結果が資本家の所有物になることを意味するが、そうなる根拠は、生産手段が資本家の所有物だということにあるので、「所有の……形態」と表現する人もいる。また生産のほうの「社会的性格」に対応させて取得・所有のほうを「私的・資本主義的形態」ではなく「……的性格」と表現する人もいる。資本主義は工場の大規模化や市場の拡大などによって生産の社会性、相互的依存性を強めていく。しかし生産や分配についての意思決定は、生産手段の排他的所有をもとに、資本家の専権となっており、その結果、恐慌や失業や公害にみられるような、資源浪費と豊富ゆえの貧困が出現すると説明される。また、このような矛盾を克服しようと人々が考えるとき、資本主義は否定されるに至ると主張する。
https://kotobank.jp/word/%E8%B3%87%E6%9C%AC%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%AE%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E7%9F%9B%E7%9B%BE-1543100
「内戦はボリシェヴィキ政権が,その権力を全国に確立した過程として重要であるが,この過程でまさに軍事力は決定的な役割を果たした。「権力は銃身から生まれる」とは,まさにボリシェヴィキ政権にもあてはまる事実であった。内戦はボリシェヴィキ権力をいちじるしく軍事化することに貢献した。 レーニンがツァーリズム体制の本質を「軍隊と官僚」と性格づけたことは,そのままボリシェヴィキ権力についても言えることであり,この性格は内戦下に決定的になったと言える。」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jarees1972/1987/16/1987_16_1/_pdf
と、マルクスレーニン主義者のケがある人物は、その大部分が軍事フェチでもあるところ、どうも、日本においてだけの現象のようだが、マルクスの言う「矛盾」と、レーニンの「軍事」フェチシズムを「止揚」したところの、国内矛盾の対外侵略転化、というドグマが戦前から戦後にかけて一世を風靡したらしく、野上もまた、このドグマから逃れられなかったらしい。(太田)
それ故いち早く今日にそなえて宇土(うと)、熊本の領主といされていた小西行長や加藤清正が、気質も傾向もまるで違うのに、この計劃には、他の九州大名とともに積極的であるに引きかえ、家康や、奥羽の大名たちが、公然と反対こそしないが彼らほど熱心でなかったのは、地理的に対外貿易の利益が薄いのを考えのみではなかったに違いない。・・・
⇒積極的とか消極的とかではなく、最初から、編成は西高東低だった。↓
「天正20年3月15日、軍役の動員が命じられ、諸国大名で四国・九州は1万石に付き600人、中国・紀伊は500人、五畿内は400人、近江・尾張・美濃・伊勢の四ヶ国は350人、遠江・三河・駿河・伊豆までは300人でそれより東は200人、若狭以北・能登は300人、越後・出羽は200人と定めて、12月までに大坂に集結せよと号令された。ただしこれらの軍役の割り当ては一律ではなくて、個別の大名の事情によって減免された。動員された兵数の実数はこの8割程度ともいわれる。
主として西日本方面(西海道、南海道、山陰道、山陽道)では全面的に兵が動員されたが、東日本方面(畿内以東)では動員数が減らされた。主として西日本の大名が朝鮮へ出征し、家康などの東日本の大名は肥前名護屋に駐屯した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9
これは、名護屋に到着するだけでも遠距離になればなるほど負担が大きかったことに加え、西方に、キリスト教徒やキリスト教シンパの大名が多かったことによる、と、一見言えそうだが、私見は異なる旨を既述した。
いずれにせよ、秀吉は、1587年にバテレン追放令を発令しており、キリスト教徒やキリスト教シンパの大名達は、秀吉にキリスト教そのものへの弾圧を思いとどまらせるべく、戦功を挙げたいという気持ちが強いはずだ、と秀吉が見ていたのではなかろうか。(太田)
唐御陣については、誰も彼もがその日の照り曇りをいう調子で話のたねにしたのだから、鳥飼弥兵衛<(注30)>が・・・暮れの挨拶に利休屋敷をたずねた時、それをいいださなかったらいっそ不思議であったろう。・・・
(注30)「利休の・・・妻・りき(宗恩)の兄で能役者<。>・・・架空の人物<。>」
http://blog.livedoor.jp/floatingworld/archives/51798639.html
唐御陣に対する流言、蜚語の取締りには、飽くまで峻厳を要するとともに極密を守るべきであり、ゆるがせにすれば、かえって流言は流言を生み、蜚語はあらたな蜚語をつくりだすであろう。
利休の場合は影響が大きいだけ、いっそう慎重を期しなければならず、お咎めも表向きには、木像一つに絞るのが安全な方法だというの<が>・・・三成の提案であ<った。>・・・
<秀吉は利休に言った。>
「そちは、唐御陣は明智討ちのようにはいくまい、とほざいた。だが、おれは唐討ちも、明智討ち以上には考えてはいないぞ、いや、危ういといえば、あの時のほうがよっぽど危い綱渡りだ。寝耳に水の本能寺の御事変、へたをすれば、毛利勢の追い撃ちは必定で、味方の向背とても油断のならぬなかでの勝負であった。それから思えば今度の唐討ちは、用意万端整った膳のまえに、大あぐらで飯を喰うようなものだ。それも宗易、明智討ちのようにはいかぬと吐(ぬ)かしたいのか、ここな恩知らずのたわけ奴(め)、老いぼれの、くたばり損いの、鬼の糞搔き奴」」(上記新潮文庫版294~297、302、377、384)
⇒一、利休を切腹させた理由をその唐入り批判に求めたこと、も、二、その表向きの理由を唐入り批判ではなく木像の件にしたのはどうしてかについて、も、三、唐入りの成否についての秀吉の楽観論のもっともらしさについて、も、野上の文学者としての直感に敬意を表したいが、いかんせん、一に関する野上の判断の拠って来るゆえんを彼女が説明した部分は全て(私見では)誤っているのは壮観だ。(太田)
[対徳川家康牽制説]
前出のように、「南宗寺は徳川家康とつながりがあ<る(注31)ところ、利休が>、家康の間者として茶湯の中に毒を入れ、茶室で秀吉を暗殺しようとしたという説[34][35]<さえ存在する。>・・・
34 岡倉天心薯『茶の本』国立国会図書館
35 千利休薯『利休百会記』岡山大学付属図書館」」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%88%A9%E4%BC%91 前掲
(注31)「当寺には徳川家康の墓とされるものが開山堂の跡地にある。当寺に伝わる『南宗寺史』には、「大坂夏の陣で真田信繁の攻撃を受けて敗れた徳川家康は、駕籠に乗って逃げる途中で後藤又兵衛に見つかり、その槍で突かれて辛くも堺まで落ち延びるも、駕籠を開けると既に事切れていた。ひとまず遺骸を当寺の開山堂の下に隠し、後に改葬した」との話がある。しかし、史実では、大坂夏の陣の前哨戦で堺はすでに大野治房によって焼き払われており、当時の堺には当寺も焼かれてしまってなかったとされる。また、又兵衛は家康にまみえたとされる日の前日に道明寺の戦いで討死している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%AE%97%E5%AF%BA
「二代将軍・秀忠、三代将軍・家光が相次いで<この>寺を参詣した<ことがあり、その>・・・瓦には徳川家の「葵」の紋が<刻印されている>。」
https://www.sakai-tcb.or.jp/about-sakai/eetoko/08_5.html
こじつけ気味ながら、この説の傍証になりそうなのが下掲だ。↓
「秀吉の小田原攻囲(小田原征伐)中である・・・1590年・・・5月に、豊臣配下浅野長政から小田原参陣を催促され、政宗は5月9日に会津を出立すると米沢・小国を経て同盟国上杉景勝の所領である越後国・信濃国、甲斐国を経由して小田原に至った。秀吉の兵動員数を考慮した政宗は秀吉に服属し、秀吉は会津領を没収したものの、伊達家の本領72万石(おおむね家督相続時の所領)を安堵した。この時、遅参の詰問に来た前田利家らに千利休の茶の指導を受けたいと申し出、秀吉らを感嘆させたという。・・・
1591年・・・には蒲生氏郷とともに葛西大崎一揆を平定するが、政宗自身が一揆を煽動していたことが露見する。これは氏郷が「政宗が書いた」とされる一揆勢宛の書状を入手したことに端を発する。また、京都では政宗から京都に人質として差出した夫人は偽者である、一揆勢が立て篭もる城には政宗の幟や旗が立てられているなどの噂が立ち、秀吉の耳にも届いていた。喚問された政宗は上洛し、一揆扇動の書状は偽物である旨を秀吉に弁明し許されるが、本拠地であった長井・信夫・伊達を含む6郡の代わりに一揆で荒廃した葛西・大崎13郡を与えられ、米沢城72万石から玉造郡岩手沢城(城名を岩出山城に変えた)へ58万石に減転封された。この頃、秀吉から羽柴の名字を与えられ、本拠の岩出山城が大崎氏旧領であった事から、政宗は「羽柴大崎侍従」と称した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E6%94%BF%E5%AE%97
「<この政宗の>上洛直後、利休は家康、政宗らと<京都の日蓮宗の>妙覚寺で茶会に臨んで<いる。>」
https://blog.goo.ne.jp/shuichimaeda/e/8479e025fbc1f03a01ae3aaa70ca524a ]
(参考までだが、「1593年・・・、秀吉の文禄の役に従軍。従軍時に政宗が伊達家の部隊にあつらえさせた戦装束は非常に絢爛豪華なもので、上洛の道中において巷間の噂となった。・・・
秀吉の死後、政宗と五大老・徳川家康は天下人であった秀吉の遺言を破り、・・・1599年・・・、政宗の長女・五郎八姫と家康の六男・松平忠輝を婚約させた。伝存の基本史料を典拠とする限り、家康と政宗をはじめとする諸大名の縁辺は、法度違反の私婚として、その是非を論ずる事はできないとする説もある。この問題の決着が罰則なしの和解になったことも、亡き秀吉に代わる御意の存在を明らかにできないなど法の整備がされておらず、厳密に運用できなかったためである。家康の縁辺問題を違法な私婚とみなす通説は、一方的で客観性に欠ける<とする説もある>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E6%94%BF%E5%AE%97 前掲 )
とまあ、こういう次第で、「・・・天下統一を果たした関白秀吉は、待望の世継ぎ鶴松の将来のため、豊臣家の態勢固めを念頭に利休に代わって身近に石田三成ら権力派を重用し、さらに朝鮮出兵をまじめに考える今となっては、利休は無用の長物とさえ考えるようになってきた。
秀吉の参謀として態勢を固めた中央集権派は、<上出の疑惑のある>・・・徳川家康への牽制も兼ねて、最大の擁護者・豊臣秀長が亡くなったこの機会に千利休を政治的に謀殺する計画を隠密に進め、口実として大徳寺三門利休木像安置を不敬罪とし、茶湯道具目利き不正売買の風評をでっち上げ、三千石の知行に処せられた身分を建前として利休の切腹を秀吉に進言した。
その首謀者が石田三成であった・・・」
https://blog.goo.ne.jp/shuichimaeda/e/8479e025fbc1f03a01ae3aaa70ca524a 前掲
とする、対徳川家康牽制説が唱えられているわけだ。
もとより、ナンセンス以外の何物でもない。
[利休の茶とキリスト教]
「千利休が完成した侘び茶とキリスト教との関わりについて、すでに表千家、裏千家、武者小路千家の家元もその事実を認めているが、特に裏千家に関しては家元の千玄室は、「利休の茶の湯が伝える平等・寛容の精神性」はキリスト教の精神がその土台となっていることを明らかにしている。
また、茶の湯における宗教性については倉沢行洋が「茶道と宗教:キリシタン宣教師の見た日本の茶湯」の中で、日本の茶湯における禅宗的な宗教性を捉えつつ、宣教師たちが茶の湯をどのようにキリスト教宣教に取り入れていったのかを明らかにしている。
特にキリスト教宣教と茶の湯の関連性については、スムットニー・祐美の著『茶の湯とイエズス会宣教師:中世の異文化交流』を挙げることができる。スムットニーは茶の湯の担い手である茶人とキリスト教宣教を担った西欧宣教師との交流を主に異文化交流の側面で考察している。来日した宣教師たちが 1581 年以降『イエズス会士礼法指針』が作成されたヴァリニヤーニの提言、すなわち日本で建てられる新しい教会には必ず茶室を設け、人をもてなすと同時に茶の湯を神学生の修行の一環として取り入れ、ヴァリニヤーニの提言を実現していたことをその著書の中で明らかにしている。
茶の湯を通して交流した人々と交流を深めていく中で、宣教師たちは宣教の課題を適応主義として日本で具体的に実践して行った<。>・・・
利休は大阪と京都にほど近い国際貿易港、堺の商人であった。そこには、すでに礼拝場または、教会があった。また千利休は・・・日比屋了慶と交流があった。当時、了慶邸は人々に開放され、宣教師たちによるミサが行われていた、とされる。
千利休の家は、礼拝場として使われていた了慶邸から 500m 先離れた場所である。そのことからも、利休は了慶の屋敷内の聖堂で、宣教師が畳の上でミサを行うのを見て、そのミサの所作から強い影響を受けたのではないか、との主張を高橋敏夫はその著『茶の湯の心で聖書を読めば』の中で明らかにしている。
また、その後、日本にキリスト教が拡大して行くと同時に、千利休の侘び茶が人々に受け入れられるようになる。この両者の普及した時期が重なっていることは何らかの意味があると言い得る。
それでは千利休の茶の湯とキリスト教は、どのような関りがあるのだろうか。それはキリスト教の聖餐式の中に見出すことができる。聖餐式には、新約聖書におけるイエス・キリストが十字架の死を目の前にして、弟子たちと共に行った「最後の晩餐」の場面がその起源となっている。
新約聖書の福音書(マルコ 14:12 ~ 21、ルカ 22:7 ~ 14、21 ~ 23、ヨハネ 13:21 ~30)によると、最後の晩餐はユダヤの過ぎ越しの祭りの時期であったことが分かる。「過ぎ越しの祭り」とは、旧約聖書に起源を置くモーセに率いられたイスラエル人がエジプトを脱出したことを記念し、家族が一堂に集まって祝う祭りである。
カトリックの司祭ピーター・ミルワードは、その著書である『お茶とミサ』の中で新しい契約としての聖餐式の意味を強調し、お茶室の中で聖餐式を試みている。すなわち、この過ぎ越しの祭りを祝った「最後の晩餐」のその夜はイエスと弟子たちが家族として一堂に集まり、神とイスラエルの民が結んだ「旧い」契約を記念していた。しかし、その最後の晩餐は「旧い」契約を祝っただけでなく、それと同時にその夜から始まるイエスの受難と十字架の死を通して、「新しい」契約が始まる記念すべき日であった。イエスは食卓にあるパンとぶどう酒をこの記念日に取り入れたのである。
過ぎ越しに用いられるパンは、イースト菌が入ってないパンである。イスラエル人がエジプトから逃れる時、火急のあまりパンにイーストを入れて焼く時間がなかったことを記念して食べられるようになった。イエスはこのパンを手に取り、弟子たちに「これはあなたたちに与えられる私の体である」。また、同様にぶどう酒のグラスを手に取って、「これはあなたたちのために流される私の血である」、と宣言した。このようにして、イエスはパンとぶどう酒というごく平凡な食物の基本的な材料を使って、旧約のいけにえである小羊の肉の代わりに、イエス自身の体と血を象徴的にあらわす「新しい」契約を弟子たちと交わしたのである。
つまり、ザビエルやイエズス会の宣教師が 16 世紀の日本に伝えたカトリック・キリスト教は、礼拝ごとに行われる聖餐式に神秘的な意味が含まれていたのである。そのキリスト教の宗教的儀式を通して、千利休は最も深く感銘を受け、その精神の土台とされる「平等と寛容の精神」を茶の湯に取り入れることを試みたのではないか、と解釈することができる。・・・
千利休の孫・宗旦は、その著『茶道抑聞書』の中で、千利休が残した言葉として「高山殿には必と沙汰致し申さざる様に致申候、高山殿と南坊とは利休極上一の弟子也」と、千利休自らが弟子の中で右近を「極上一の弟子」として語っていたことを明らかにしている。その師・利休により右近が利休の極上一の弟子と認められたのは、利休の茶の湯における右近の功績があったことを示している。最近の研究では、この文章の中に、利休の侘び茶が展開されていく鍵となるものが秘められていたのではないかと考察されていて、利休がキリシタンに囲まれ、大きく影響を受けて、侘び茶の研鑽を積み完成に至ったのではないか、という見解が示されている。
このことに関して、既述した千玄室家元が示した利休の侘び茶におけるキリスト教の精神性というのは、右近が師や茶人の仲間との交流を通してその全人格であらわしたキリスト教信仰の実践と精神性において、「極上一の弟子であった」のではないか、と考えることができる。
またキリシタン茶人右近が、どれほど利休の侘び茶に傾倒していたかについて、当時の宣教師ジョアン・ロドリゲスも『日本教会史』の中で、「右近が茶室に退くたびに神に礼拝を捧げ、祈りの修道を怠ることがなかった」と述べ<ている。>」(朴賢淑「キリスト教宣教としての茶の湯―大阪の史跡を中心に―」(大阪女学院大学紀要第17号(2020))より)
http://ir-lib.wilmina.ac.jp/dspace/bitstream/10775/3723/3/08U05.pdf
朴賢淑(PARK, Hyun Suk)は、関西学院大学神学博士、大阪女学院大学国際・英語学部准教授。
http://www.wilmina.ac.jp/ojc/edu/FacultyList/p/park_Profile
https://researchmap.jp/Hyun-Suk
⇒筆者の韓国系(?)のキリスト教徒としての「偏見」を念頭に置いて読まなければならないとはいえ、この論考には説得力がある。
利休のキリシタンとの近しい関係については、当時、広く知られていたと思われるところ、三成は、キリシタン大名達と共謀して、唐入りを挫折させる計画を練っており、利休を亡き者にすることで、ついでに、自分はキリシタンらとは無縁である旨もアッピールすることもできた、と思われる。
なお、私は、神道の拝礼儀式やお祭りといった行事を含め、日本的なものは何でも好きなのだが、昔から、茶道に対しては違和感を覚え続けてきたところ、その理由がようやく分かった思いがしている。
そこに、非日本的なものを感じ取っていた、ということなのだろう。
よりにもよって、それがキリスト教だったとは!(太田)
(3)後陽成天皇の反対
「高麗国への下向、
険路波涛をしのがれん事、勿体無く
諸卒をつかわし候ても事足るか
朝家のため且つ天下のため
かえすがえす
発足ご遠慮していただきたく、
勝ちを千里に決して此度の御事、
おもいとどまり給えば
こんな嬉しいことはなく
そこでこの手紙を遣わします
あなかしく
太閤とのへ
<現代語訳↓>
高麗国への進出の件ですが
大海原を越えて向こうまで行くのは大変で
どれほど多くの兵隊を送り込んだとしても成功するとは思えません
皇室のためにも豊臣家のためにも
もう一度よくお考えになって
出兵は取り消していただきたく存じます
勝ちを千里の外に決して<(注32)>
今回のことは思いとどまってください
(注32)「『史記』にある言葉。いながらにして、優れた謀をめぐらして遠い戦場で勝利を収める。画策そのよろしきを得ること。」
http://kyotocf.com/column/kyo-mystery/chosen-syuppei/ 」(コラム#11375)
と、文禄の役が始まった1592年(文禄元年)に、後陽成天皇は秀吉に手紙を送ったわけだ。
これは、形の上では、秀吉自身の従軍を止めて欲しいと言っているだけだが、唐入り自身を中止して欲しいという気持ちが滲み出ており、天皇は勇気を振り絞ってこれを書いた、と思われる。
この手紙は、北政所が頼んで送ってもらった、という説がある。↓
「秀吉が、日本を超え、朝鮮半島、中国大陸へ進出する野望を抱くのですが、ねね<(北政所)(注33)>はその計画に反対でした。そこで、ねねは義理の息子に当たる後陽成天皇にかけあい、やめるように勅旨を出してもらいました。
(注33)北政所(秀吉)の養子/養女と猶子:
養子
羽柴秀勝(織田信長の四男・於次)
豊臣秀勝(姉・とも(日秀)と三好吉房の次男。羽柴秀勝を継ぐ)
豊臣秀次(姉・とも(日秀)と三好吉房の長男)
池田輝政(池田恒興の次男)[136][137]
池田長吉(池田恒興の三男)
結城秀康(徳川家康の二男)
小早川秀秋(木下家定の五男。高台院の甥)
養女
豪姫(前田利家の娘。宇喜多秀家正室)
摩阿姫(前田利家の娘。豊臣秀吉側室)
菊姫(前田利家の庶女。早世)
小姫(織田信雄の娘。徳川秀忠正室。早世)
竹林院(大谷吉継の娘。真田信繁正室)
大善院(豊臣秀長の娘。毛利秀元正室)
茶々(浅井長政の娘。豊臣秀吉側室)
初(浅井長政の娘。京極高次正室)
江(浅井長政の娘。佐治一成正室→豊臣秀勝正室→徳川秀忠継室)
糸姫(蜂須賀正勝の娘。黒田長政正室)
宇喜多直家の娘(吉川広家正室)
猶子
宇喜多秀家(宇喜多直家の嫡子、養女の婿であり婿養子でもある)
智仁親王(誠仁親王第6皇子。後に八条宮を創設)
伊達秀宗(伊達政宗の庶子)
近衛前子(近衛前久の娘。後陽成天皇女御)←–!!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89
1586年、羽柴秀勝死去←織田信長の子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%BD%E6%9F%B4%E7%A7%80%E5%8B%9D
義理の息子というのは、秀吉は関白になる前に、近衛前久の養子になった経緯が・・・あ<るからで>す。
この縁組の後、近衛前久の娘の前子<(さきこ)>がねねと秀吉の養女となっており、前子は、即位が確定していた後陽成天皇と結婚し・・・た<のです>。この婚姻をもって、ねねは、天皇の義理母にもなっていたのです。
肝心の秀吉は、誰の諫言も聞き入れず、朝鮮出兵を進めます。朝鮮へ進軍するにあたり、ねねが育てていた養子の金吾も参加することになり、金吾は大坂を離れ、秀吉のいる九州へ出かける運びとなりました。そして、到着するやいなや、ごきげんななめのねねの様子を秀吉に報告したのです。金吾は、「母にお願いしておいた武具や道具は何も整わず、母は機嫌が悪かった」と秀吉に言ったのです。・・・
娘の前子は皇后として12人の子供を産みました。ねねは天皇の義理母になっただけでなく、後陽成天皇を継いで即位した後水尾天皇の祖母という関係になりました。ねねは豊臣と徳川と天皇家の母として、祖母として、重要な立場を占めていきました。」(北川智子「「子供はできなかったが…」秀吉の妻ねねが揺るぎなき地位を築けたワケ–養子縁組を重ねて多くの子供の母に」より)
https://president.jp/articles/-/44099
私は、後に述べる理由から、ねねも唐入りに反対だったとは思っているのだが、後陽成天皇が動いたのは、近衛父子とも相談しつつ、あくまでも彼自身の発意で、この手紙を書いたのだと見ている。
(4)叛逆
文禄の役の際の陣立ては以下の通りだ。↓
「一番隊の編成 小西行長 7,000人 宗義智 5,000人 松浦鎮信 3,000人 有馬晴信 2,000人 大村喜前 1,000人 五島純玄 700人 総計 18,700人」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E7%BE%A9%E6%99%BA
「一番隊および二番隊(先手は、加藤清正と小西行長が籤によって2日交替で担うと定められていた。先手の際には一番隊となる。)
加藤隊(加藤清正)…10,000人
小西隊・計14,700人(四備え)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9
上下どちらが正しいのか知らないが、私は、上の方の説を取る。
で、小西隊の大名達は、よく知られている小西行長は省くとして、以下の通りだ。↓
「松浦鎮信<(しげのぶ)は、>・・・1572年・・・には、大村純忠を攻めて、・・・1574年・・・にこれをついに屈服させ、純忠の娘(松東院)を息子久信の妻とすることで和議をまとめた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E9%8E%AE%E4%BF%A1
「壱岐島<は、>・・・<鎮信の父の松浦>隆信との連合軍に敗退した・・・結果、島は<日高>喜の娘を嫁がせた隆信の子<で鎮信の弟の>松浦信実が、城代に就いた。
江戸時代には松浦党の流れを汲む、平戸松浦氏が治める平戸藩の一部に編入された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%B1%E5%B2%90%E5%B3%B6
「松浦隆信<(1529~1599年)の本拠地の>・・・平戸には明の商人や(中国商人を庇護する)中国人の海賊(後期倭寇)が多く住んでいたが、勝尾山に邸宅を構えた海賊王に「五峯」を称した王直がおり、伝承ではこの人物がポルトガル船を水先案内して初めて平戸に来航させたと言われる。隆信はこれを主君筋にあたる大友義鎮に報告して互市の許可を得て、ポルトガル貿易(南蛮貿易)が開始された。
さらに・・・1550年・・・、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが布教を断られた鹿児島から平戸にやってきた。隆信は宣教師の同地での布教活動を許したので、1553年から1561年までの間、ポルトガル船は毎年来航するようになり、平戸は中心交易地として栄えた。隆信は鉄砲や大砲などの武器を率先して購入した。しかし宣教師を厚遇したが、隆信(=熱心な曹洞宗宗徒)自身はキリスト教には馴染まず、信者の拡大は地域に軋轢を生んだ。・・・1558年・・・、隆信は宣教師ガスパル・ヴィレラに平戸からの退去を命じ、これに乗じた仏教徒が教会を焼討する事件が起こった。さらに<1561>年には商取引の揉め事でポルトガル人が殺傷される事件(宮ノ前事件)もあり、ポルトガル船は大村純忠の支配する横瀬浦に移ってしまった。しかし横瀬浦でも焼討があったため、・・・1564年・・・に隆信が請うてポルトガル船の再入港を促し、教会も再建されたが、翌年にはルイス・フロイスらの周旋で自らキリシタン大名となった大村純忠の領土の福田浦にポルトガル船は去ってしまい、長崎港が本格開港されるに及んで平戸のポルトガル貿易は終焉した。
一方で、貿易による巨万の富を築き上げた隆信は、領内でも鉄砲の製造を命じ、火薬の備蓄や、鉄砲足軽の訓練に勤しんで、軍備を拡大した。その力を背景にして(衰退傾向にあった)倭寇の拠点3ヵ所の制圧し、北松浦半島を制圧した。
隆信は、有馬氏や龍造寺氏などの近隣の大名と事を構え、度々合戦をしながら・・・攻撃し<たり>、婚姻や血族を養子として入れ<たりす>ることでを松浦党の一族をまとめ・・・た。・・・
1568年・・・、嫡男の鎮信に家督を譲って隠居したが、実権はなおも握り続けたと言われる。・・・1571年・・・、壱岐を支配下に置いた。・・・
1587年・・・には豊臣秀吉の九州平定に参陣して所領安堵を許された。・・・
文禄・慶長の役には当主たる息子が出征して隆信は出陣しなかったが、・・・1594年・・・、壱岐や五島列島と朝鮮間の兵糧米の輸送の監督を秀吉に依頼され、これを果たしたので賞された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E9%9A%86%E4%BF%A1
「有馬晴信<(コラム#12259)(1567~1612年)は、>・・・1571年)、兄の義純が早世したため5歳の時に家督を継承した。肥前守護でもあった大友宗麟(義鎮)から偏諱を賜い「鎮純」さらに「鎮貴」を名乗る。守護の大友氏に従っていたが有馬氏は、龍造寺隆信やその支援を受けた西郷純堯・深堀純賢兄弟の圧迫を受けて、晴信も隆信の攻勢の前に臣従せざるを得なくなったが、・・・1584年・・・に島津義久と通じて沖田畷の戦いで隆信を滅ぼした。しかし、・・・1587年・・・の豊臣秀吉による九州平定においては、島津氏と縁を切り、豊臣勢に加わっている。
家督を継いだ当初はキリシタンを嫌悪していたが、・・・1580年・・・に洗礼を受けてドン・プロタジオの洗礼名を持ち、以後は熱心なキリシタンとなった。・・・1582年・・・には大友宗麟や叔父の大村純忠と共に天正遣欧少年使節を派遣している。・・・1584年・・・の沖田畷の戦いにおいては、教皇から贈られた「聖遺物」を胸に懸け、「大きな十字架を描いた上に我らの文字で聖なるイエズスの名を記した」軍旗を掲げて勇戦した。またこの合戦に先立って誓願を立て、長崎近傍の浦上の地をイエズス会に寄進した。・・・1587年・・・に秀吉が禁教令が出すまで、数万を超えるキリシタンを保護していたという。その後も個人的にはキリスト教信仰を守り続けていた。
文禄の役では、弟の有馬直政(のちの純忠)に日野江城の留守を命じ、2000人の兵を率いて出陣した。小西行長、宗義智以下他の諸大名と共に、第一軍として釜山へ攻め込んだ。以後、<1598>年に撤兵して帰国するまでの六年間、朝鮮で過ごした。
・・・1600年・・・の関ヶ原の戦いでは東軍に属し、加藤清正と共に小西行長の宇土城を攻撃することとなった。その時、晴信は眼病のため出陣できず、代わりに直純がその名代として出陣した。
・・・1609年・・・2月、幕府の命を受けて高山国(台湾)に谷川角兵衛を派遣し、貿易の可能性を探っている・・・。・・・
妻は有馬義純または大村純忠娘ルチア<等>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E6%99%B4%E4%BF%A1
「大村喜前<(よしあき。1569~1616年)は、>・・・1569年)、キリシタン大名大村純忠の嫡男として誕生した。・・・1587年・・・3月からの豊臣秀吉の九州征伐の際には、病床の父に代わって19歳の喜前が秀吉の下に代参陣し、・・・旧領安堵の朱印状を受けた。また、同年5月18日の父の死により家督を相続した。またこの年、松浦鎮信の嫡子久信に妹の松東院を嫁がせ、化粧領として所領を分与している。
・・・1592年・・・からの文禄・慶長の役にも出陣した。・・・
1600年・・・の関ヶ原の戦いでは、松浦鎮信が、同じ肥前の喜前、有馬晴信、五島玄雅を誘い、神集島に集まって自身らの去就を話し合った。この四氏は先の文禄・慶長の役では小西行長配下の第一軍として戦った仲であった。喜前の意見が採られ、四氏は徳川家康の東軍に加担することとなった・・・。・・・
喜前は父と同じくドン・サンチョの洗礼名を持つキリシタンであったが、・・・1587年・・・に豊臣秀吉が発令した「バテレン追放令」を受けて領内から宣教師を追放し、朝鮮出兵以来、領内に禁制を布いていた。自身は個人的信仰については明言していなかったが、<1600>年2月19日・・・にキリシタンであった室が死去した際は、教会に墓所を作っている。その後、熱狂的な日蓮宗徒であった肥後の大名加藤清正の薦めもあって、あるいは長崎が没収されて幕府直轄とされたがこれがジョアン・ロドリゲスの策謀ではないかと疑ったとか、日本人司祭トマス荒木が宣教師は外国侵略の尖兵だ等の讒言をしたため嫌悪するようになったなど、理由には諸説あるものの、・・・1602年・・・、公然とキリスト教を棄てて日蓮宗に改宗した。それに伴って『大村家記』で邪教と名指しされるキリスト教を領内から駆逐すべく、キリシタンに対して厳しい取締りを始めた。領内に多くあった教会はすべて破棄された。これに妹の松東院や、当時はキリシタンであった純頼は反対したが、後には幕府の禁制となったため、従う他なかった。・・・
大坂の陣では大村氏は徳川方として参戦し、長崎の警備や豊臣氏残党の追捕を務めた。
キリスト教から離れる一方で、・・・1603年・・・に大村家の菩提寺として建立した本経寺など、領内に多数の寺院を建立している。・・・
天正少年使節の副使・千々石ミゲルは従兄弟にあたるが、千々石<も>棄教し<ている。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%91%E5%96%9C%E5%89%8D
「五島純玄<(すみはる。1562~1594年)は、>・・・初めは宇久次郎純玄を名乗り、宇久氏第20代当主、五島氏の初代。
宇久純尭の子と言われるが、純尭の庶子あるいは、純尭の父宇久純定の長男の遺児(つまり甥)とも言う。宇久家は純定が時代からキリスト教を受け入れ、純玄も洗礼を受けて洗礼名はルイス。
・・・1587年・・・に家督を継ぐと五島列島を平定。豊臣秀吉の九州平定の時に帰服して協力したため、五島1万2千6百石の所領を安堵された。
同年のバテレン追放令に際して、宇久家の実権を持っていた大叔父宇久盛重(宇久盛長の父)が領内でキリシタン迫害を始めたために家臣団の一部(大浜玄雅ら)が長崎に亡命するなど、宗門問題で対立があった。
・・・1592年・・・から始まった文禄の役に参加することになったことから、これを期して名字を宇久から五島に改名した。・・・
翌・・・1594年・・・7月の休戦交渉中、純玄は疱瘡(天然痘)にかかって・・・死去した。・・・
正室<は、>松浦鎮信の養女(西郷純尚の娘)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%B3%B6%E7%B4%94%E7%8E%84
西郷純尚(?~?年)。「1577年・・・、6月下旬、父純堯は龍造寺隆信の伊佐早侵攻に際し、降伏を許され、純尚は隆信から偏諱を受け信尚と改めた。そのしばらく後に純堯が死去したため、信尚が西郷氏の家督を継いだ。
・・・1587年・・・、豊臣秀吉の九州平定に参陣しなかったため、秀吉から領地を没収される。信尚に変わって龍造寺家晴が伊佐早を治めることとなったが、同年に発生した肥後国人一揆を鎮圧するため、家晴が出陣した隙に信尚が挙兵、伊佐早城を奪回した。秀吉は直ちに鎮圧すべく、小早川隆景の指揮の下、家晴や鍋島氏、有馬氏らに討伐を命じた。信尚方は陣の辻で龍造寺方に戦いを挑むも敗北する。この戦いで信尚は家晴に討たれたとも、妻の実家がある平戸へ逃れたともいわれている。
信尚の嫡男・純久は松浦氏に仕え、500石を領した。・・・
母<は>有馬義貞姉(娘とも)・・・<、妹(姉?)は>松浦鎮信正室<、>・・・妻<は>松浦氏」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E4%BF%A1%E5%B0%9A
⇒以上の諸武将の関係図を描けば、下掲の通りとなる。(☆/★はキリシタン。★は、そのうち、文禄の役に出兵した者だ。)↓
小西行長★‐妙☆
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宗義智★
五島純玄★
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-西郷信尚—–○(松浦鎮信の養女)
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-○
|
松浦隆信—-鎮信★—–久信☆
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— ○
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大村純忠☆—喜前★(→日蓮宗)
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— ○(晴信の兄の義純の娘の可能性もある)
|
有馬晴信★
つまり、文禄の役での一番隊(先鋒隊)の武将達6人は全員がキリシタンで、しかも、それぞれ、2人と4人からなる、縁戚関係にあるグループから成っている。
この特異な編成は、石田三成が企画して秀吉に飲ませた、と思われるところ、これは、1587年にバテレン追放令を発令しつつも、「南蛮貿易のもたらす実利を重視した秀吉<が、>京都にあった教会(南蛮寺)を破却、長崎の公館と教会堂を接収してはいるが、キリスト教そのものへのそれ以上の強硬な禁教は行っていない。・・・<しかも、>イエズス会宣教師を通訳やポルトガル商人との貿易の仲介役として重用し<続け>た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%B3%E8%BF%BD%E6%94%BE%E4%BB%A4
ことに三成が付け入った形だ。
バテレン追放令がこれほども竜頭蛇尾になった理由は三つあると私は見ており、一つは、秀吉の「家庭内」にキリシタンがいた(後出)ため、キリシタン自体の禁止にまで踏み込めなかったからであり、もう一つは、半島、大陸情勢に明るい北部九州の武将達の多くがキリシタンであって、彼らを唐入りにおいて活用する必要があったところ、棄教を強制すれば、彼らの積極的協力が得られなくなる恐れがあったからだろう。
そして三つ目は、バテレン追放令を発した秀吉が、キリシタンそのものの禁教へと踏み出すことを恐れたキリシタン武将達が否応なしに唐入りで活躍するだろうとの三成の口車に載せられてしまったからだ、と考えたらどうだろうか。
こうして、まんまと、先鋒隊の司令官役をあてがわれた行長は、予定通りの重大な背信行為を行うことになる。↓
「沈惟敬<(しんいけい/ちんいけい)>は、>・・・小西行長と講和を画策し、後、明の正使の楊方亨の副使として来日。和議は不成立に終わったが、明皇帝にいつわって成立を報告した。慶長の役でそれが暴露し、再び朝鮮に入り講和を策したが失敗し、<1597年に>北京で斬刑に処せられた。」
https://kotobank.jp/word/%E6%B2%88%E6%83%9F%E6%95%AC-81316
「明へ向かった内藤如安は秀吉の「納款表」を持っていたが、明の宋応昌は秀吉の「降伏」を示す文書が必要だと主張。小西行長は「関白降表」を偽作して内藤に託し、内藤は翌1594年(文禄3年)の12月に北京に到着した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9 前掲
ところが、後で述べる理由から、「文禄5年(1596年)9月、秀吉は<、>来朝した明使節と謁見。自分の要求が全く受け入れられていないのを知り激怒。使者を追い返し朝鮮への再度出兵を決定」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9
するに至ってしまう。
この詳細な経緯は下掲の通りだ。↓
「小西行長<は、>・・・。沈惟敬に対して「両国の旧規に復し、和親の実をはかりたい」旨の書面を送っていた・・・。さすれば明側としては勘合貿易をはじめた足利義満の時と同じように、秀吉を「日本国王に封ずる」としたとしても、別段不思議はない。行長と沈惟敬は明使の徐一貫・謝用(・木へんに宰)らを伴って五月八日に釜山を出、一五日に名護屋に着いた。
秀吉はこの使節を手厚くもてなした上、六月二八日に次のような七か条の講和条件を交付した。
(図表「秀吉の和議七條」)
一 明の皇女をわが后妃に迎える。
二 勘合貿易を復活する。
三 日明の和平を確保するために、両国の大臣が誓詞を取りかわす。
四 講和が成立すれば朝鮮北部の四道と京城を返還する。
五 朝鮮より王子・大臣一両人を人質とする。
六 去年生檎にした二王子は放還する。
七 朝鮮国王の重臣が代々日本に背かないという誓詞を書く。
というものであった(甫庵太閤記)。
⇒もとより、秀吉は、唐入りを諦めたわけではなく、勝者の立場で明と休戦し、態勢を整備した後、改めて唐入りを再開するつもりだったはずだ。
念頭にあったのは、匈奴の老上単于が漢の孝文帝に公主と貢納品を贈らせた前例
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%88%E5%A5%B4
ではなかろうか。
この場合、匈奴は、結局、漢の征服に失敗するので、余り良い前例とは言えないが・・(太田)
秀吉はじめ側近の人々は日本が朝鮮で勝利を得ていると信じ、これは勝者の立場で作成されたものである。戦いの当初から小西行長は秀吉に現実を知らせるという努力と方法を講じていなかった。まことに筋の通らない不都合な話である。
⇒その逆であり、三成と行長にとっては、「まことにもって筋の通った都合のよい話であった」わけだ。(太田)
明は負けたとは思っていない。これが正式に明廷に披露されたら大変なことである。ところが沈惟敬という男はもともと市井無頼の遊説の士で、遊撃将軍という名で交渉に当たっており、責任ある立場の人物でもなく、また謝用(・木へんに宰)・徐一貫にしても講和使に仕立てられて来ているが、当時遼東にいた下級官吏に過ぎない者であった(壬辰戦乱史中)。
和平交渉はこのような矛盾を含んだまま、沈惟敬と小西行長の間で進められ、八月二九日に日本側からは小西行長の家臣内藤如安という者が京城を発して明に行くことになった。北に進むにしたがって抑留されることが多く、一年有半を経てようやく文禄三年一二月六日に北京城に入った。
如安は北京に到着すると秀吉の講和状を明政府に提出したが、その内容は一日も早く和平を願う小西行長と沈惟敬によってすりかえられ降伏状となっていた。明では日本軍を破って京城以南に駆逐し、日本は朝鮮から全軍を撤退して和を請うに至ったと見ていた。だから秀吉の講和条件は意味をなしておらず、明に使するとすれば降伏状の形をとらざるを得ない、と行長と沈惟敬との相談で偽作したものであった。そのため明では秀吉が降を乞うたので、恩恵をもって日本国王に封じたと考えたものであった。秀吉の認識とは全く正反対で、とうてい妥協の道はなかった。
文禄四年日本への正使に任ぜられた李宗城は釜山に着き、行長の陣営で渡海を待っていたが、翌五年四月二日に出奔してしまった。恐らく、彼は行長と惟敬とが両国をあざむいて和平を結ぼうとするからくりを知り、ことの重大さに恐れをなしたものであろう。明側では副使の楊方亨<(ようほうこう)>を正使に昇格させ、沈惟敬を副使として釜山を発し堺に着いた。たまたま畿内に大地震が起こり、伏見城の被害が大きかったので、九月一日に大坂城で明使の引見が行われた。
正使楊方亨が前に進み、国書金印を秀吉に奉呈した。<(注34)>
(注34)「「明の使者<は、>秀吉を日本国王に封じる旨を記した書と金印を携えて来日<し>た。冊封の内容はアルタン・ハーンのものを先例とし、順化王の王号と金印を授与するものであった(秀吉の王冊封以外にも宇喜多秀家、小西行長、増田長盛、石田三成、大谷吉継ら和平派諸将が大都督、前田利家、徳川家康、上杉景勝らが地方の都督指揮に任じられる)。これは明の臣下になることを意味するもの<だった。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%A5%BF%E8%A1%8C%E9%95%B7
誥命の要旨は次の通りであった。
「亀紐竜章(任命文書)、扶桑の域を遠錫し、貞珉大篆、鎭国の山を栄施す」
「咨る、爾豊臣平秀吉、海邦に崛起し、中国を尊ぶを知る、西のかた一介の使を馳せ、欣慕来同し、北のかた万里の関を叩き、内附を懇求す。情、既に恭順に堅く、恩、柔懐に斬靳可し、茲に特に爾を封じて、日本国王と為し、之に誥命を賜う」
翌二日、秀吉は明使一行を饗応し、相国寺の僧承兌<(注35)>に命じて明の国書を読ませた。
(注35)西笑承兌(さいしょう(せいしょう)じょうたい。1548~1607年)。「臨済宗の僧。・・・豊臣秀吉や徳川家康の顧問・外交僧的役割を務め<た。>・・・伏見版『周易』(1605年)の出版を行ったため、近世易学の隆盛の祖ともされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E7%AC%91%E6%89%BF%E5%85%8C
このとき行長はひそかに承兌を呼んで、書中太閤の意に添わない個所があれば避けるように、と依頼した。
⇒三成と行長は、沈惟敬と一緒に明の国書を偽造し、同時に、楊方亨を買収なし脅迫して、読み上げられる国書の内容が真正の国書と違っていても黙っているよう確約させるべきだったのに、随分手抜きをしたものだ。
唐入り挫折計画がうまく行き過ぎて、魔が差したといったところか。(太田)
しかし承兌は聴かず、ありのままに読み上げた。「茲に特に爾を封じて日本国王と為し、之が誥命を賜う」という所に至って秀吉は激怒し、和約は破棄された。
秀吉は憤懣やるかたなく、その場で小西行長を斬り捨てようとしたが、承兌のとりなしと本人の陳謝によって死を免れた。こうして秀吉の認識不足と小西一派の外交の小細工が暴露され、即夜に再征の令が下された。」
https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/64/view/8031
⇒秀吉にとって致命的だったのは、死ぬまで、疑いつつも三成を最重用し続けたことだ。(太田)
「和義が破綻して、不首尾のうちに釜山浦へ帰り着いた明冊封使の・・・<の>正使楊方亨ならびに副使沈惟敬は、大坂城における秀吉の激怒と和議の破綻をそのまま報告することが出来ずに、今一度、明皇帝をたぶらかす策を講じた。つまり、『秀吉、冊封を受く』の偽報を発したのである。さらに、秀吉の冊封に対する『謝恩表』をも偽造し、これも北京へ送った。これによって、明朝廷は一件落着と安心したのであるが、その直後に、日本軍再攻を報せて救援を乞う朝鮮国王からの使者が到着したのである。不審をいだいた明朝廷では、さっそくこの調査にあたることにした。そこへ、当の正使楊方亨がそんな経緯を知らずにのこのこと北京へ戻って来た。楊はすぐに逮捕され、取り調べの末に和議破綻の顛末を告白し、全ての罪を沈惟敬になすりつけた。ここにおいて肯定は初めて秀吉の提示した和議七ヶ条を知って激怒する。兵部尚書石星(せきせい)・楊方亨は解任されて獄に下され、沈惟敬には捕吏が差し向けられた。その後、惟敬は行長を頼って朝鮮国内を逃げ回ることになるが、遂には・・・捕えられて、この戦役の後、北京で刑場の露と消える事になる。」(金永治雄『智将李舜臣龍と伝説』より)
https://books.google.co.jp/books?id=_qpHbxpsCZsC&pg=PA429&lpg=PA429&dq=%E6%A5%8A%E6%96%B9%E4%BA%A8&source=bl&ots=oKUHjDh7gB&sig=ACfU3U0HA3FKxQ7mu26bMSYPVe92R5gZRg&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjn_9ntv-_yAhVLL6YKHSTvCQ8Q6AF6BAggEAM
ちなみに、行長は、もう一つ、深刻な叛逆行為を行ったと思われる。↓
「李氏朝鮮に配下の要時羅(家臣・梯七太夫のこと)を派遣して清正軍の上陸時期を密告し、清正を討ち取るよう働きかけた。李氏朝鮮は李舜臣に攻撃を命じたが、李は罠だと思い攻撃を躊躇ったために陰謀は失敗した(柳成龍『懲毖録』)。・・・
懲毖録自体が資料としての信頼性が低く、朝鮮側の資料にしか記述が無い為、真偽は不明である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%A5%BF%E8%A1%8C%E9%95%B7
この話について、上掲ウィキペディア筆者は典拠の信憑性に疑問符をつけているが、それはおかしい。↓
「『懲毖録』(ちょうひろく)は、17世紀前後に書かれた李氏朝鮮の史書で、著者は同王朝の宰相柳成龍。文禄・慶長の役を記録したもので、重要な資料として、韓国の国宝第132号に指定されている。・・・
『懲毖録』には数多くの逸話が記されている。その代表的なものを以下にあげる。・・・
1591年に日本に派遣された通信使正使黄允吉と副使金誠一は、視察後、国王に報告するにあたって、黄允吉は「必ずや兵禍がありましょう」と述べたのに対し、金誠一は「臣は倭国でそのような徴候を見ておりません」と答えた。
1592年4月15日、日本軍は東萊に進攻し宋象賢の守る城を落した。そのとき、宋象賢は日本軍に命乞いをすることを拒み、死ぬことを選んだ。倭人たちは宋象賢の死守を賞賛し、亡骸を棺におさめて埋葬し、墓標を立ててその志を標した。
沈惟敬と小西行長は親しく、事あるごとに互いにうまく繕いながらその場逃れの処置で戦争を収めようとした。・・・
1695年、大和屋伊兵衛が京都で「2巻本」の『懲毖録』を訓読をつけて刊行した。これにより、日本側に文禄・慶長の役での朝鮮側の事情が伝わることになった。・・・
一方朝鮮側では、『懲毖録』が日本に出回っていることが物議を醸し、1712年、日本への書籍の輸出を禁止する等の騒動になった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%87%B2%E6%AF%96%E9%8C%B2
以上、もっぱら、小西行長に焦点を当ててきたが、石田三成と北政所についても押えておこう。
まず、文禄の役から秀吉の死までの間の三成の事績は次の通りだ。↓
「1592年・・・からの文禄の役(朝鮮出兵)では渡海し、増田長盛や大谷吉継と共に漢城に駐留して朝鮮出兵の総奉行を務める。・・・1593年・・・、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いに参加。その後、明軍の講和使・謝用梓、徐一貫を伴って肥前名護屋城に戻るなど、明との講和交渉に積極的役割を果たしている。
⇒三成は、文禄の役において、派遣軍総司令官だったのであり、明や朝鮮とのあらゆる交渉を掌握すべき立場にあり、実際、掌握していたはずだ。(太田)
しかし、<三成は、>秀吉と現地の連絡役という立場<でもあったところ、彼>の行動は、豊臣家中で福島正則、黒田長政ら武断派の反発を招いた。
⇒そうではなく、三成は、「秀吉と現地の連絡役という立場」に叛き、小西行長と共に、唐入りを挫折させる行動をとったところ、そんなことが、三成の「隷下」の福島正則、黒田長政らに気取られないわけがなく、彼らの「反発を招いた」のだ。(太田)
・・・1594年・・・、・・・に島津氏・佐竹氏の領国を奉行として検地する。
⇒前述の通り、三成は、近衛家/島津家と密かに連携行動をとっていたわけだ。(太田)
・・・1595年・・・、秀吉の命により、秀吉の甥・豊臣秀次を謀反の嫌疑により糾問する(秀次事件)。
⇒秀次は、近衛家と北政所の意向に沿った行動をとっていたのを秀吉に見とがめられ、秀吉は三成に秀次の抹殺を命じ、三成は、(実は三成に間接的に踊らされていたことを知る由もなかった)秀次を抹殺することになる。(太田)
秀次の死後、その旧領のうち近江7万石が三成の代官地になる。
また、同年に畿内と東国を結ぶ要衝として、軍事的にも政治的にも、重要な拠点である近江佐和山19万4,000石の所領を秀吉から与えられ 、正式に佐和山城主となった。
・・・1596年・・・、佐和山領内に十三ヶ条掟書、九ヶ条掟書を出す。 明の講和使節を接待。同年、京都奉行に任じられ、秀吉の命令でキリシタン弾圧を命じられている。 ただし、三成はこの時に捕らえるキリシタンの数を極力減らしたり、秀吉の怒りを宥めて信徒たちが処刑されないように奔走したりするなどの情誼を見せたという(日本二十六聖人)。
⇒豊臣家の家中にキリシタン達やその有力なるシンパ達を抱えているという秀吉の弱み(後述)を熟知していた三成は、小西行長を始めとするキリシタン大名達との密かな盟約関係を維持するために、この秀吉の命令は水で薄めて実行した(注36)わけだ。(太田)
(注36)「1596年のサン・フェリペ号事件を契機とした秀吉の「フランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛して処刑する」命令を受けた京都奉行の石田三成は、犠牲者の数をできるだけ減らそうと尽力し<た>が、京と大阪で外国人宣教師・修道士6名、日本人修道士と信者18名が捕縛され・・・た<ところ、>この時の犠牲者を減らすための三成の尽力<は、良く知られている。>」
https://koueorihotaru.hatenadiary.com/entry/2014/12/28/160512
・・・1597年・・・、慶長の役が始まると国内で後方支援に活躍した。
その一方で、この年に起きた蔚山城の戦いの際に在朝鮮の諸将によって戦線縮小が提案され、これに激怒した秀吉によって提案に参加した大名が譴責や所領の一部没収などの処分を受ける事件が起きた。
⇒原因を作ったのは、後方支援を意図的に怠った三成である、という私の見方について既述したが、これが、文禄の役の時の三成の叛逆と合わせ技的に「武断派」の怒りを増幅させた、と見るわけだ。(太田)
この際、現地から状況を報告した軍目付は三成の縁戚である福原長堯らであり、処分を受けた黒田長政、蜂須賀家政らはこの処分を秀吉に三成・長堯が意見した結果と捉え、彼らと三成が対立関係となるきっかけとなった。
・・・1598年・・・、秀吉は小早川秀秋の領地であった筑後国・筑前国を三成に下賜しようとしたが、三成は辞退している。 しかし、筑後国・筑前国の蔵入地の代官に任命されて名島城を与えられた。
・・・1599年・・・に予定されていた朝鮮における大規模攻勢では、福島正則や増田長盛と共に出征軍の大将となる事が決定していた。 しかし、・・・1598年・・・8月に秀吉が没したためこの計画は実現せず、代わって戦争の終結と出征軍の帰国業務に尽力した。・・・
三成は自身の書状で特に親しかった武将として小西行長と寺沢広高を挙げている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%94%B0%E4%B8%89%E6%88%90
⇒小西行長と寺沢広高・・1594年にキリシタンに改宗し、当時、長崎奉行だったが、1597年の26聖人処刑を契機に棄教・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E6%B2%A2%E5%BA%83%E9%AB%98
のどちらもキリシタンであったこと、といい、筆頭に行長を挙げたことといい、三成はなんとバカ正直な人間だったことよ、と呆れてしまう。(太田)
そして、同じ時期の北政所の事績は次の通りだ。↓
「<1596>年九月、明との講和の失敗により秀吉の怒りを買い、しばらく政庁から遠ざけられた小西(洗礼名アゴスチイノ)行長に対して、「「太閤の奥方(北)政所様も(小西)アゴスチイノの夫人ジュスタを訪問するために幾人かの人々を遣わして、すべての諸事態がこのような災難に変化している中にあって夫人を慰めた」」(『ルイス・フロイスの年報捕逸』)・・・
<1599>年閏三月の石田三成の七将襲撃事件の収拾において北政所の取り成しがあり、三成は助命されたという史料があります。(公家の山科言経の日記に「太閤政所御アツカイニテ無事」とあります。)」
https://koueorihotaru.hatenadiary.com/entry/2018/10/15/232647
[北政所とキリシタン]
北政所のすぐそばには、長期にわたり、内藤ジュリアと豪姫という、最初はキリシタン・シンパで、後にキリシタンとなった者達、がいた。↓
「豪姫<は、>・・・前田利家の四女<で>・・・数え2歳の時<に、>・・・子のなかった秀吉夫婦の養女と<なったところの、>・・・豪姫<(1574~1634年)は、>・・・1588年・・・以前に<、>秀吉の猶子であった・・・宇喜多秀家の妻として嫁<いだが、>・・・1600年・・・、秀家が関ヶ原の戦いで石田三成ら西軍方に属していたため、戦後に宇喜多氏は改易。・・・
<この豪姫は、関ヶ原の戦いの結果としての>宇喜多家<の>没落後、高台院<(北政所)>に仕えていたが、・・・内藤ジュリア<(下出)の>・・・先達<で>・・・洗礼を受けた<(注37)>のち、・・・1607年・・・頃、金沢<の前田家>に引取られた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%AA%E5%A7%AB
(注37)彼女がキリシタンになった経緯。↓
Tomoko Kitagawa The Conversion of Hideyoshi’s Daughter Gō
https://nirc.nanzan-u.ac.jp/nfile/2916
「内藤ジュリア<(1566~1627年)は、>・・・父は<松永久秀の弟の>松永長頼<で>・・・兄に内藤如安<(下出)がいる>。・・・1587年に夫は死去したという。一度は仏門に入ったものの、・・・1595年・・・にキリスト教に改宗。大名夫人たちへの布教活動を行い、主な人物としては豪姫を改宗させた。・・・
1614年・・・、禁教政策により兄・如安や高山右近らと共に呂栄(ルソン島)に追放される。配流後も日本女性13人と聖ミカエル会(旧・修道女会)を結成して一生を神に捧げた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E8%97%A4%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%82%A2
「内藤如安<(1550?~1626年)は、>・・・1564年・・・、ルイス・フロイス(またはガスパル・ヴィレラ)によりキリスト教に入信したという。・・・
1585年・・・頃に小西行長に仕えるようになった。行長は如安を重用して重臣に取り立て、小西姓を名乗ることを許した。ちなみに小西氏は如安の外曽祖父・内藤貞正の弟・内藤久清に始まる家系にあたるため、この優遇は同族一門としての処遇の可能性もある。朝鮮の役の際の明との和議交渉では使者となり、北京へ赴いており、この際の明・朝鮮の記録では如安を「小西飛・・・」(小西飛騨守の略)として表記している。
ところが・・・1600年・・・9月、関ヶ原の戦いで主君・行長は西軍の主力として戦って敗れ、斬首された。如安は同じキリシタンである肥前の大名・有馬晴信の手引きで平戸へ逃れ、その後加藤清正の客将となった。
・・・1603年・・・、前田家に客将として4千石で迎えられる。 前田氏の居城・金沢城には同じくキリシタンである高山右近がおり、ともに熱心に布教活動や教会の建設に取り組んだ。
しかし・・・1613年・・・、徳川家康からキリシタン追放令が出されると、・・・1614年・・・9月24日、如安は高山右近や妹のジュリアと共に呂宋・・・のマニラへ追放された。到着先のマニラでは、総督以下住民の祝砲とともに迎えられるなど、手厚い歓迎を受けた。マニラではイントラムロス近くに日本人キリシタン町サンミゲルを築いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E8%97%A4%E5%A6%82%E5%AE%89
「<北政所>の侍女のなかにはマグダレナというキリシタンもいた」
https://study-z.net/2812/3
ということからして、豪姫がキリシタンになったのは、このマグダレナの影響だと思われる。
ちなみに、マグダレナはこういう人物だ。↓
小西隆佐(りゅうさ。?~1592年)(前出)は、「堺の豪商。豊臣秀吉の家臣。熱心なキリシタンで、小西行長の父親<であり、>・・・1585年・・・頃から秀吉に仕え、播州室津や小豆島、河内国・和泉国における豊臣氏の蔵入地の代官に任命された<ところ、この>隆佐の妻の洗礼名はマグダレーナ(マグダレナ)で、日本名はワクサ、またはウサ、ワサなどと伝わるが、彼女も北政所に仕えて、侍女となった。・・・
<隆佐は、秀吉の>1587年・・・の九州征伐では兵糧の補給役を命じられ、堺の奉行職に任命された<けれど、>同年に発せられたバテレン追放令を受けて、隆佐は堺の奉行を辞し、マグダレーナも城を去った。
宣教師追放後、隆佐と日比屋了珪は京都と大阪の信者の師父となり、自宅を信者に開放して教会とし、堺にはライ病患者の病院を建てた。
秀吉のキリスト教政策はこの後で一時的に軟化し、(フィリピン総督との交渉決裂により)1590年代後半に再び厳しくなるが、それでも小西氏への信頼は揺るがなかった。
・・・1590年・・・11月4日、法眼に任じられ、以後、小西和泉法眼とも名乗った。
・・・1592年・・・、朝鮮出兵が始まると、隆佐は財務の職を与えられて肥前名護屋城に入るが、まもなく発病<し、>オルガンティノ師を招いて懺悔と聖餐を行った。その後、海路で堺経由で京都に戻り、そのまま死去した。遺言により金2千両を京都の教会に遺贈した。
・・・1598年・・・の秀吉の死後、マグダレーナは再び北政所に召されて侍女となったが、関ヶ原の戦いの敗報と行長の死を知り、悲痛の余りほどなく亡くなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%A5%BF%E9%9A%86%E4%BD%90
「<北政所は、>自身は改宗することはなかったが、イエズス会の宣教師たちには色々と便宜を図っており、ルイス・フロイスは「関白殿下の妻は異教徒であるが、大変な人格者で、彼女に頼めば解決できないことはない」とまで記している・・・。・・・秀吉が伴天連追放令を出した時、五畿内から出ようとしている司祭たちに人を遣わして食料品を贈り、関白が五畿内に帰ったら自分のできることなら何でも伴天連たちのために執り成すと約束をしている。また、おねの侍女の中にはマグダレナというキリシタンもいた。・・・
⇒北政所はキリシタンと言ってもいいくらいのキリシタン・シンパだったわけだ。
これでは、秀吉がバテレン追放令は出せてもキリシタン禁止令は到底出すわけにはいかなかったはずだ。
実際、ガスパール・コエリョ(前出)の英語ウィキペディアは、秀吉のバテレン追放令が骨抜きになったのは、北政所がキリシタン・シンパだったからだ、と断定している。↓
Coelho visited Hideyoshi in Osaka in 1586. At this meeting, Hideyoshi asked Coelho to secure him two Portuguese ships for the invasion of Korea and China; Coelho not only agreed to the deal, but also suggested that the Society could acquire more troops from the Portuguese, and offered to rally Christian daimyo against the Shimazu clan. This made Hideyoshi aware that Coelho may potentially create an axis of Christian domains with allegiance to a foreign religion. Nevertheless, at the urging of his first wife, who had strong Christian sympathies, Hideyoshi issued permission letters to Coelho allowing Jesuit priests to reside freely in Japan; Hideyoshi also granted land near Osaka Castle to Coelho. The permissions granted to Jesuits were superior to those granted to Buddhists at the time.
https://en.wikipedia.org/wiki/Gaspar_Coelho (太田)
実子がいなかったせいもあってか一族の子女を可愛がり、特に兄・家定の子供らには溺愛と言っていいほどの愛情を注いでいる。
⇒同じ養子でも、実家の木下家からの養子とそれ以外からの養子との間には、北政所にとって、注ぐ愛情に微妙な違い(差)があった、ということだろう。(太田)
家定没後、その所領を木下利房と木下勝俊(長嘯子)に分割相続させようとした家康の意向に反し、勝俊が単独相続できるように浅野長政を通じて徳川秀忠に願い出る画策をしたため、家康の逆鱗に触れ結局所領没収の事態を引き起こしている。これは、高台院と家康が俗説で考えられているような親密な関係ではなかったことを証明する事件である。他にも家康は大坂の陣後に豊国廟を破却するなどの行為も行っている。・・・
<その北政所は、>前田利家の正室の芳春院とは<(前述のように)その子を養女としてもらい受けるくらい>親密な関係であったという。・・・
<また、>近年の田端泰子や跡部信らの研究では、<北政所と淀殿の>両者はむしろ協調・連携した関係にあったのではないかと指摘されている。秀吉の死後、高台院と淀殿の双方から積極的に連携関係が結ばれていき、高台院は亡き夫の仏事に専念し、淀殿は秀頼の後見人になり、後家の役割が分割されていた。
<1608>年3月3日、天然痘にかかった豊臣秀頼の治療を行った曲直瀬道三に容態について問い合わせをしている。淀殿が生んだ秀頼の病気快復を心底から望んでいた真情が伝わってくる内容である。
関ヶ原の戦いでも淀殿との対立関係から徳川家康率いる東軍のために動いたとするのが<かつての>通説であった<ところ、>実際、甥の小早川秀秋が戦闘中に西軍を裏切り東軍に付いている。しかし、近年の研究では淀殿と連携して大津城の戦いでの講和交渉や戦後処理に動いたことが確認されている<し>、逆に石田三成らと親しく、関ヶ原の合戦時にも西軍寄りの姿勢を取っていた可能性を指摘する白川亨らの研究もある。その説の論拠として白川が挙げるのが次の事柄である。
・北政所周辺に西軍関係者が多い
・三成の娘(辰姫)が<彼女の>養女になっている
・側近の東殿は大谷吉継の母である
・小西行長の母ワクサ(洗礼名:マグダレーナ)は(バテレン追放令が出されるまで)北政所の侍女であった
・西軍寄りと見られる行動を取っている
・側近の孝蔵主が大津城開城の交渉にあたっている
・甥である木下家の兄弟(小早川秀秋の兄弟)の多くが西軍として参加し領地を没収されている
・関ヶ原の戦い後、急遽宮中に逃げ込んでいる(『言経卿記』)。(この時、裸足だったと『梵舜日記』(『舜旧記』)に記されており、非常に狼狽していたことが確認できる)
⇒これは、彼女が、単に戦火に巻き込まれるのを回避したかったからだろう。
当時は、宮中は、庶民と雖も逃げ込める聖域だった。(典拠省略)(太田)
・東軍諸将との関係が薄い
・側近に東軍関係者が全くいない
・『梵舜日記』に高台院の大坂退去から関ヶ原の戦いの数年後まで高台院と正則らが面会したという記録が無い。・・・
⇒福島正則(や加藤清正?)が、北政所も唐入り抵抗勢力の一翼を担っていた、と、見て、敬遠していたのだろう。(太田)
大坂の陣では、「高台院をして大坂にいたらしむべからず」という江戸幕府の意向で、甥・木下利房が護衛兼監視役として付けられた。そして、身動きを封じられたまま・・・1615年・・・、大坂の陣により夫・秀吉とともに築いた豊臣家は滅びてしまう(一方、利房は高台院を足止めした功績により備中国足守藩主に復活した。)。・・・
⇒北政所を敬慕する徳川秀忠(典拠省略)が、利房の藩主への復活を含みに、そのように取り計らったというだけのことではなかろうか。(太田)
<1624>年9月6日・・・、高台院屋敷にて死去。享年については76、77、83などの諸説がある。 なお最晩年に木下家から利房の一子・利次(一説に利三とも)を、豊臣家(羽柴家)の養子として迎えており、遺領約1万7,000石のうち近江国内3,000石分は利次によって相続された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%B0%E9%99%A2
⇒利房の藩主への復活はミエミエのやらせ劇の結果だった、ということはもはや明白だろう。(太田)
<話を文禄の役の直後に戻すが、>行長と共謀した沈惟敬は、明の政府によって処刑されたが、当然、行長も秀吉によって処刑されてしかるべきだった。
ところが、「行長は秀吉の強い怒りを買い死を命じられるが、承兌<(前出)>や前田利家<(注38)>、淀殿らのとりなしにより一命を救われる。
(注38)「利家は秀吉の禁教令により、改易されたキリシタン大名の高山右近を庇護し、築城術や科学の知識豊かな右近を高く評価し、屋敷や3万石の禄を与えたりなどをしている。小田原征伐、文禄・慶長の役の後には嫡子・利長が金沢城の整備などを命じるなど、右近を参謀として重用し、親しい関係が続いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E5%AE%B6
(上出の詳細な経緯※は、とりなした者として承兌だけを挙げているのに対し、同じく上出の小西行長のウィキペディアの該当部分は、承兌のほか、前田利家と淀殿らも挙げており、どちらも直接の典拠が付されていないのだが、後者を所与のものとして、以下、論述を続ける。)
⇒行長を後でとりなすくらいだったら、最初から行長の要請に従っていたはずの承兌には、同僚の石田三成・・2人とも秀吉の最側近で、基本的に三成が中身を決め承兌が発翰文書を作成する、という関係か・・が働きかけ、右近ならともかく行長とはさほど懇意ではなかったと思われる利家が行長のことをとりなしたのは、肉親に等しい北政所が働きかけたのではないか、と、見る。
利家は、「豊臣秀吉が「自らも朝鮮に赴く」と言い出しますが、「徳川家康」(とくがわいえやす)や「前田利家」(まえだとしいえ)らに諫められて、代わりに「石田三成」(いしだみつなり)が「朝鮮在陣奉行」(軍監)として赴任したのです。」
https://www.touken-world.jp/tips/41113/
という「前科」もあるが、この時も、北政所からの働きかけがあったのだろう。
淀殿がとりなしたのは、もちろん、北政所の働きかけがあったということだ。
家康に関しては、(後陽成天皇と近衛家の唐入りへの姿勢を彼に開示した上で)近衛前久が働きかけたか、利家が働きかけたか、ではなかろうか。
蛇足ながら、「小西行長は、・・・「早期講和」を目指し動いていた<が、>・・・これに真っ向から反対の異を唱えたのが、「加藤清正」(かとうきよまさ)、「福島正則」(ふくしままさのり)ら「武断派」の武将達です。「あくまで太閤[豊臣秀吉]の命令である朝鮮・明との合戦・占領を目指すべきだ」と主張し<た>。」(上掲)としており、従来の意味での文治派と武断派の対立を前提とした上でだが、私の新説に近いことを記している。(このくだりの筆者が誰かは突き止められなかった。
https://www.touken-world.jp/ )(太田)
・・・1597年・・・からの慶長の役でも再び出兵を命じられ、特に講和交渉における不忠義の埋め合わせのため武功を立てて罪を償うよう厳命されて朝鮮へ進攻する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%A5%BF%E8%A1%8C%E9%95%B7 前掲
⇒それにしても、このような秀吉の、行長に対する大甘な対応には呆れざるを得ない。
そもそも、この時点でキリシタン大名達に見切りをつけ、キリシタンに棄教を命ずる政策を打ち出していたとしても不思議ではなかったはずなのに、秀吉は、キリシタンに対して、むしろ宥和的な姿勢すら見せているのだから・・。↓
「1593年・・・、フィリピン総督の使節としてフランシスコ会宣教師のペドロ・バプチスタが平戸に来着し、肥前名護屋城で豊臣秀吉に謁見。豊臣秀次の配慮で前田玄以に命じて京都の南蛮寺の跡地に修道院が建設されることになった。翌年にはマニラから新たに3名の宣教師が来て、京坂地方での布教活動を活発化させ、信徒を1万人増やした。前田秀以(玄以の子)や織田秀信、寺沢広高ら大名クラスもこの頃に洗礼を受けた。
<そんな>秀吉がキリスト教に対して態度を硬化させるのは<1596年の>サン=フェリペ号事件以後のこと<だ。>
事件を発端とした弾圧からはイエズス会が除外されて・・・いた」(上掲)が、「天正に続く禁教令が再び出され、京都や大坂にいたフランシスコ会のペトロ・バウチスタなど宣教師3人と修道士3人、および日本人信徒20人が捕らえられ、彼らは長崎に送られて<1597>年12月19日・・・処刑された(日本二十六聖人)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%9A%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6
これらの疑問を解くカギも、北政所にある。↓
「おね<(北政所)>と親しかった、前田利家の正室・まつ とは、ほぼ同年代で、木下藤吉郎とおね の結婚前後から親しい付き合いをしていたと考えられる。
織田信長が本拠を岐阜城に移した1568年頃からは、まつと同様、岐阜城下の屋敷に住んだ。・・・
1573年・・・頃、小西行長の母とされる小西ワクサ(マグダレナ)<(注39)>が<寧々の>侍女として仕え始めた。・・・
(注39)「熱心なキリシタンで洗礼名はマグダレーナ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%A5%BF%E8%A1%8C%E9%95%B7
1588年頃、豊臣秀吉はお市の方の長女・茶々(淀殿)を側室に迎えている。
1588年4月14日の後陽成天皇の聚楽第行幸の際には、諸事万端を整えた功により、北政所は破格の従一位に叙せらた。
このように、北政所は、豊臣政権において大きな発言力と高い政治力を持っており、多くの大名も大阪城を訪れた際には、北政所にも挨拶に出向いている。
1589年、淀殿が捨(鶴松)を生むも1591年に死亡したが、1593年に拾(豊臣秀頼)を生む。
1590年の小田原攻めの際には、長期に渡って豊臣秀吉が留守しているお見舞いと称して、朝廷は北政所に大量の着物や帯、香や紙などを贈っており、合戦に出ている間、豊臣家の政務を司っていたことが伺える。。
159<2>年からの朝鮮出兵の際には、大阪から九州・名護屋への通行許可として北政所が黒印状を発給した。」
https://senjp.com/one-nene/
豊臣鶴松←織田信長の甥
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E9%B6%B4%E6%9D%BE
豊臣秀頼←織田信長の甥
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E9%A0%BC
私の読みは、利家の実子で秀吉/北政所の養女だった豪姫は、1596年当時、宇喜多秀家の妻だったが、北政所に育てられた10年以上の長きにわたって、北政所の侍女のワクサの影響を受け続け、洗礼こそまだ受けていなかったが事実上キリシタンになっていたと想像され、豪姫は、ワクサの要請を受け、養母の北政所と実母のまつに行長の助命を訴え、そのまつは利家に頼み、そして、(ワクサからも直接懇願されていた)北政所も、積極的に、「親友」のまつを通じて利家に頼み、かつ、当時(まだ北政所の「支配下」にあった淀殿に頼み、こうして、利家と淀殿から秀吉に訴えさせた、というものだ。
(北政所は、秀吉の名護屋滞在中は、京都において、事実上、秀吉に代わって豊臣政権を切り盛りしており、北政所が、直接、秀吉に訴えたのでは、唐入りに関し、豊臣政権が内紛を起こしたと受け取られる恐れがあった、と、見る。)
他方、秀吉にしてみれば、利家と淀殿の背後に北政所と豪姫がいるのは明白であり、この二人からの懇願とあれば、到底、拒否できなかったはずだ。
というのも、秀吉は、寝食を共にした北政所と豪姫に深い愛情を抱いていたからだ。
豪姫に関しては、「豪姫は秀吉や正室の寧々に太閤秘蔵の子として寵愛されたといわれる」(注40)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%AA%E5%A7%AB
ところだし、北政所への愛情に関しては、秀吉が彼女をどれほど立てていたかについての挿話は残っていても、適当なものがないのだが、大政所への愛情から、それを推測することができよう。(注41)
(注40)「1591<年に>・・・豪姫が大病を患<った時に>・・・狐を神の使いとする稲荷神社の総本宮<たる>・・・伏見稲荷大社<に>出した・・・書状<にいわく、>・・・「備前宰相(宇喜多秀家)の妻についている物の怪をみた。これは狐の所為である。なんのためにこのようなことをするのか。実にけしからんことと思ったが、このたびだけは免す・・・もしこの旨にそむき、少しも反省の色なきときは、日本国中に毎年、狐狩りを仰せつける。天下のありとあらゆるものども、この旨を慎みうけたまわるがよい。さあ、すみやかに、除去せよ」」
https://intojapanwaraku.com/culture/107338/
(注41)秀吉は、「母・大政所への孝養で知られる。小牧・長久手の戦いの後、家康を上洛させるため母と妹を人質として家康に差し出したが、そこで母を粗略に扱った本多重次を後に家康に命じて蟄居させている。天下人としての多忙な日々の中でも、正室・北政所や大政所本人に母親の健康を案じる手紙をたびたび出している。朝鮮出兵のために肥前名護屋に滞在中、母の危篤を聞いた秀吉は急いで帰京したが、臨終には間に合わず、ショックのあまり卒倒し、しばらくはまともに喋ることもできなかった。大政所の三回忌では「なき人の形見の髪を手に触れ包むに余る涙悲しも」という句を詠んでいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89
しかし、秀吉の憤激は何らかの形で晴らさなければならなかった。
その結果、矛先が向かったのが、唐入りに消極的抵抗を続けて来ていた秀次だった、というわけだ。
秀次は、第一に、秀吉と北政所の養子で、自分の甥(姉の子)であり、近親者を処刑することで、北政所に対して、自分の憤怒を伝え、警告を発することができ、第二に、関白であり、朝廷内において、最高官職にある秀吉に次ぐナンバー2であって、かかる高官を処刑することで、後陽成天皇/近衛父子にも、自分の憤怒を伝え、警告を発することができるからだ。
そして、秀吉が、秀次一家の大部分を処刑するとともに、秀次と関わりの深い諸公卿や諸大名まで処罰したのは、唐入りに消極的な全公卿、全大名、に対して、併せて、自分の憤怒を伝え、警告を発するためだった、と思われる。
[秀吉・その出自・日蓮宗との関り・日蓮宗不受不施派との関り]
○その出自
「江戸初期、・・・1626年・・・に出版された、儒学者小瀬甫庵(おぜほあん)による『太閤記』によると、・・・豊臣秀吉は、・・・1558年・・・9月1日に清洲にいる織田信長のところへ、直接就活に行き信長に対して自分は木下藤吉郎秀吉だと名乗り、”父は筑阿彌(ちくあみ)と言って尾張中村の住人で、代々清洲織田家に仕えた下級武士だった”と申告しています。
これは通説にある”豊臣秀吉の父は織田家の足軽だった”と言う話となります。・・・
江戸幕府旗本土屋知貞(つちやともさだ)によって、・・・1625年・・・から・・・1676年・・・の間にまとめられたとされる『太閤素生記(たいこうすじょうき)』によれば、・・・秀吉は尾張中々村の生れで、父木下彌右衛門(きのしたやえもん)は、信長の父信秀の鉄炮足軽をしていて、けがをして中々村に引っ込んで百姓をしていましたが、秀吉8歳の時になくなりました。
一方母は、尾張御器所村(・・・ごきそむら)の出身で、木下彌右衛門の処へ嫁ぎ、後家になってから竹阿彌(ちくあみ)と一緒になりました。
秀吉の育った環境は、足軽と百姓をしていた家族のところであったことを示します。
しかし、母の実家が尾張御器所村出身とあり、中世史研究家の阿部一彦氏によれば、この村は碗や盆などを作り売り歩いた漂泊民の居住地であり、秀吉の母(後の大政所)が農民出身ではない可能性が高いことが分かります。・・・
江戸時代の歴史史料で、尾張清須朝日村住人 柿屋喜左衛門(かきやきざえもん)の手になる、・・・1607年・・・頃の織豊期の武将らに関する見聞録『祖父物語(じじものがたり・そふものがたり)』によれば、・・・豊臣秀吉は清洲の”御園のゴウ戸(みそののごうと)”の生れと言い、海東郡乙之子村(かいとうぐんおとのこむら)と言う所にいる姉の亭主弥介(やすけ)は”ツナサシ”をしており、伯母の亭主七郎左衛門(ひちろうざえもん)は、清洲で”連尺商人(れんじゃくしょうにん)”をしているといいます。
秀吉の生まれた当時の”清洲御園”は職人又は商人の集まるところで、秀吉が農民ではなく都市住民であることを示しており、義兄の弥介は織田家の鷹匠(たかじょう)の助手で”ツナサシ”と言われる鷹のエサ(鼠のような生餌)を担当していた人間であり、伯父の七郎左衛門は、清洲の行商人だったようです。
歴史学者の服部英雄氏によると、これ等秀吉の親戚筋の職業の事から、豊臣秀吉の生い立ちの環境は農村ではなくて、清洲の都市部の賤民・商人たちの暮らす地域だった可能性が非常に高いと言います。・・・
<また、>『武功夜話(ぶこうやわ)』によると、・・・豊臣秀吉の実家は尾張中々村で代々村長の役人(組頭)の家で、父は、天文年間に織田信秀の軍役で倒れ、藤吉郎は口減らしのために寺奉公へ出されたと言います。
従来の史料にはない、『実家が代々中々村で組頭をやっている役人の家柄』であったとの記述があり、新しい史料として注目されていますが、ここにしか出てこない記述のため、未だ確認されていません。
前述の歴史研究家服部英雄氏が提唱されるように、豊臣秀吉が尾張中々村の農民出身と標榜しながら全く”農民臭のしない秀吉”の出自とは、『祖父物語』に記載されている秀吉の一族がそうであるように、都市部である清洲の行商人の家の出である可能性が高いと考えられます。
そして現代の感覚で言う商人と違い、この時代の”商人・行商人”とは人別帳にも乗らない漂泊民(非人)と言う”賤民階級”であることを示しています。
どの史料にも共通した話として、父が亡くなった後に、母が次に結婚した義父との折り合いが悪く、尾張を出奔し”縫い針”を仕入れてそれを売りながら遠江まで行き、そこで今川家配下の松下加兵衛(まつしたかへいー之綱)に下で働く話になりますが、もし秀吉が農民の倅であればそう簡単にはいかないようなのです。
中世の農民と云う人々は土地を離れることが禁止されている身分で、簡単に出奔など出来ないのです。この一見自由で現代チックな秀吉の行動は、彼が農民ではなくて自由民(漂泊民・非人)階級であることを示していると考えられます。
この時代に土地を離れる農民は『逃散』と言い、年貢納入義務から夜逃げする犯罪行為とみなされ、見つかれば処刑される対象となります。
つまり、秀吉は人別帳(戸籍)にも載っていない賤民だった可能性が高いと言う説ですね。
また、豊臣秀吉が生涯の軍師として仰いだ竹中半兵衛の子息重門(しげかど)が残した『豐鑑(ほうかん)』によれば、・・・尾張の國愛智郡中村とかやとて、あつ田の宮より五十町計乾にて、萱ぶきの民の屋わづか五六十ばかりやあらん、郷のあやしの民の子なれば、父母の名もたれかはしらむ、一族などもしかなり。・・・とあり、これは他の文献にも引用されていますが、秀吉の生家はどうも農村の端っこにある被差別民の部落にあったことが明白のようです。
竹中半兵衛は、もっとも豊臣秀吉が信頼していた人物と言われ、秀吉は本当の事を話していた可能性が高いので、その半兵衛の子重門の遺した『豐鑑』の豊臣秀吉に関する記述は信憑性が高いと思われます。
また、中世史研究家の網野善彦氏によれば、・・・都市には遍歴する非農業民(漂泊民、連尺商人ら)が集まって来るといいます。
豊臣秀吉の一族たちが住みついていた清洲は、尾張守護の斯波氏の居城がある城下町であるばかりでなく、伊勢湾に通じる五条川の水運でも栄えており、非農業民・無主無縁の流れ者たちが集まる”都市”ともなっていたものと考えられます。」(古賀芳郎「天下人 豊臣秀吉は農民の出身である!と言う話はホント?」より)
https://rekishizuki.com/archives/1418
「秀吉の馬印<(注42)>(うまじるし、大将の所在を示す旗)に描かれている<のは>「瓢箪(ひょうたん)<だった(注43)>。
(注42)「豊臣秀吉 小馬印 – 金の逆さ瓢箪に金の切裂 大馬印 – 金の軍配に朱の吹き流し 千成瓢箪は馬印としては用いられなかったが、船印に使用されていたという説もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E5%8D%B0
(注43)「日本の神道では中に神が宿る縁起物とされ、神社で破魔矢や絵馬、お守りに付けられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%82%BF%E3%83%B3
秀吉といえば、信長から「瓢箪」の馬印を使うことを許され、その後、武功を上げる度に瓢箪を1つずつ加えていった「千成瓢箪(せんなりひょうたん)」の話が有名であろう。ただ、実際はというと。どうやら馬印には、大きな瓢箪が1つ描かれており、千成瓢箪ではなかったようだ。
さて、この瓢箪なるもの<は、>ウリ科の植物で、当時は、ちょうど内部に不思議な呪力が宿る「霊物」と考えられていたというのである。その証拠に、民間陰陽師である「声聞師<(注44)>(しょうもじ、「唱門師」とも)」の村では、その家々の屋根に瓢箪が掲げられていた<(注45)>とも。
(注44)「「声聞師」の行う芸能は、古代日本の律令制(7世紀 – 10世紀)において、中務省陰陽寮に属した技官である陰陽師の文化を継承、あるいは模倣したものである。したがって、もともと陰陽師であった、あるいは下級の陰陽師であるとされるが、実際のところは定かではない。・・・
渡辺昭五は、「声聞師」の語源を「声聞身」(仏弟子の姿)であるとし、実態としては、荘園の本所で夫役労働を行っていた被差別層であるとする。・・・
室町時代・・・興福寺や春日大社、法隆寺での猿楽を行った「声聞師座」(大和四座)は、
結崎村(現在の奈良県磯城郡川西町大字結崎) – 「結崎座」(現在の観世流)
竹田村(現在の奈良県橿原市東竹田町あたり) – 「円満井座」(現在の金春流)
坂戸村(現在の奈良県生駒郡斑鳩町) – 「坂戸座」(現在の金剛流)
外山村(現在の奈良県桜井市外山地区) – 「外山座」(現在の宝生流)
であり、「結崎座」からは観阿弥・世阿弥、「円満井座」からは金春禅竹らが登場し、やがて猿楽を能楽へと発展させた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%B0%E8%81%9E%E5%B8%AB
(注45)「声聞師の村は川の側に位置し,屋根に瓢箪を上げることで,瓢箪総などのイメージのように,水を入れる道具としての瓢箪によって自らの能力を象徴し,水に対抗する職人を示している.しかもこの村は石垣で囲まれており,これも水への対抗とも受け取れる.これは石切の技術とも結びつこう.したがって,声聞師は実際面でも土木技術者だったのである.」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjshwr1988/12/6/12_6_459/_pdf/-char/ja
ここでいう民間陰陽師とは、不思議な呪力で吉凶を占い、経読し、穢れを祓い浄めることができる者たちを指す。一部では、同時に「曲舞(くせまい)」などの芸能を担うこともあったとか。
はて。
吉凶を占い、穢れを浄める。これは当時の話に限ったことではない。じつは、現在でも日常生活の中で当然のように行われていることも。それが、家を建てるときなどに施される「土地の地鎮祭」である。地鎮祭は、もともと陰陽師の行事として、当時は声聞師らで執り行われていたという。
もちろん、彼らのスキルは土地の霊を鎮めるだけではない。実際に土地に対してあらゆる技術を持ち合わせていた。つまり、彼ら声聞師は、土木工事の技術者でもあったのだ。<(注46)>
(注46)「近世・・・土工事を専門とする職人集団として、黒鍬がいた・・・。・・・市川秀之・・・は、尾張の黒鍬の源流を探り、それが、荒地開発のため文禄期に豊臣秀吉によって畿内から尾張へ強制移住させられた、一種の被差別民であった声聞師であると推測している。」
https://policy-practice.com/db/1_37.pdf
「戦国大名に仕えた黒鍬は小荷駄隊に属して、陣地や橋などの築造や戦死者の収容・埋葬などを行った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E9%8D%AC
「小荷駄隊(こにだたい)<は、>・・・現代の輜重隊に相当する。・・・主として小荷駄奉行(兵粮奉行)率いる、およそ50名から100名の足軽等に護衛された人夫(陣夫)や駄馬が、直接積載して運搬した。・・・小荷駄は進撃時には軍勢の後方、後退時には軍勢の先方に配置された。・・・
原則として守護は小荷駄に用いる駄馬と陣夫の徴発を行う権利を有しており、戦国大名も同様の実権を保有していたが、実際には小荷駄奉行の裁量に任されていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%8D%B7%E9%A7%84
こう考えると、秀吉が土木工事に強い理由がなんとなく理解できるようにも思う。というのも、秀吉自身が、もし民間陰陽師の出身であったならば、土木工事の技術者集団を率いることなどワケないからである。」
https://intojapanwaraku.com/culture/119350/
⇒秀吉は、当時の武将達の中では、極めてユニークな素性の人間だったと言えよう。(太田)
○日蓮宗との関り
実父とされる木下弥右衛門
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E4%B8%8B%E5%BC%A5%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80
にも継父とされる竹阿弥
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E9%98%BF%E5%BC%A5
の日蓮宗との接点は不詳だ。
「三好吉房<(1534~1612年)は、>・・・木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の姉・とも(日秀尼)を妻としたことで、運命は大きく変わっていき、『祖父物語(朝日物語)』によれば、・・・1564年・・・に織田氏に仕える義弟・秀吉の縁者であったことから、秀吉の馬牽として士分に取り立てられた。この頃、知多郡大高村に居を移した。木下姓を与えられたか自ら称したかで、木下弥助を名乗ったようであるが、名乗り始めた時期や経緯などは判然としない。この尾張時代に長尾姓を名乗っていたともいう。
夫婦は・・・1568年・・・に治兵衛(豊臣秀次)を、・・・1569年・・・に小吉(秀勝)を、・・・1579年・・・に辰千代(秀保)をもうけた。
また後に長子・秀次が阿波三好一族の三好康長の養子となると、秀次の実父である吉房も三好姓を称した。なお、吉房の妹も、三好一族の大島親崇に嫁いでいる。・・・
⇒三好康長自身については不明
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E5%BA%B7%E9%95%B7
だが、その兄の元長は日蓮宗の庇護者で墓所は同宗の堺の顕本寺である
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E5%85%83%E9%95%B7
ことから、康長も日蓮宗信徒だったのではないか。
吉房とともが日蓮宗信徒になったのは、康長の影響だった可能性が大だ。(太田)
秀次が高野山で切腹となった際には、吉房も連座し、所領をすべて没収されて改易となり、四国の讃岐国に流され、軟禁された<が、>1598年・・・、秀吉の死をもって赦免され、京都に戻った。・・・1600年・・・に本圀寺に一音院を建立し、子供たち、孫たちの菩提を弔い、晩年は法華の行者となった。・・・
入道して一路(一路常閑)と号し、後に法印に叙任されたので、三位法印一路とも称した。また別の法名で日海も伝わる。・・・墓所<は、>本圀寺<。>・・・
弥助は、太閤の義兄、関白の父というだけでなく、九条家に嫁いだ豊臣完子<(さだこ)>の祖父であり、大正天皇の皇后である貞明皇后はその末孫にあたる。つまり弥助は、昭和天皇の先祖の1人でもあり、系図を辿って示すことができる人物の中では、生まれた身分が最も低い皇室の先祖であるということができる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E5%90%89%E6%88%BF
⇒大政所は、日蓮宗信徒であった可能性が大だ。↓
「大政所<(1516~1592年)は、>・・・墓所は<臨済宗の>大徳寺内天瑞寺、<真言宗の>高野山青巌寺、山科<の日蓮宗の>本国寺にある。遺骨は天瑞寺の寿塔に収められていた。また秀吉は三回忌に東寺の大塔と四天王寺(大坂の陣で焼失)を再建した。山科本国寺の墓地には、最初の夫の弥右衛門、婿の三好吉房、孫の豊臣秀保と合祀された供養塔がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%94%BF%E6%89%80
「豊臣秀保<(1579~1595年)の>・・・墓所<は、日蓮宗の>善正寺<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E4%BF%9D
「<その兄で、完子の父である>豊臣秀勝<(1569~1592年)の>・・・墓所<も>善正寺<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%8B%9D
「<その更に兄で長兄である>豊臣秀次<(1568~1595年)の>・・・菩提寺<もまた>善正寺<。ちなみに、>・・・墓所<は、>・・・高野山光台院裏山<で、>・・・首塚<は、浄土宗の京都>・・・瑞泉寺<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E6%AC%A1
恐らくは、吉房・とも夫妻→大政所/秀次/秀勝/秀保、というルートで日蓮宗が「伝播」したのではないか。(太田)
○日蓮宗不受不施派との関り
「僧侶や寺院が為政者からの供養を拒否する」のが日蓮宗の不受不施派だった(コラム#12297)わけだが、秀吉が、文禄の役と慶長の役の間に秀吉の供養を受けることを拒否した日奥を処罰しなかったこと<(注47)>は、秀吉のキリシタンへの曖昧な姿勢と平仄があっていると言えそうだ。
(注47)「日奥<(1565~1630年)は、>・・・1595年・・・、豊臣秀吉が主催した方広寺大仏殿の千僧供養会へ出仕するかどうかで、本満寺の日重らの受不施派と対立した。日奥は、不受不施義を主張して妙覚寺を去り、丹波国小泉に隠棲した。
・・・1599年・・・、徳川家康による供養会にも出席せず、大阪対論により対馬に流罪となった。対馬にいること23年、・・・1623年・・・に赦免となり、不受不施派の弘通が許された。
・・・1630年・・・、受布施派と不受不施派の対立が再燃する中で死去。同年4月、両者は江戸城にて対論(身池対論)した結果、日奥は幕府に逆らう不受不施派の首謀者とされ、再度対馬に流罪となったが、既に亡くなっており、その遺骨まで流されたとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%A5%A5
不受不施派については、改めてコラム#12297にあたっていただきたいが、日蓮主義者であった秀吉としては、本来、不受不施は、日蓮の考えに対する、内部からの全否定である以上、看過すべきではなかったにもかかわらず、それを看過したことを私は問題視している。
というのも、日蓮は、鎌倉幕府の対異国勢力作戦の実施を求め、その際には自分を参謀兼広宣主幹として従軍させよ的なことを訴えた(コラム#12103)ところ、その場合、当然それは、幕府に日蓮が「施」しを与え、かつ、その間は、幕府から衣食住の提供を「受」けることを意味するからだ。
[秀吉と豪姫]
○豪姫(1574~1634年)は、「前田利家の四女<で、>・・・生母はまつ(芳春院)。・・・
数え2歳の時(『川角太閤記』)、父の利家が羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)との仲を深めるため、子のなかった秀吉夫婦の養女として出された。豪姫は秀吉や正室の寧々<(北政所)>に太閤秘蔵の子として寵愛されたといわれる。・・・
1588年・・・以前に秀吉の猶子であった備前国(現・岡山県)の戦国大名で岡山城主・宇喜多秀家の妻として嫁<いだ>・・・。秀高・秀継・理松院(山崎長卿・富田重家室)らを産む。ところが、・・・1600年・・・、秀家が関ヶ原の戦いで石田三成ら西軍方に属していたため、戦後に宇喜多氏は改易。秀家は薩摩に潜伏し島津氏に匿われる。しかし・・・1602年・・・、島津氏が徳川家康に降ったため、秀家は助命を条件に引き渡され、息子2人と共に・・・1606年・・・に八丈島に流罪とされた。
宇喜多家が没落後、高台院<(北政所)>に仕えていたが、洗礼を受けたのち、・・・1607年・・・頃、金沢に引取られた。その際、・・・豪は化粧料として1500石を受け、金沢西町に居住した。これに伴い一族の宇喜多久閑も来沢して前田家から1500石を与えられた。ロドリゲス・ジラン神父は豪姫が洗礼を受けたことをローマに報告しており(『一六〇六の年報』)、その信仰の先達を勤めたのは内藤ジュリアであったともいわれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%AA%E5%A7%AB
「秀吉は豪姫を寵愛しており、おねにあてた手紙で「豪姫が男なら関白に就任させたい」「おねより高い位につけてやりたい」などと書いているので、おそらくはかわいいだけでなく賢い姫だったのでしょう。また、1595年に豪姫が病気になると、神楽を躍らせて平癒を願っています。しかも「狐が憑いたせい」での病と聞かされて、日本中の稲荷台明神に「日本中の狐を狩ってやる」との書状まで送りました。それほどまでにかわいがった養女だったことがうかがえるエピソードです。・・・
1599年ごろ、宇喜多家の大阪屋敷が占拠された「宇喜多騒動」が起こっています。この原因は、豪姫とともに前田家来て重用された中村次郎兵衛らの専横に対する他の重臣達の不満といった家臣団の政治的内紛に加え、宇喜多家では日蓮宗徒の家臣が多かった<(注48)>のに<、秀家が>キリシタンである豪姫のために家臣にもキリシタンになるよう命じたことが理由であるともされています。」
https://intojapanwaraku.com/culture/70904/
(注48)宇喜多秀家の父宇喜多直家の墓所は現在の岡山市の平福院(廃寺)で、その宗派の調べはつかなかった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%96%9C%E5%A4%9A%E7%9B%B4%E5%AE%B6
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000021051
http://kouchinji.net/ukita-kouchinji.html
が、祖父の宇喜多興家の墓所は現在の岡山県瀬戸内市の日蓮宗の妙興寺だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%96%9C%E5%A4%9A%E8%88%88%E5%AE%B6
https://www.e-ohaka.com/temple_detail/id051189.html
「宇喜多秀家<は、>・・・元服した際、豊臣秀吉より「秀」の字を与えられ、秀家と名乗った。秀吉の寵愛を受けてその猶子となり、・・・1588年・・・以前に秀吉の養女・・・の豪姫を正室とする。このため、外様ではあるが、秀吉の一門衆としての扱いを受けることとなった。・・・
1598年・・・、<朝鮮から>日本に帰国し、秀吉から五大老の一人に任じられた。そして8月、秀吉は死去した。・・・
秀吉は明を征服後、秀家を日本か朝鮮の関白にしようとしていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%96%9C%E5%A4%9A%E7%A7%80%E5%AE%B6
(5)豊臣秀次の切腹
豊臣秀次(1568~1595年7月)は、「宮本義己<(コラム#12103、12144)が>、典医・曲直瀬玄朔の診療録である『玄朔道三配剤録』『医学天正日記』を分析して、秀頼が誕生してから、秀次は喘息の症状が強くなるなど、心身の調子が不安定であったと指摘<している>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E6%AC%A1
宮本義己(1947年~)は、國學院大日本私学選考博士課程満期退学、「帝京大学講師、埼玉県比企郡鳩山町史編集委員会専門調査員を経て、國學院大學文学部・芝浦工業大学システム工学部講師。日本中世・近世史を専攻するかたわら、独自の日本医道史の研究を進め、学会誌に多くの論文を発表している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%9C%AC%E7%BE%A9%E5%B7%B1
⇒私の見方は異なる。
「1593年・・・8月3日に側室の淀殿が秀頼(拾)を産んだ。秀吉は新築されたばかりの伏見城に母子を伴って移り住んだ。当初、秀吉は聚楽第に秀次を、大坂城に秀頼を置き、自分は伏見にあって仲を取り持つつもりであった。山科言経の『言経卿記』によると、9月4日、秀吉は日本を5つに分け、その内4つを秀次に、残り1つを秀頼に譲ると言ったそうである。 また駒井重勝の『駒井日記』(10月1日)の記述によると、将来は前田利家夫妻を仲人として秀次の娘と秀頼を結婚させて舅婿の関係とすることで両人に天下を受け継がせるのが、秀吉の考えであると木下吉隆が言ったという。ところが、秀頼誕生に焦った秀次は「関白の座を逐われるのではないか」との不安感で耗弱し、次第に情緒不安定となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89
ということに異論なくなっているが、以上と同じ時期に、「石田三成<は、>・・・1593年・・・、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いに参加。その後、明軍の講和使・謝用梓、徐一貫を伴って肥前名護屋城に戻るなど、明との講和交渉に積極的役割を果たしている。しかし、秀吉と現地の連絡役という立場の行動は、豊臣家中で福島正則、黒田長政ら武断派の反発を招いた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%94%B0%E4%B8%89%E6%88%90
ということにこそ注目すべきなのだ。
すなわち、秀吉は、三成から「秀吉は明降伏という報告を受け」ていた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9
一方で、加藤清正から、小西行長による明との交渉結果を踏まえた三成の報告を鵜呑みにしないように、との報告も寄せられていた。(注49)
(注49)「豊臣秀吉による文禄・慶長の役がおこると、朝鮮国王・宣祖は僧たちにも抗日戦を命じ、休静を八道都総摂に任じたが、すでに老齢であったため、この任務を惟政<(いせい=ユ・ジョン。1543~1610年)>に託した。惟政は朝鮮の「義僧兵」の総指揮官として日本軍と果敢に戦った。文禄3年(1594年)、惟政は、敵将である加藤清正の陣地に3度にわたって乗り込み、講和交渉を行った。両者は腹を割って互いの主張を述べあった。清正は惟政に向かって「貴国では貴方だけが偽りがなく、他の人は信用できない」と述べた。当時、小西行長と明の游撃将軍・沈惟敬の間でも、独自の講和条件の探りあいが行われていた。小西と沈惟敬は講和を急ぐあまり、それぞれの本国に対して嘘の講和条件を伝えていた。また小西と沈惟敬の講和交渉は、朝鮮の頭越しに行われたものであった。・・・清正<は、>秀吉に<こ>の情報を報告した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%9F%E6%94%BF
秀吉は、三成と行長(先鋒部隊司令官)がサボタージュをしているために唐入りが挫折しかねない状態に陥っていることに気付いていたに違いない。
そして、秀吉は、三成や行長の背後に秀次がいるのではないか、と、猜疑心を抱き始めたと考えられる。
そもそも、秀次は、秀吉からの出陣要請を拒み続けてきていた(注50)のだから・・。
(注50)「文禄の役<(1592~1593年)>では『豊太閤三国処置太早計』によると、秀次は<1593>年にも出陣予定であったが、秀吉の渡海延期の後、前述の病気もあって立ち消えになっていた。外交僧の景轍玄蘇が記した黒田如水墓碑文(崇福寺)によると、如水は博陸(=関白)に太閤の代わりに朝鮮に出陣して渡海するように諫めて、もしそうしなければ地位を失うだろうと予言したが、秀次は聞き入れなかったそうである。『続本朝通鑑』にも、如水が名護屋城で朝鮮の陣を指揮している太閤と関白が替わるべきであると諭し、京坂に帰休させることで孝を尽くさずに、関白自身が安楽としていれば恩を忘れた所業というべきで、天下は帰服しないと諫言したが、秀次は聞かずに日夜淫放して一の台の方ら美妾と遊戯に耽ったと、同様の話が書かれている。翌年正月16日付の吉川広家宛ての書状にも、「来年関白殿有出馬」の文字があるが、秀次の出陣は期待されつつも実現していなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E6%AC%A1
やがて、この猜疑心が確信に変わり、激怒した秀吉は、あえて三成に命じ、「秀次を謀反の嫌疑により糾問<させた>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%94%B0%E4%B8%89%E6%88%90
ところ、「秀次は謀反の疑いを否定して、吉田兼治に神下ろしをさせた前で誓う起請文として7枚継ぎの誓紙をしたため、逆心無きことを示そうとした。・・・他方で・・・、秀次は7月3日に、朝廷に白銀3,000枚、第一皇子(覚深法親王)に500枚、准三宮(勧修寺晴子と近衛前子)に各500枚、八条宮智仁親王に300枚、聖護院道澄に500枚を献納している。そのため、何らかの多数派工作を行ったか、または、(仮に同日であれば)偶然の一致が疑いを招き、粛清の口実になったのではないかとも考えられる。7月5日、前年の春に秀次が家臣・白江備後守(成定)を毛利輝元のもとに派遣し、独自に誓約を交わして連判状をしたためている(または、輝元よりこのような申告があった)と、石田三成は秀吉に・・・事実無根<の>・・・報告<を>した。このことから、秀吉は「とかく父子間、これかれ浮説出来侍るも、直談なきによれり」として、秀次に伏見城への出頭を命じた。・・・秀次は伏見に到着したが、登城も拝謁も許されず、木下吉隆(半介)の邸宅に留め置かれた。上使に「御対面及ばざる条、まず高野山へ登山然るべし」とだけ告げられた秀次は、すぐに剃髪染衣ていはつぜんえの姿となり、午後4時頃、伏見を出立した。監視役として木下吉隆、羽田長門守(正親)、木食応其(木食興山)が同行した。その日は玉水に泊まったが、そこまでは2、3百騎の御供が従っていたので、石田三成から多すぎると指摘され、9日からは小姓衆11名と東福寺の僧である虎岩玄隆(隆西堂)のみが付き従った。・・・7月15日、高野山に福島正則・池田秀雄・福原長堯の3名の検使が兵を率いて現れ、秀次に賜死の命令が下ったことを告げ・・・切腹して果てた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E6%AC%A1
と、三成は、「浮説」まで持ち出したり、秀次に厳しい対応をしたりして、ひたすら秀吉の顔色を伺いながら秀吉の命令を実施する。
秀吉は、最初から秀次を誅殺するつもりで、(三成は秀吉の側近中の筆頭ではあったが、)三成にこの過酷な仕事を命じることによって、秀次を処罰すると同時に、三成に秀次のようになりたくなかったら、改悛して、以後、唐入りに全力を挙げて関わるよう脅した、と見る。
その上で、秀吉は、下掲↓の措置をとるとともに、
「豊臣秀吉は更に、秀次の痕跡を消し去るため<か、秀次の領地の>、近江・八幡山城の破却だけでなく、聚楽第も破壊するように命じました。
聚楽第の堀は埋め戻され、基礎に至るまで徹底的に破却され、周囲の大名邸宅も同時に取り壊されました。」
https://sirotabi.com/11180/
秀次の眷属の大部分に対し、凄惨を極める処断を下す。↓
「
打ち首にされた眷族
公達
仙千代丸(享年5)
百丸(享年4)
十丸
土丸
露月院(女児)
妻妾など
・・・淡輪隆重の娘・小督局<については、>・・・ 『太閤さま軍記のうち』では小督局も殺害されたとするが、『石田軍記』などには名前が見えない。・・・
一の台(享年34)・・・菊亭晴季の娘
於妻御前(享年16/17)・・・四条隆昌の娘
中納言局(享年33/34)
於和子の前(享年18/22)
お辰の方(享年19)
於長の前(享年18)
於佐子の前(享年19)
於萬の前(享年23)
於輿免の前(享年26)
於阿子の前(不明)
於伊萬の方(享年15/19)・・・最上義光の娘
於世智の前(享年30余/31)
小少将の前(享年24)
左衛門の後殿(享年38)
右衛門の後殿(享年35)
妙心寺尼 (御伽婆)
於宮(享年13)
於菊の前(享年14/16)
於喝食の前(享年15、稚児の姿)
於松の前(享年12)
於佐伊の前
於古保の前(享年19)
於仮名の前(享年17)
於竹の前
於愛の前(享年23/24)
於藤の前(享年21)
於牧の前(享年16)
於園の前(享年22)
於杉の前(享年19)
於紋(おあや)(御末衆)
東殿 (享年61、女房)
御三末 (女房)
津保見 (不明)
於知母 (不明、乳母?)
※・・・<↑>処刑順・・・
難を免れた者
有力大名
浅野長政 – 秀吉の勘気を蒙るが、既に子の幸長に家督を譲っていたため具体的な処分はなし。後に一時期、五奉行として復帰。
毛利輝元 – 俗説であるが、前述の石田讒言説では、事件の発端となった密告を行ったように書かれた。秀次から多額の借金は事実だが事件との関連は(俗書以外には)見つかっていない。特段、処罰も受けなかっただけでなく、『吉川家文書』をみると秀次切腹の理由すら教えてもらえなかったようである。
最上義光、細川忠興、伊達政宗 – 最上家、細川家、伊達家らは、秀次と縁が深かったが、徳川家康の取り成しで改易などの処分からは免れた。
与力大名等
田中吉政(元家老)
中村一氏(元家老)
山内一豊(元家老)
堀尾吉晴(元家老)
徳永寿昌(家老)
大崎長行(木村重茲家臣)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E6%AC%A1
上に出てこないが、秀次の正室であるところの、池田恒興の娘・若政所も難を免れている。(注51)
(注51)「本能寺の変の後、・・・池田恒興<が>羽柴秀吉に対し次男の池田輝政を秀吉の養子にし、娘(若政所)を三好信吉(のちの豊臣秀次)に嫁がせることを約束した<もの>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E6%94%BF%E6%89%80
池田恒興(つねおき。1536~1584年)は、「本能寺の変にて信長が家臣の明智光秀に討たれると、中国攻めから引き返した羽柴秀吉に合流し、山崎の戦いでは兵5,000を率いて右翼先鋒を務めて光秀を破り、織田家の宿老に列した。
織田家の後継を巡る清洲会議では、柴田勝家らに対抗して、秀吉・丹羽長秀と共に信長嫡孫の三法師(織田秀信)を擁立し、領地の再分配では摂津国の内大坂・尼崎・兵庫において12万石を領有した。翌・・・1583年・・・の賤ヶ岳の戦いには参戦していないが、美濃国内にて13万石を拝領し大垣城に入り、岐阜城に池田元助が入った。
・・・1584年・・・、徳川家康・織田信雄との小牧・長久手の戦いでは、去就が注目されたが結局は秀吉方として参戦した。勝利が成った際には尾張1国を約束されていたという。・・・家康の本拠三河国を攻めようとしたが、合戦の前半で鞍に銃弾を受け落馬したことが災いとなり、長久手(勝入塚)にて・・・戦死。・・・嫡男の元助も共に討ち死にしたため、家督は次男の輝政が相続した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E6%81%92%E8%88%88
そして、秀吉の最大の目的は、秀次の更に背後にあると踏んだ、後陽成天皇や近衛前久ら、を脅し、委縮させ、爾後、唐入りに関し、足を引っ張るいかなる言動も慎ませることだった、とも見る。
この点に関しては、私と同じ説を、既に唱えている人物がいた!↓
「朝鮮出兵<に対し、>・・・後陽成天皇は再三、秀吉に異を唱えた。<(前出)>
これを不快に思った秀吉は、秀頼の誕生で邪魔者になった養嗣子・秀次を粛清する機を利用し、朝廷に脅しをかけた。秀吉は秀次に謀反の疑いをかけ切腹させた上、秀次が後陽成天皇の側近の公家などに進献した金銀や各種道具を没収すると通告。一方で、その後、参内した際には金銀財宝を惜しげもなく贈答し、圧倒的な財力を見せつけ朝廷への圧力を強めたのだ。」(八柏龍紀「後陽成天皇、朝鮮出兵を巡る豊臣秀吉との確執は死後も続いた」より)
https://www.news-postseven.com/archives/20170222_494187.html?DETAIL
八柏龍紀は、慶大法学部・文学部卒、高校教師などを経て、現在、代々木ゼミナール地歴公民科講師。(上掲及び下掲)
https://www.yobiko-hikaku.net/yozemi/shakai_teacher/0221_.html
[近衛信尹の奇行]
近衛信尹(のぶただ。1565~1614年)は、「・・・1577年・・・、元服。加冠の役を務めたのが織田信長で、信長から一字を賜り信基と名乗る。
幼い頃から父と共に地方で過ごし、帰京後も公家よりも信長の小姓らと仲良くする機会が多かったために武士に憧れていたという。
・・・1580年・・・に内大臣、・・・1585年・・・に左大臣となる。
同年5月、関白の位をめぐり、現職の関白である二条昭実と口論(関白相論)となり、菊亭晴季の蠢動で、豊臣秀吉に関白就任の口実を与えた。その結果、7月に昭実が関白を辞し、秀吉が関白となる。
⇒これは、その実、近衛前久が、積極的に秀吉の希望に沿って動いた、と、いうのが私の見方であるわけだ。(太田)
秀吉が秀次に関白位を譲ったことに内心穏やかではなく、更に相論の原因を作り、一夜にして700年続いた摂関家の伝統を潰した人物として公家社会から孤立を深めた事に苦悩した信輔は、次第に「心の病」に悩まされるようになり、・・・1592年・・・正月に左大臣を辞した。
⇒ところが、秀吉が、父、前久との約束を破ったので、父共々、秀吉に対して激怒した、というのが私の見方であるわけだ。(太田)
・・・1592年・・・、秀吉が朝鮮出兵の兵を起こすと、同年12月に自身も朝鮮半島に渡海するため肥前国名護屋城に赴いた。後陽成天皇はこれを危惧し、勅書を秀吉に賜って信尹の渡海をくい止めようと図った。廷臣としては余りに奔放な行動であり、更に菊亭晴季らが讒言したために天皇や秀吉の怒りを買い、・・・1594年・・・4月に後陽成天皇の勅勘を蒙った。
⇒これ↑は、父、前久とも相談の上、信尹が、唐入りに対して嫌がらせを行った、と見ている次第だ。後陽成天皇ももとより、そのことを承知であり、それゆえ、よりにもよって、近衛家と一心同体の島津家の薩摩への配流を命じた↓、ということだろう。(太田)
信尹は薩摩国の坊津に3年間配流となり、その間の事情を日記『三藐院記』に詳述した。京より45人の供を連れ、坊の御仮屋(現在の龍巌寺一帯)に滞在、諸所を散策、坊津八景(和歌に詠まれた双剣石一帯は国の名勝に指定)、枕崎・鹿籠八景等の和歌を詠んだ。地元に親しみ、書画を教え、豊祭殿(ほぜどん・毎年10月第3日曜日・小京都風十二冠女)の秋祭や御所言葉、都の文化を伝播。鹿児島の代表的民謡『繁栄節(はんやぶし)』の作者とも伝えられる。またこの時期、書道に開眼したとされる。配流中の世話役であった御仮屋守噯(あつかい)・宮田但馬守宗義の子孫は「信」を代々の通字としている。現在、近衛屋敷跡は近衛公園となり、近衛文麿に依る碑も建立、手植えの藤は季節に花を咲かせる。遠い薩摩の暮らしは心細くもあった一方、島津義久から厚遇を受け、京に戻る頃には、もう1、2年いたい旨書状に残すほどであった。
・・・1596年・・・9月、勅許が下り京都に戻る。
・・・1600年・・・9月、島津義弘の美濃・関ヶ原出陣に伴い、枕崎・鹿籠7代領主・喜入忠政(忠続・一所持格)も家臣を伴って従軍したが、9月15日に敗北し、撤退を余儀なくされる。そこで京の信尹は密かに忠政・家臣らを庇護したため、一行は無事枕崎に戻ることができた。また、島津義弘譜代の家臣・押川公近も義弘に従って撤退中にはぐれてしまったが、信尹邸に逃げ込んでその庇護を得、無事薩摩に帰国した。
⇒近衛家は島津家と一心同体なのだから、当たり前だろう。↑↓(太田)
信尹の父・前久も薩摩下向を経験しており、関ヶ原で敗れた島津家と徳川家との交渉を仲介し、家康から所領安堵確約を取り付けた。
・・・1601年・・・、左大臣に復職した。
・・・1605年・・・7月23日、念願の関白となるも、翌11年11月11日に関白を鷹司信房に譲り辞する。だが、この頻繁な関白交代は、秀吉以降滞った朝廷人事を回復させるためであった。
<1614>年以降、大酒を原因とする病に罹っていたが、11月25日・・・に薨去、享年50。山城国(京都)東福寺に葬られる。信尹には庶子しかいなかったので、後陽成天皇第4皇子で信尹の異腹の妹・中和門院前子の産んだ二宮を後継に選び、近衛信尋を名乗り継がせ、自身の娘(母は家女房)を娶らせた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%BF%A1%E5%B0%B9
⇒もともと、天皇家≒近衛家、だったのだから、当たり前に近いことだったと言えよう。(太田)
[朝鮮出兵に関する既存の諸説]
○動機に関する諸説
秀吉が明の征服とそれに先立つ朝鮮征伐つまり「唐入り」を行った動機については古くから諸説が語られているが、様々な意見はどれも学者を納得させるには至っておらず、これと断定し難い歴史上の謎の一つである。戦役の本編に入る前に動機に関する諸説について述べる。主なものだけで以下のようなものがある。
⇒そもそも、「秀吉が」は、「信長と秀吉が」でなければならなかった。(太田)
・鶴松死亡説(鬱憤説)
1591年・・・正月、征明の遠征準備を始めさせた秀吉であったが、その直後(日付の上では2日後)に弟である豊臣秀長が病死するという不幸があり、さらに8月には豊臣鶴松の死という大きな悲しみに遭遇した。秀吉は相次ぐ不幸に悲嘆に暮れたが、その極みに至って、却って自らの出陣と明国を隠居の地とする決意を新たにしたと、秀吉の同時代人近衛信尹は『三藐院記』で書いている。征明の決意を公に表明したのは愛息の死の直後であった。林羅山はこれを受けて『豊臣秀吉譜』において「愛児鶴松を喪ったその憂さ晴らしで出兵した」という説を書き、『朝鮮征伐記』など様々な書籍でも取り上げられている。しかし、秀吉の心情としてはそれも当たらずといえども遠からずであったかもしれないが、・・・計画はそれ以前からあってすでに実行段階に入っていたのであり、順序から考えればこれを動機とは呼べないのである。東洋史学者池内宏は批判して「後人のこじつけ」であると評した。
⇒同意。(太田)
・功名心説(好戦説/征服欲説)
遠征動機を秀吉の功名心とする説の根拠は、秀吉が朝鮮に送った国書に「只ただ佳名を三国に顕さんのみ」と端的にその理由を述べている点にある。このため動機の一つであることは容易に推定できるのであるが、江戸前期の儒学者貝原益軒が、欲のために出兵するは“貧兵”であり、驕りに任せた”驕兵”や怒りに任せた“忿兵”でもあって、天道に背いたが故の失敗であったと批判したのを皮切りとして、道義に適わぬことがしばしば問題とされた。道学者の道徳的批判に過ぎないと言えばそれまでだが、功名心に対する価値観は(第二次世界大戦の)戦前と戦後でも劇的変化があり、動機と評価を合わせて考える場合は、英雄主義による賛美が大義なき戦争という批判に変わったことに留意すべきであろう。歴史家徳富蘇峰は秀吉を英雄と賛美しつつも遠征動機を端的に「征服欲の発作」と述べた。
⇒「佳名」を日蓮主義的に解さないことからくる、ピンボケ秀吉批判説。(太田)
・動乱外転説
江戸後期の儒学者である頼山陽も、国内の動乱を外に転じるための戦役だったという説を唱えて有名だった。明治期の御雇教授マードックも、国内の安定のために諸大名の資源と精力を海外遠征で消費させる方策であったという見解を示した。『日本西教史』の著者ジャン・クラッセの場合は「太閤は日本の不平黨が叛逆すべき方便を悉く除去せんと欲し、その十五萬人を渡海させしめ」船を呼び戻して「軍隊再び日本に帰るを妨げ、飢餓困難に陥り死に就かしめんと欲する」とまで細かく書いている。しかし、この説の矛盾は、秀吉が遠征の失敗を予期したことを前提にしている点である。実際に出征した諸将を見れば、子飼い武将を含む譜代や外様でもより身近な大名が中心で、徳川家康のごとき最も警戒すべき大老は出征しなかった。豊太閤三国処置などから判断すると出征した諸将に大きな報奨・知行を与えるつもりで、逆に秀吉は遠征の成功を信じて疑わなかったのである。池内宏はこれを「机上の空論」と評し、(敗北主義的な頼山陽の説が気に入らない)蘇峰も国内の諸大名に「秀吉に喰って掛るが如き気概はなかった」として「架空の臆説、即ち学者の書斎的管見」と完全否定している。
⇒(身近な大名達を渡海させ家康を渡海させなかった理由は間違っているが、)結論には同意。(太田)
・領土拡張説
急成長を遂げてきた豊臣家は、諸将の俸禄とするために次々と新たな領地の獲得を必要としていたという説は、戦国大名としては当然のこととして当初より検証なく受け入れられてきた。功名を立てることと領土獲得はしばしば同じことであるため両説は重複して主張されることがあるが、歴史学者中村栄孝は秀吉は名声不朽に残さんがために「当時わが国に知られていた東洋の諸国をば、打って一国と為すのを終局の希望として、海外経略の計画は進められていた」と大帝国建設が目的だとし、「政権確立のため、支配体制の強化を所領と流通の対外的拡大に求め、東アジア征服による解決を目指していた」とも述べた。また、中村は「その目的も手段も、殆ど海内統一に際して群雄に臨んだ場合と異なることがなかった」と書状等から分析し、諸国王が諸大名と同様に扱われたことを強調。蘇峰も秀吉は朝鮮を異国とは思わず「朝鮮国王は、島津義久同様、入洛し、秀吉の節度に服すべきものと思った」とした。これらの見解は、天下統一の達成が日本列島に限られるという現代の国境概念の枠中で考えることを否定するものでもあった。
⇒朝鮮出兵の時点で、「天下統一の達成が日本列島に限られるという現代の国境概念の枠中で考えることを否定」していたところの、大名クラスの人物が、秀吉以外にいなさそうだったことがなぜかを説明できていない。(太田)
・勘合貿易説(通商貿易説/海外貿易振興説)
秀吉の戦略は可能な限り平和的手段で降服させるように努めてそれに従わないときにのみ征伐するというものであったが、海外において明との勘合貿易の復興や通商貿易の拡大を目指したときに、朝鮮が明との仲介要請を拒否したことが、朝鮮出兵の理由であったという説は、日本史学者田中義成や辻善之助、柏原昌三など多くの学者が唱えてきたものである。秀吉の平和的外交を強調する一方、侵略の責任の一端が朝鮮や明にあったことを示唆する主張として、しばしば批判を受けた説であったことも指摘せねばならないが、この説の問題点はむしろ貿易が当初からの目的と考えるには根拠が薄いことである。
歴史学者の田保橋潔が「どの文書にも勘合やその他の貿易についての言及はない」と批判したように、肝心の部分は史料ではなく想像を基にしている。蘇峰は「秀吉をあまりにも近世化した見解」ではないかと疑問を呈した。日明交渉において突如登場した勘合貿易の復活の条件が主な論拠となるが、中村栄孝が「明國征服の不可能なるを覚った後、所期の結果とは別に考慮されたものに他ならない」と述べたように当初からの目的だったか疑わしいうえに、秀吉が万暦帝の臣下となることを前提とする「勘合」と「冊封」の意味を秀吉本人が理解していなかったという説もあって、慶長の役の再開理由が単に朝貢(勘合貿易)が認められなかっただけでなく、朝鮮半島南部領有(四道割譲)の拒否にもあったのであればこの説は成り立たないと指摘された。ただし、名古屋大学名誉教授三鬼清一郎は領土拡張説と勘合貿易説は二者択一ではないと主張してこれに異議を唱え、対外領土の拡張も対明貿易独占体制の企ての一部であるとした。また歴史学者鈴木良一は、豊臣政権の基盤は弱く商業資本に依存していたと指摘し、商業資本による海外貿易の拡大要求が「唐入り」の背景にあったとした。
⇒マルクス主義も含めたところの、広義の近代主義の経済ファクター重視的風潮に毒された愚説。(太田)
・国内集権化説(際限なき軍役説)
国内の統一や権力集中あるいは構造的矛盾の解決のための外征であったとする説も多数存在するが、豊臣政権の統治体制が未完で終わったために検証できないものが多いのが難点である。
日本史学者である佐々木潤之介の話によると、「全国統一と同時に、集権的封建国家体制建設=武士の階級的整備・確立と、統一的な支配体制の完成に努力しなければならず、統一的支配体制の完成事業は、この大陸侵略の過程で推進した」と指摘した。同じく朝尾直弘も家臣団内部の対立紛争を回避し、それらを統制下におくための論理として「唐国平定」が出てきたとし、惣無事令など日本国内統制政策の際にも「日本の儀はいうに及ばず、唐国までも上意を得られ候」という論法を用いていたことから、大陸を含む統合を視野にいれていたとし、朝鮮出兵による軍賦役を利用して身分統制令を課して新しい支配=隷属の関係を設定したと論じた。貫井正之教授は「大規模な海外領土の獲得によって、諸大名間の紛争を停止させ、全大名および膨張した家臣団をまるごと統制下に組み込もうとした」と論じ、構造的矛盾を解決する必要不可欠なものであったと主張した。
日本史学者の山口啓二も「自らの権力を維持するうえで諸大名への『際限なき軍役』の賦役が不可避であり、戦争状態を前提とする際限なき軍役が統一戦争終結後、海外に向けられるのも必然的動向である」と主張し、「秀吉の直臣団は少数の一族、子飼いの武将、官僚を除けば、兵農分離によって在地性を喪失した寄せあつめの一旗組が集まって軍隊を構成しており、戦功による恩賞の機会を求めていたので、豊臣氏自体が内側で絶え間なく対外侵略を志向して、麾下の外様大名を統制するために彼らを常に外征に動員し、豊臣氏の麾下に管理しておかなければならなかった」と説明した。
⇒国内統一に伴う余剰兵力を「処理する」方策、ということであれば、単なる武装解除/帰農等、ではなく、どうして対外的使用、という方策をとったのかを説明する必要があるけれど、その必要性が説かれていない!(太田)
・国内統一策の延長説
これは統一が軍事的征服過程であるという従来見解を否定する点が特徴の説で、歴史学者の藤木久志も天下統一=平和を目指す秀吉にとって惣無事令こそが全国統合の基調であったとし、海賊禁止令は単に海民の掌握を目指す国内政策だけでなく海の支配権=海の平和令に基づいており、全ての東アジア外交の基礎として位置付けられたとし、「国内統一策つまり惣無事令の拡大を計る日本側におそらく外国意識はなく、また敗戦撤退の後にも、敗北の意識よりはむしろ海を越えた征伐の昂揚を残した」と述べた。対明政策は勘合の復活、すなわち服属要求を伴わない交易政策であるが、朝鮮・台湾・フィリピン・琉球には国内の惣無事令の搬出とでもいうべき服属安堵策を採るなど、外交政策は重層性が存在し、秀吉は「朝鮮に地位保全を前提とした服属儀礼を強制」して従わないため出兵した。結果的に見れば戦役は朝鮮服属のための戦争であるが、それも国内統一策の延長であったと主張した。
⇒東アジア(世界)平和の実現、と言い直せば、私の新説であるところの、日蓮主義の完遂・・当然その結果として世界平和が招来されるところの世界の人々の人間主義者化・・に表見的には近づくが、残念ながら・・。(太田)
・東アジア新秩序説
下克上で生まれた豊臣政権は、従来の東アジアの秩序を破壊する存在であったとする説。明・中国を中心とした東アジアの支配体制・秩序への秀吉の挑戦であったという考えは、戦前においては朝鮮半島の領有を巡って争った日清戦争の前史のように捉えるものであり、明治時代前後に支持を得た。しかし頼山陽の『日本外史』にある秀吉が日本国王に冊封されて激怒したという有名な記述は近代以前に流布された典型的な誤解であり、基本的な史実に反する点があった。史料から秀吉自身が足利義満のように望闕礼を行ったと十分に判断でき、史学的には秀吉が意図して冊封体制と崩そうとしたという論拠は存在しないといっていい。
しかし一方で、16世紀と17世紀の東アジアにおける明を中心とする国際交易秩序の解体によって加熱した商業ブームが起き、この時期に周辺地域で交易の利益を基盤に台頭した新興軍事勢力の登場を必然とし、軍事衝突はこの「倭寇的状況」が生み出したと言う岸本美緒教授や、「戦国動乱を勝ちぬいて天下人となった豊臣秀吉が、より大きな自信と自尊意識をもって、国際社会に臨んだのは、当然のなりゆき」という村井章介名誉教授など、秀吉が冊封をどう考えていたかに関係なく、統一国家日本が誕生したこと自体が東アジアの国際情勢に変動を促した要因であったとする東アジア史からの指摘もある。論証も十分ではないという批判もあるが、動機とは異なるものの世界史の中での位置づけという観点からこの説は一定の意味を持つ。
また、ケネス・スオープ米ボールステイト大学準教授(現・南ミシシッピ大学教授)が「日本と朝鮮の間の戦争だとの見方はやめるべきだ」として「明(中国)を中心とした東アジアの支配体制・秩序への秀吉の挑戦。これは日本と中国の戦争だ。秀吉軍の侵攻直前に明で内乱が起きたため、明はすぐに兵を送ることができなかったが、朝鮮の要請ではなく、自分の利益のために参戦した」と述べ地政学的見地から日中衝突の必然性をもって説明する学者もいた。
⇒ラフに言えば、朝鮮半島への影響力を巡る日支の争いであったところの、白村江の戦いの再来説、だが、それならば、900年も経ってからどうして再来したのか、が、説明されなければならないが、何の説明もなされていない。(太田)
・キリシタン諸侯排斥説
ルイス・フロイスやジャン・クラッセ、『東方伝道史』のルイス・デ・グスマンなど同時代の宣教師達が主張した説で、「基督(キリスト)信者の勇を恐れ之を滅せんことを謀り、戦闘の用に充て戦死せしめんと欲し、若し支那を掌握せば基督信者を騙して支那に移住せしめん」と秀吉が考えていたという。
戦役がバテレン追放令やキリシタン弾圧と重なり、同じ頃フィリピンやインドに伸ばした秀吉の外交が彼らの目にはキリスト教世界全体に対する攻撃と映っていた可能性はあるが、小西行長を筆頭としてキリシタン大名は排斥されておらず、そのような事実はなかった。動乱外転説に似ているが、排斥対象がキリスト教徒に限定されているところに特色がある。
⇒実は、この説こそ、相対的には、私の新説に最も近い。(太田)
・元寇復讐説
秀吉が元寇の復讐戦として文禄慶長の役を起こしたという説は、辻善之助が「空漠なる説」と一蹴しており、事実とはかけ離れたものである。しかし、特に根拠のない俗説の類であるとしても、朝鮮の書物においても交渉当事者であった景轍玄蘇が言及していたことが記録されており、信じる者は当時からいたようである。
⇒モンゴルが、元王朝と雖も、支那史の中に納まりきらない存在であったことは、当時の日本人だって分かっていたはずであり(典拠省略)、辻の言う通り「空漠なる説」と言えよう。(太田)
・朝鮮属国説(秀吉弁護説)
異端の儒学者山鹿素行が主張したもので、神功皇后の頃より「凡朝鮮は本朝の属国藩屏」なのだから従わぬ朝鮮を征伐して「本朝の武威を異域に赫(かがやか)すこと」は至極当然であるというもの。功名心説(好戦説)が道義的批判を受けた反撥から生まれた儒者的論法だが、動機や原因というよりも単なる称賛であり、しかも朝鮮征伐は本来の目的ではなく秀吉に古代の知識があったかも疑わしいとして、国家主義者の蘇峰すら「恰好たる理屈を当て嵌めたものに過ぎぬ」と評した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9
⇒秀吉にしてみれば、朝鮮半島など眼中になかったに等しいのであり、ナンセンスな説だ。(太田)
○手段に関する諸説
「・・山路愛山・・・は、いくら豊臣秀吉という独裁者であっても、周囲を説得できる理由なくして対外戦争を起こすことなどできない、と指摘したのである。
では、開戦理由は何か。山路愛山の答えは至極単純である。勝てると思ったから、である。「今日(こんにち)においてすら強国の威力は常に防備に乏しく独立の実力なきものに向かって残酷に働きつつあるに非(あら)ずや。我輩は当時の大勢を観察して、統一したる日本の武力が、そのふるいたる鉄拳を大陸に加えんとしたるのむしろ自然なるを見る」というのだ。
山路愛山は日露戦争直前の明治三十六年(一九〇三)、自身が立ち上げた雑誌「独立評論」創刊号に「余は何故(なにゆえ)に帝国主義の信者たる乎(か)」を発表した。帝国主義とは適者生存であり自然淘汰であり、健全な世界を作るための思想であると説き、内村鑑三の非戦論を批判した。弱肉強食を肯定する愛山が、朝鮮出兵に対して倫理的非難を加えるはずがない。
⇒ここまでは、イエス・アンド・ノーだ。
勝てるからといって、目的がなければ兵力は動かさない、というか、動かせるものではない、が、山路愛山は目的を提示して(提示できて)いない。(太田)
では、日本はなぜ負けたのか。山路愛山の答えはすこぶる近代合理的である。すなわち、李(り)舜臣(しゆんしん)らの朝鮮水軍の活躍である。愛山は言う。「ナポレオンほどの豪傑にても海戦に勝利を得ざりし為にその雄図を空しくしたり。豊太閤の壮挙も海戦に勝利を得ねば実は成功すべき見込みなし……(中略)……征韓の役は実に軍国の一大亀鑑なり。海権を有せざる国はついに必ず失敗す」と。対外戦争を単に「壮挙」と捉え、無邪気に喜ぶ江戸時代的な感覚から、愛山ははっきりと決別している。これは一つには、日露戦争、特に日本海海戦を通じて制海権の重要性が国民に浸透したことに起因すると思われる。
⇒制海権は概ね確保され続けた(典拠省略)のであり、愛山の認識は誤りだ。(太田)
しかしながら山路愛山は、それでも朝鮮出兵には意義があったと語る。日本軍が明軍と互角に戦ったことで、「千余年来の恐支那病」を払拭し、「日本の強国たるよしを自覚」したことは大きな成果だったというのだ。要するに、中国恐るるに足らずとの気概が生まれ、それが日清戦争勝利の遠因になった、と言いたいのである。・・・」
https://kadobun.jp/serialstory/sengoku-kyojitsu/6gvbnl7t8o4k.html (コラム#12172)
「・・・徳富蘇峰・・・に言わせれば、「戦争ありての外交でなく、外交ありての戦争だ。秀吉は外交で朝鮮を手に入れ、その案内にて明国に乗り込まんとした。それが意のごとくならずして、朝鮮役は始まったのだ……(中略)……されば外交は主で、戦争は従だ」なのである。・・・
対外強硬論を批判し、現実的な外交を重視する徳富蘇峰から見れば、豊臣秀吉の対明・対朝鮮外交はいかにも拙劣であった。「秀吉は半ば誇大妄想狂者となり、事相をありのままに観察する能(あた)わなかった」と辛辣に評している。
⇒蘇峰の情勢判断は間違っており、私のように、むしろ、どうして秀吉の存命中にも唐入りに成功するか、成功の基盤を構築すること、ができなかったのかを、不思議に思わなければならないのだ。(太田)
ところが、そんな徳富蘇峰ですら、朝鮮出兵を「絶対的の損失というべきではない」と擁護する。中国・朝鮮の活版印刷技術・製陶技術が伝わったとか、日本の造船技術が向上したなどの利点を蘇峰は挙げるが、彼によれば最大の効果は「日本国民に、多大なる自信力を扶植した」ことだという。要は山路愛山と同じで、中国こそが世界の中心である中華思想から脱却し、中国何するものぞという気迫を養うきっかけになった、ということである。
朝鮮出兵は「日本国民における一種の刺激剤」であり、「贅沢(ぜいたく)なる海外留学」だったと蘇峰は説く。」(上掲)
⇒話は逆で、この点に関しては、秀吉のみならず、日本の支配層の大部分が、既に「中国こそが世界の中心である中華思想から脱却し」ていた(典拠省略)からこそ、受動的ではあれ、秀吉が約1名で言い出した唐入りに協力したのだろう。
致命的なのは、この諸説紹介の欄において、欧州対抗説であるところの、平川新説(「平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』」シリーズ参照)・・私の新説に、相対的には最も近い・・への言及がないことだ。(太田)
4 関ヶ原の戦い
(1)概観
以前、次のように書いたところだ。(コラム#12132)↓
「1566年・・・、官職を得ていて朝臣でもあった松平家康が朝廷の許可を得て、家康個人のみが「徳川」に「復姓」(事実上の改姓)し、従五位下三河守に叙任された。このとき正親町天皇は先例のない申請に対して躊躇し不信を述べたが、吉田兼右が万里小路家の文書を改鋳し、新田氏系得川氏が二流に分かれ、一方が「藤原姓」となったという先例が発見されたとした<のだが、>この件には近衛前久が関与して<いた>」(上掲)という経緯に鑑みれば、秀吉から、万一、その方針転換の背景を聞かれた場合に、口裏を合わせてもらえるように、前久と調整の上その了解を得た上で行った方針転換であったのではないか、というのが私の見方です。
つまり、「徳川氏が源氏であるという見解が明確に整えられたのは後のことであり、源氏の名家である吉良氏から源義国からの系図を借り受けてのことであった<が、>これを近衛前久が発給時期不詳の書状で「将軍望に付ての事」と指摘していることもあり、家康の源氏名乗りは将軍職就任を目的とした、1603年・・・の征夷大将軍就任直前のものであるという見解が渡辺世祐や中村孝也の研究以来定説となってきていた」(上掲)ということからも、源氏でないと征夷大将軍にはなれない、的な観念が当時流布していたことが分かるところ、上記、家康の方針転換が行われた1588年頃の時点で、既に、前久は、家康を将来将軍に就任させることを内々決断した、換言すれば、秀吉から家康に支持対象権力者を切り替える決意を固めた、と、私は見ており、それは、即、島津氏もそうしたことを意味することは言うまでもありませんが、同時代人の目端の利く大名なら、400超年後の後知恵込みの私などよりも、むしろより容易に私と似通った見方をし、その少なからざる部分が、密かに家康への接近を開始したのではないでしょうか。(太田)」
もちろん、三成ほど、目端の利く人物であれば、(「密かに家康への接近を開始した」こそしなかったけれど、)確実に、天皇家が秀吉から家康にいわば乗り換えたことは、この1588年の時点で察知したことだろう。
だからこそ、唐入りの際に、三成は、後陽成天皇・近衛家/島津家・北政所、の意向に沿ったところの、秀吉への「叛逆行為」を行ったのだし、行い得たのだ、と思うのだ。
そして、秀吉が亡くなってから、事態は以下のように進行して行った。↓
「<1599>年八月に前田利長・上杉景勝の二大老が京坂から離れ、それぞれの領国へ戻ります。
その翌月の同年九月九日の重陽の節句の祝いのため、伏見の徳川家康が大坂を訪問した際に、前田利長・土方雄久・浅野長政・大野治長による家康暗殺未遂疑惑が騒がれます。
この事件を理由に家康は大坂に居続け、九月二十六日に大坂城を退去して京都新城に移った北政所の居所である西ノ丸に入れ替わって乗り込み、そのまま西の丸に居座ることになります。北政所の大坂城退去と徳川家康の大坂城入城が関連している事は、『醍醐寺三宝院義演の日記及び島津義弘書状から分かります。・・・
翌年七月十七日に三奉行が家康の罪状を列挙して大名たちにばらまいた「内府違いの条々」には罪状のひとつに、「政所御座所に居住之事」とあり、西軍は北政所の居所であった大坂城二の丸への入居を、家康を弾劾すべき理由のひとつと考えていたということが分かります。 ・・・
⇒三成は謹慎中であり、ここでの三奉行は、前田玄以、増田長盛、長束正家だが、三成の「指示」による動きだろう。
三成は、秀吉が亡くなった時、家康が、早晩、征夷大将軍に任じられ、天下人になることが必至であることを自覚しつつ、武断派が家康に接近している(典拠省略)ことから、家康の天下の下で自分の居場所はない、との認識の下、自分が秀吉による唐入りを挫折させたという史実を、自分こそが秀吉の遺志に最も忠実に、豊臣家の繁栄・存続を図ったものの、裏切り者が続出したため、失敗した、という偽りの史実でもって上書きしようとした、と、私は想像している。(太田)
九月・・・、土方雄久・浅野長政・大野治長が家康暗殺計画の疑惑で謹慎処分になります。
これにより、大坂城の北政所は縁戚の奉行浅野長政、婿の大老宇喜多秀家の後ろ盾を失い、非常に弱い立場に追い込まれます。石田三成も既に佐和山で隠居に追い込まれています。
こうした経緯をみれば、家康が北政所に圧力をかけ、大坂城から北政所を追い出したと考えるのが自然といえるでしょう。北政所の大坂城退去、家康の大坂城入居によって、家康の豊臣公議独裁色が強まり、家康が大坂にいる間は誰も家康の暴走を止めることができなくなっていくことになります。
⇒これも、そうではなく、北政所は、天皇家・近衛家の意向に沿って、豊臣家から家康に権力移行が円滑に行われるよう、家康に積極的に協力した、と見ている。(太田)
そもそも、利長が国元に帰ったからといって、家康が大坂城に入城する理由にはなりません。秀吉の遺言では、あくまで家康は伏見城に残り中央の政務を行うことが役割なので、大坂城にいることではありません。家康の大坂城居座りは明らかな秀吉遺言違反でした。<1599>年九月の家康の行動は事実上大坂城占拠のクーデターといえ、北政所も家康の「政敵」として大坂城から排除されたというのが実情といえます。・・・
⇒繰り返しになるが、ここの結論部分は間違いなのであって、北政所は、注意深くカムフラージュしつつ、その実、三成の道連れになることを回避した、と見る。(太田)
<1600>年六月初旬、淀殿の乳母で大野治長の母である大蔵卿局が京都で拘束されます。これは、上杉征伐を控え、前年九月の家康暗殺未遂疑惑に連座して(また『看羊録』等によると、前述したように淀殿との密通疑惑があったとされます)下総国に流された息子の大野治長の動静に関わることだと解釈されます。
この時の北政所の動きについて跡部氏は以下のように記載しています。
「在京の公家や僧侶の日記にあたってみると、『義演准后日記』六月二日条には「大蔵卿局、被召置云々」とあり、『北野社家日記』同月五日条には「昨日大蔵卿殿儀、相済、大坂二御下之由也」とみえ、『時慶記』の同日条には大坂からもたらされた情報として「北政所、明日可有御上洛由候。大蔵卿局赦免ノ由候」と書かれ、同月八日条には「北政所殿、大坂ヨリ御上洛之由候」と記されている。」
上記の記述を見ると、六月二日に大蔵卿局が京都で拘束され、それを聞いた北政所が大蔵卿局の赦免のために大坂城に向かい、おそらく家康と掛け合って大蔵局の赦免を願い、家康はこれを受け入れて大蔵卿局を赦免したということが分かります。このように、北政所は淀殿の乳母の大蔵卿局の救出のために積極的に動いており、この時期に北政所と淀殿は対立していたとか、互いに憎悪していたという説は誤りと考えられます。・・・
⇒北政所によるカムフラージュ策だろう。(太田)
七月二十三日に伏見城攻略<(注52)>の最中にも秀家は豊国社を参詣に訪れ、金子一枚を奉納しています。
(注52)伏見城の戦い。1600年・・・7月18日・・・から1600年・・・8月1日・・・まで行われた関ヶ原の戦いの前哨戦。「本格的な戦闘は19日から開始され、当初は籠城側が打って出て前田玄以、長束正家らの屋敷を焼き払うなどするが、以降は攻め手が昼夜問わず大小の鉄砲を打ちかけ、さらに22日には宇喜多秀家勢が加勢するなど圧力を強める。・・・孤立した城は8月1日昼ごろに落城。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
この時、北政所からも祈祷の依頼があり、二位(吉田兼見卿)が直接それを申し付けています。
この時期の北政所の祈祷は宇喜多秀家の無事を祈願したものでしょう。北政所と宇喜多秀家との結びつきの強さを感じます。
⇒「祈祷は宇喜多秀家の」戦勝を祈願したものではなく、単にその「無事を祈願したもので」あったことに注意。(太田)
・・・関ケ原合戦時の北政所の甥達の去就について、白川亨氏は以下のように述べています。
「兄の木下家定には現在七~八人の男子がいたことが確認されている。・・・
すなわち、北政所の実の甥には、木下勝俊<(注53)>(後の長嘯子)、木下利房<(注54)>、木下延俊、木下俊定<(注55)>、木下秀俊(小早川秀秋)、木下秀規<(注56)>、木下某?、紹叔(後の高台院の住職)がいたようである。
(注53)1569~1649年。「一時期はキリシタン<。>・・・関ヶ原の戦いでは東軍に属して伏見城留守居の将とされたが、鳥居元忠に退去を迫られ、これに従った結果、敵前逃亡したと戦後に責められて改易された。次いで父家定の備中足守藩を継いで第2代藩主となったが、異母弟利房と遺領を争って公儀の沙汰で所領没収とされた。以後、京の東山に隠棲して文人となった。作風は近世初期における歌壇に新境地を開いたものとされ、その和歌は俳諧師松尾芭蕉にも影響を与えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E4%B8%8B%E5%8B%9D%E4%BF%8A
(注54)1573~1637年。「関ヶ原の戦いでは西軍に属し、大聖寺城攻略戦に援兵を出した責任を問われて、死刑に処せられるべきところを高台院の所縁により改易で許され、所領を没収された。・・・
大坂の役では、徳川方に組して冬の陣に参加した。・・・夏の陣では、自ら豊臣秀頼との交渉に出向こうとした高台院を制止するため、江戸幕府によって護衛の名目で監視役に付けられた、ということが記されている。こうした実績から、・・・1615年・・・、備中の賀陽郡・上房郡の2郡で2万5000石の知行を拝領し、・・・<第>2代・・・足守藩主として復活した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E4%B8%8B%E5%88%A9%E6%88%BF
(注55)?~1602年。「豊臣秀吉に仕えて、丹波国内で1万石を与えられた。・・・関ヶ原の戦いでは、・・・西軍に属して、・・・大津城の戦いに参加した。戦後、改易されて俊定の所領は没収されるが、・・・その後は弟の秀秋の岡山藩に寄食して、備前国内で和気郡など5,000石を知行した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E4%B8%8B%E4%BF%8A%E5%AE%9A
(注56)ひでのり(?~1615年)。「西軍に属して、人質の脱出を防ぐため大坂城の天王寺北坂水所を警備していた。敗戦後は浪人したが、・・・1614年・・・の大坂の陣で大坂城に入城して、豊臣氏と運命を共にした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E4%B8%8B%E7%A7%80%E8%A6%8F
そのうち、出家した紹叔は別として、東軍に属したのは、関ヶ原合戦終了後の田辺城回復戦で、東軍に参じた細川忠興の妹婿にあたる木下延俊(当時、播磨三木軍二万石。戦後、豊後日出藩三万石)のみであり、その他の甥達は総て西軍として旗幟を掲げている(勿論、小早川秀秋は関ヶ原決戦で西軍を裏切り、戦いの帰趨を決定させている)。」
⇒このうち、秀吉・北政所夫妻の養子だったのは秀秋だけであり、その秀秋が、東軍の勝利に決定的な役割を果たした背後に北政所がいたと見るのが自然。(太田)
また、北政所の侍女頭である孝蔵主の一族も揃って西軍として戦っており、同じく侍女東殿の息子大谷吉継も言うまでもなく西軍として戦っています。
⇒況や、血縁ですらない衆生をや、だ。(太田)
・・・八月二十九日、北政所は自らの住居である京都新城を破却し、石垣や櫓を公家に下げ渡しはじめます。この行為は、東軍にも西軍にも京都新城を拠点として使わせないという彼女の「非武装中立」という姿勢を明確にしたものといえますが、状況は彼女がそうした彼女の中立的姿勢を許しませんでした。
・・・<1600>年の「天下分け目」の戦いのなかの大津城(城主京極高次)攻防戦における開城交渉のために、北政所と淀殿は協働してあたったことが知られています。特に、北政所は執事の孝蔵主<(注57)>を大津城<(注58)>に派遣し孝蔵主は淀殿の使者とともに大津城を訪れ開城交渉に成功しています。
(注57)こうぞうす(?~1626年)。「高台院執事として大津城の戦いの講和交渉役や徳川家康との折衝役などを務める。しかし・・・1614年・・・、大坂の陣の直前に駿府に赴き、その後は徳川秀忠から江戸城下に屋敷を与えられ、・・・1625年・・・10月23日には河内国深井村に200石の領地を与えられる。秀忠からの200石を公式に拝領した寛永2年10月は高台院の一周忌明けであった。・・・
江戸に東下したことに関しては、・・・いまだに謎となっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E8%94%B5%E4%B8%BB
(注58)「<西軍は、>北陸方面の平定には、越前敦賀の大名である大谷吉継が担当することとなった。そして、この北陸方面軍の一員として、近江大津城の城主・京極高次が加わっていた。ところが吉継が北陸から美濃へと転進する最中に、高次は突如東軍に寝返り、手勢3,000名を率いて大津城に籠城し、防備を固め始めた。もっとも、徳川家康が上杉討伐に向かう前に大津城で高次と会談して支持を取り付けており、高次は最初から東軍の一員であったが、東軍加担の事実が発覚するのを避けるために西軍の動きに一見応じる姿勢を見せ、三成ら西軍諸将がその事実に気づかなかっただけだとする説もある。・・・
籠城中、大津城に大坂城から使者が送られる。使者は城内にいる初(常高院)、龍(松の丸殿)を守るために送られたもので、淀殿と北政所の連携によるものである。・・・
西軍側は毛利元康を大将とし、それに立花宗茂、小早川秀包、筑紫広門ら九州方面の諸大名の軍勢を中心とした総勢1万5000人の軍勢をもって、<1600>年9月7日より大津城に対して包囲攻撃を開始した。・・・
高次をはじめとする京極勢は、木食応其の仲介により9月15日に降伏して大津城を開城する。・・・高次は一命を助けられ、高野山に上って出家することとなった。
この大津城攻防戦は西軍の勝利に終わったが、大津城が開城した9月15日は関ヶ原の戦いの当日であった。そのため西軍は、本来ならば関ヶ原にあったはずの1万5000人の兵力を欠いたまま東軍と戦うという状況に陥った。結果として、大津城の落城という戦果は、その日のうちに無意味なものとなった。
立花宗茂は大津城を開城させた後、軍勢を率いて草津まで進出したが、そこで西軍の壊滅を知って大坂城への退却を余儀なくされ、戦後に改易された。
一方、敗軍の将である京極高次に対して徳川家康は、関ヶ原戦後に高次の弟・京極高知(関ヶ原で東軍の将として功を挙げた)を使者として高野山に派遣し、大名としての復帰を許しただけではなく、若狭一国・8万5000石を与えて功に報いた。また、その翌年には近江国高島郡から7100石が加増され、あわせて9万2100石となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
浅井初(はつ。1570~1633年)の「姉は豊臣秀吉の側室となった茶々(淀殿)、妹は徳川秀忠正室(継室)の江(崇源院)<で、夫が>高次」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E9%AB%98%E9%99%A2
京極竜子(?~1634年)は、「兄(弟という説も)に京極高次、・・・浅井長政は叔父、浅井三姉妹(淀殿・初・江)は従妹にあたる。・・・<最初の夫の、元若狭守護の武田>元明は本能寺の変後、若狭国の全域支配を望んで明智光秀の味方に就き、丹羽長秀・羽柴秀吉の連合軍に討たれた。秀吉の領国である北近江の旧守護家・京極氏出身の竜子は捕らえられた後、秀吉の側室となった。小田原城や名護屋城に秀吉が伴っていったり、醍醐の花見でも3番目の輿を使ったり、京極家旧家臣の浅井家出身である淀殿と杯の順番を争ったことが知られている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%A5%B5%E7%AB%9C%E5%AD%90
このように「天下分け目の戦い」の際には北政所と淀殿は協力して事にあたっていました。
⇒孝蔵主は北政所が淀殿の下に送り込んだスパイだったのだろう。
というか、北政所自身が家康の高級スパイだったとも言える以上、孝蔵主についても同じことが言えるのであって、彼女の東下は謎でも何でもあるまい。
なお、北政所が、淀殿の使者と共に考蔵主を大津城に赴かせたのもカムフラージュのためだろうが、そもそも、その目的は、初と竜子の人命救助に過ぎない。
更に言えば、初の妹の江の夫の徳川秀忠とは、秀忠「が12歳の時に人質として秀吉の下に送られた際、身柄を預かった高台院と孝蔵主<が、>我が子のように慈しみ育て・・・た」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E8%94%B5%E4%B8%BB 前掲
間柄であり、この人命救助は秀忠・江夫妻にも喜ばれたはずだ。(太田)
また、跡部氏は「石田三成らの決起が伏見と大坂に騒動を引き起こしたのは七月十二日だが、時をおかずに孝蔵主は京都をたち、伏見を経由して大坂へ向かっている。そして七月下旬には帰京し、八月十一日前後には、また大坂へでかけているのだ。すでに西軍の拠点となり、大名妻子たちへの監視も強められていた戒厳令下の大坂へ、である。」と記しています。西軍決起の直後から京都(北政所)と大坂(淀殿)の間は常に連絡が取られており、互いに協力関係にあったことが分かります。
⇒淀殿も西軍も、孝蔵主(北政所!)が家康スパイであるとは、この時点では夢にも思わなかったことだろう。(太田)
しかし、この大津城開城交渉は東軍(家康)にとって、北政所は西軍派とみなされかねない行為でした。
⇒繰り返すが、そうとは言えまい、ということだ。(太田)
・・・関ヶ原の戦いの二日後の九月十七日、北政所は准后勧修寺晴子(後陽成天皇生母)の屋敷に避難しました。「カチハダシノ躰」で駆け込むという慌て振りでした。
この記述のみから、北政所が西軍よりだったのか、東軍よりだったのか考えるのは困難です。北政所が避難した直接の理由は、「この日、彼を警護していた兄の木下家定を人質にとろうとして、大坂城の西軍が迎えにきている」事だと考えられます。既に九月十五日の小早川秀秋の西軍裏切りにより関ヶ原の戦いで西軍が敗北した事実は公に知られています。大坂城の西軍が、秀秋の叔母の北政所と実父の木下家定が秀秋の裏切りに関与しているのではないかと疑うのはある意味当然です。このため、西軍は木下家定を人質にとろうとしたのでしょう。秀秋の裏切りのため、北政所は中立を主張できない立場に追い込まれたのです。
⇒ここは、私としても、必ずしも不同意ではない。(太田)
一方、北政所は東軍からも信頼されていたわけではありません。
大津城開城のために奔走した北政所・孝蔵主は、東軍から責任を追及され処分されかねない立場に陥ります。その最中、北政所は十月十一日、豊国社宝殿に秀吉の遺品とおぼしき諸道具を奉納しています。これは、財産保全のためだと考えられます。
大津城の開城交渉に加わった人物である木食応其や新庄東玉斎も西軍加担の容疑で失脚したため、北政所・孝蔵主が処分を免れたのは異例でした。これは、甥の小早川秀秋が寝返りにより東軍の勝利に貢献した事が考慮されたのかもしれません。
⇒「北政所・孝蔵主が処分を免れたのは異例」どころか、当然だった、と再度強調しておこう。(太田)
(異例というならば(大津城開城交渉に協力した)淀殿が処分されないのも異例ということになりますが、家康はこの時点では秀頼君に逆意はない事を示さねばなりませんので、生母の淀殿をこの時期に処罰する事は当然無理といえます。)
・・・慶長十四年九月、家康は前年八月に亡くなった木下家定の遺領を没収してしまいます。家定の遺領については、一旦高台院(北政所)に預けられた後、家定の長男勝俊と次男利房に分与されるはずでしたが、高台院が勝俊だけに相続させようとしたため、家康の怒りにふれて没収されたのです。しかし、この案件については高台院から将軍秀忠の側近本多正信に希望が伝えられ、了承が得られた話でした。
なぜ、これが家康の怒りに触れたかというと、知行権を握っているのは誰かを高台院に見せつけるためだと思われます。高台院に知行の差配を任せたまま言う通りに遺領配分が決まってしまうのでは、自分(家康)の知行配分の権限がないがしろにされる、と考えたのでしょう。
この時の家康の怒りはすさまじく「「惣別、近年政所老気違、比興成事多」」(『当代記』)と高台院を罵倒しています。俗説では、家康と高台院は親密な仲であり、また史実でも表面上は親しい関係を築いていました(これは豊臣家との連絡・説得役、徳川幕府に対して強硬な秀頼・淀殿派との比較対象等、まだ利用価値があると家康が考えたためでしょうし、「豊臣恩顧大名」に対する手前もあったからでしょう)が、家康の高台院に対する実際の本音がさらけ出された罵倒といえるでしょう。
⇒「家康<が、自分>の知行配分の権限がないがしろにされる、と考えた」、で終わりだろう。(太田)
北政所の関ヶ原時の行動をみていきますと、北政所が事前に西軍諸将に要請して西軍決起を促したり、西軍を積極的に支持したりした事実等はありませんので、北政所は積極的な「西軍派」とまでは言えないかと思われます。
戦時中も北政所はなるべく中立的に振る舞おうとしていますが、西軍諸将に近しい人物が多いため、西軍諸将に同情的な行動が散見されますし、実家の木下一族<(注59)>の大部分が西軍についたこと、北政所の侍女NO.1、2の孝蔵主・東殿の一族が西軍についている事、大津城の開城交渉に尽力した事を考えると、いかに北政所が中立的に振る舞おうとしても、東軍(つまりは徳川家康)から、「北政所は実質西軍派」とみなされても仕方なかったのではないかといえます。
(注59)北政所の兄である「足守木下家初代」の杉原孫兵衛は、北政所(おね)が「木下藤吉郎(後の秀吉)の妻となったことから、秀吉の立身に従ってその家人となり、義弟の姓である木下を名乗った。木下姓を称するが、秀吉と血のつながりはなく、諱を家定と改めた時期や経緯については不明である。また通説では、妹のおねとやや(長生院)は浅野長勝の養女となっており、浅野長政(長吉)も義弟にあたる。・・・
子<に>勝俊、利房、延俊、俊定、小早川秀秋、俊忠、秀規、周南紹叔<がいる。>・・・
没後、高台院が分封の約束を破り、遺領を勝俊にすべて与えたために、勝俊・利房兄弟で遺領が争われて、所領没収の憂き目に遭ったものの、大坂の陣の戦後に利房が領を復して足守藩となした。また三男延俊も豊後国日出藩を開いたが、両藩は廃藩置県まで継続した。ただし五男秀秋の岡山藩は無嗣断絶となっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E4%B8%8B%E5%AE%B6%E5%AE%9A
一方、北政所が積極的に東軍(徳川家康方)諸将を支持したような形跡は一切ありませんので、北政所が「東軍派」というのはありえない話です。
関ヶ原の戦いの敗戦により、北政所は「西軍派」と家康からみなされ、失墜する可能が高かったといえます。この北政所の窮地を救ったのが、小早川秀秋の西軍「裏切り」であったといえるでしょう。」(古上織蛍(こうえおりほたる)「考察・関ヶ原の合戦 其の三十 宇喜多秀家・石田三成・大谷吉継・小西行長は「北政所派」2」より)
https://koueorihotaru.hatenadiary.com/entry/2018/10/15/232647 前掲
⇒長々と引用したが、北政所は、唐入り妨害に係るかつての同志であった三成や行長の西軍を支援するのが筋であることは百も承知しつつも、これも唐入りに係るかつての同志であった後陽成天皇/近衛父子が、かねてより家康支持の姿勢を明らかにしている以上、家康が天下人になることは必至であると判断し、関ヶ原の戦いにおいては、自分、と、実家の一部、の存続に資するところの、表見的には中立、実体は東軍支持、をすることとし、東軍の勝利を確実なものにした、というのが私の見方だ。
そして、その一環として、彼女は、養子の小早川秀秋に対し、(恐らくは、後陽成天皇の意向でもあるとして、)西軍に一旦加担させてから裏切らせるように言い含めた、と、断定してよかろう。
宇喜多秀家に関しては、養子ではなく猶子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%96%9C%E5%A4%9A%E7%A7%80%E5%AE%B6
ではあっても、その正室は養女の豪姫(前田利家女)だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%AA%E5%A7%AB
こともあり、2人を助けるためにも、秀家に対して寝返るよう言い含めたいのはやまやまであっても、秀家にまでそんな指示をすると、話が漏れる危険性が余りにも増大して・・実際、秀秋の寝返りは漏れた!・・自分が指示したことまで露見してしまい、自分が西軍関係者の憎悪の的になりかねない上、秀家にまで裏切らせなくても東軍は勝てるので不要である、と、判断して、北政所は指示相手を秀秋だけに絞った、と、私は見ている。(太田)
(2)石田三成邸襲撃事件
1599年・・・閏3月3日
実行者達。↓
豊臣秀吉子飼いの七将。
福島正則(尾張清洲城主)
加藤清正(肥後熊本城主)←首謀者?
池田輝政(三河吉田城主)
細川忠興(丹後宮津城主)
浅野幸長(甲斐甲府城主)
加藤嘉明(伊予松山城主)
黒田長政(豊前中津城主)
その他の三将。
脇坂安治(淡路洲本城主)
蜂須賀家政(阿波徳島城主)
藤堂高虎(伊予宇和島城主)
「秀吉の死後、豊臣政権内において七将をはじめとする武断派と、石田三成など行政を担当する文治派の対立が表面化する。五大老の一人前田利家は二派の調停に努めたが、1599年・・・閏3月3日に死去した。利家の死去によって両派の対立を仲裁するものがいなくなったため、さらに両派の確執が増した。
・・・武断派は、大坂城下の加藤清正の屋敷に集合し、そこから三成の屋敷を襲撃し、三成を討ち取る計画を立てた。しかし三成は豊臣秀頼に侍従する桑島治右衛門の通報によりそれを察知し、島清興らとともに佐竹義宣の屋敷に逃れた。・・・
七将<ら>は屋敷に三成がいないと分かると、大坂城下の諸大名の屋敷を探し、佐竹邸にも加藤軍が迫った。そこで三成一行は佐竹邸を抜け出し、京都の伏見城に自身の屋敷がある事を活かして立て篭もった。・・・
翌日、伏見城も武断派に取り囲まれることとなるが、伏見城下で政務を執っていた徳川家康より仲介を受ける。七将が家康に三成を引き渡すように要求したが、家康は拒否した。家康はその代わり三成を隠居させる事、及び蔚山城の戦いの査定の見直しする事を約束し、次男・結城秀康に三成を三成の居城・佐和山城に送り届けさせた。<その差、>北政所の仲裁<も>受けた<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%B0%86 (冒頭部分を含む)
⇒ここにも、家康に事実上協力する形の北政所が・・。(太田)
「1597年・・・10月、佐竹氏の与力大名であり義宣の従兄弟である宇都宮国綱<(注60)>が改易された。
(注60)1568~1608年。「宇都宮氏22代目を継承する。しかし、年少であったことと父の死に付け込まれて、・・・国内の反対勢力が活発化したこともあり、後北条氏の侵攻がさらに激化することとなった。これに対し国綱は常陸国の佐竹氏や下総国の結城氏、甲斐国の武田勝頼、さらには織田信長や豊臣秀吉と手を結んで対抗する。・・・
・・・1590年・・・の秀吉の小田原征伐に参陣、石田三成の指揮した忍城攻撃などに参加し、下野国18万石の所領を安堵された。
その後は秀吉に従い、九戸政実の乱や文禄の役にも参陣している。また、秀吉の力を背景に家中の統制を強め、・・・1594年・・・には豊臣姓を下賜された。
しかし<1597>年10月13日・・・、突如として秀吉の命により改易された。これには諸説あるが、『宇都宮興廃記』によれば、国綱には継嗣が無かったため、五奉行である浅野長政の三男・長重を養子として迎えようとしたが、国綱の弟である芳賀高武がこれに猛反対し、縁組を進めていた国綱側近の今泉高光を殺害してしまった。長政がそれを恨みに思ったため、その讒言により改易されたとしている。傍証として、<1598>年10月7日の佐竹義宣から父・義重に宛てた書状がある。そこには、宇都宮氏を与力大名とし、姻戚関係もある佐竹氏にも改易命令が出されたが石田三成の取りなしによって免れたことや、「上洛して一刻も早く秀吉に挨拶すべきだが、浅野弾正の検使が宇都宮領の調査に向かっているので、それに覚られないように密かに上洛するように」という三成から指示を受けたことが書かれている。このことからも、宇都宮氏の改易に浅野長政の関与があったことが窺える。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E5%9B%BD%E7%B6%B1
これに伴い、佐竹氏も何らかの処分を受ける可能性があったが、従前から親交があった石田三成の取りなしによって、処分を免れた。・・・
石田三成<邸襲撃>・・・の知らせを受けた義宣は、三成を女輿に乗せて脱出させ、宇喜多秀家の屋敷に逃れさせた。
この一連の動きについて、義宣の茶の湯の師匠でもあった古田重然(古田織部)は、徳川家康に釈明するよう勧めた。これに対し、義宣は、「三成は公命に背いたこともないのに、加藤清正らは三成を討とうとした。自分はかつて三成に恩を受けたから、三成の危急を見て命にかけて救っただけである。このことを家康に謝罪すべきというなら、御辺よきにはかられよ」と応えた。これを受けて、重然は細川忠興に取りなしを依頼した。家康は忠興からこの話を聞き、「義宣身命にかけて旧恩に報いたのは、義と言うべきである。異存はない」と答えた。
<但し>、実際に義宣が三成の窮地を救ったことを裏付ける一次史料は存在しない。
<関ヶ原の戦いの前、>上田城に拠る真田昌幸を攻撃していた徳川秀忠への援軍として、佐竹義久<(注61)>に率いさせた300騎を送った。しかし、義宣自身は積極的に徳川家康に味方はしなかった。・・・
<その結果が、>1602年・・・5月17日、転封先が出羽国秋田郡に決定し。54万石から20万石への減転封であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E7%AB%B9%E7%BE%A9%E5%AE%A3_(%E5%8F%B3%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E5%A4%AB)
(注61)1554~1601年。「佐竹東家の当主として、本家の当主佐竹義重に従って各地を転戦し、武功を挙げる。外交においても、天正7年には相模国後北条氏に対抗するための甲斐国の武田氏との同盟(甲佐同盟)締結に携わっている。一族の重鎮として重用され、佐竹氏の陸奥方面の軍権を任されたという。
のち豊臣秀吉と懇意になり、秀吉直轄地の代官を務めた。・・・1591年・・・1月2日、豊臣姓を下賜された。また文禄・慶長の役では、文禄2年(1593年)6月から約一ヶ月の間、義久が佐竹勢1,440人を率いて出陣している。これらの功績により、秀吉から直接、常陸国の鹿島郡・真壁郡に6万石を与えられ、さらに豊臣氏直轄領1,000石の代官も務め、独立大名の処遇となった。
佐竹家の動向が不安定だった関ヶ原の戦いの後、徳川家康と交渉し、佐竹本家の本領安堵を取り付けたと言われるが、直後に死亡。
病死とも、家康により佐竹本家当主を義久とされることを嫌う勢力に暗殺されて死亡したとも伝わる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E7%AB%B9%E7%BE%A9%E4%B9%85
⇒佐竹義宣は、三成に受けた恩義を忘れず、三成のために行動し続けたわけであり、三成との友情を貫いた大谷吉継・・キリシタンでもあった(後出)が・・と共に、当時としては珍しく、負けるに決まっている側にあえて荷担した武将であったと言えよう。(太田)
(3)関ケ原の戦い
(石高の隣、○印は関ヶ原に布陣した大名、●は寝返った大名、▲は布陣のみに終った大名、※は石田三成邸襲撃事件参加大名ないしその後継者)
武将 石高(万石)兵力 武将 石高(万石)兵力
西軍 東軍
毛利輝元 112.0 - 徳川家康 ○ 256.0 約30,000
毛利秀元 ▲ (20.0)約16,000 松平忠吉 ○ (10.0)3,000
吉川広家 ● (14.2) 井伊直政 ○ (12.0)3,600
大友義統 - - 本多忠勝 ○ (10.0)500
上杉景勝 120.0 - 前田利長 84.0 -
島津義弘 ○ 73.0 約 1,700伊達政宗 58.0 -
宇喜多秀家 ○ 57.0 17,220 堀秀治 45.0 -
佐竹義宣 54.0 - 最上義光 24.0 -
小早川秀秋 ● 37.0 15,675 福島正則 ○※ 24.0 6,000
長宗我部盛親 ▲ 22.0 6,660 加藤清正※ 20.0 -
小西行長 ○ 20.0 6,000 筒井定次 ○ 20.0 2,850
増田長盛 20.0 - 細川忠興 ○※ 18.0 5,100
石田三成 ○ 19.4 5,820 黒田長政 ○※ 18.0 5,400
織田秀信 13.5 - 蜂須賀至鎮 ○※ 17.7 不明
小川祐忠 ● 7.0 2,100 浅野幸長 ○※ 16.0 6,510
安国寺恵瓊 ▲ 6.0 1,800 池田輝政 ○※ 15.2 4,500
毛利勝信 ○ 6.0 不明 生駒一正 ○ 15.0 1,830
長束正家 ▲ 5.0 1,500 中村一栄 14.5 4,350
大谷吉継 ○ 5.0 1,500 藤堂高虎 ○※ 11.0 2,490
大谷吉治 ○ - 3,500
堀尾吉晴 10.0 -
木下頼継 ○ 2.5 750 加藤嘉明 ○※ 10.0 3,000
田丸直昌 ○ 4.0 不明 田中吉政 ○ 10.0 3,000
真田昌幸 3.8 - 京極高知 ○ 10.0 3,000
脇坂安治 ●※ 3.3 990 京極高次 6.0 -
赤座直保 ● 2.0 600 寺沢広高 ○ 8.0 2,400
平塚為広 ○ 1.2 360 山内一豊 ○ 5.9 2,058
朽木元綱 ● 1.0 600 金森長近 ○ 3.9 1,140
戸田勝成 ○ 1.0 300 有馬豊氏 ○ 3.0 900
河尻秀長 ○ 1.0 300 滝川一時 ○ 1.4 不明
石川貞清 ○ - 360 織田長益 ○ 0.2 450
織田信高 ○ - 不明 古田重勝 ○ - 1,020
毛利元康 (-) - 徳川秀忠 (-) 約15,000
小早川秀包 13.0 - 榊原康政 (10.0)3,000
立花宗茂 13.2 - 大久保忠隣 (6.5) -
筑紫広門 1.8 - 酒井家次 (3.7) 900
下掲↓収録チャートに※を加えた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
⇒どうして、このような対峙と成行になったかの基本については、既述したことからもはや説明を殆ど要しないだろうが、若干補足する。
小西行長はキリシタンであったところ、宇喜多秀家は、「宇喜多家では日蓮宗徒の家臣が多かったが、秀家は豪姫がキリシタンであったことから、家臣団に対し、キリシタンへの改宗命令を出したことなどもある<人物だ。>・・・
1592年・・・、文禄の役では、大将として出陣し、李氏朝鮮の都・漢城に入って京畿道の平定に当たる。
文禄2年(1593年)1月、李如松率いる明軍が迫ると、碧蹄館の戦いで小早川隆景らと共にこれを破り、6月には晋州城攻略を果たした。・・・
慶長2年(1597年)、慶長の役では毛利秀元と共に監軍として再渡海し、左軍の指揮を執って南原城攻略を果たし、さらに進んで全羅道、忠清道を席捲すると、南岸に戻って順天倭城の築城にあたるなど活躍する。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%96%9C%E5%A4%9A%E7%A7%80%E5%AE%B6
関ケ原の戦いの時は、本来武断派側に立つのが自然だったが、行長から、キリシタンたる自分の正室の豪姫を通じて、行長側に加勢するよう頼まれ、引き受けたのだろう。
織田秀信(1580~1605年)は、「織田信忠の長子として生まれた。幼名は三法師。・・・
⇒1582年の清須会議の時に秀吉が担いだ、あの三法師だ。(太田)
1595年・・・には弟・秀則ととも<キリスト教に>入信しており、・・・1596年・・・のサン=フェリペ号事件以後、信仰を公に表す行動は控えていたが、・・・1598年・・・の秀吉没後は他のキリシタン同様、積極的に活動、・・・1599年・・・には岐阜城下に教会と司祭館・養生所を建設、また尾張・美濃は信者が増加し、秀信の家来は大勢信徒であるとアレッサンドロ・ヴァリニャーノにより報告されている。
一方で、寺社の建立を行い、領内の寺院にしかるべき保護も加えており、・・・秀信の創建になる寺院の主だったところには、祖父・信長が甲斐国から美濃国へと移して保護を加えた善光寺如来の分身を祀った伊奈波善光寺堂があげられる。また、円徳寺・<日蓮宗>法華寺・崇福寺などの寺院を保護した。
円徳寺には・・・1593年・・・閏正月判物を与え、・・・1594年・・・12月3日には法華寺に寺領20石を寄進、・・・1596年・・・閏7月2日には加えて寺屋敷を寄進し、諸役免除と寺中における乱妨狼藉・陣取の禁止を通達している。
・・・1595年・・・には崇福寺が信長・信忠及び織田家先祖の位牌所であるため、寺中門前諸役一切の免除を安堵している。崇福寺については・・・1596年・・・にも門前諸役についての文書を発給し、秀吉の朱印を得たので安堵するようにと伝えており、重視していた姿勢が見て取れる。・・・
秀吉の死後も秀信の統治方針は変らなかったようで、・・・1599年・・・11月には本誓寺に判物を下し、・・・1600年・・・にも<日蓮宗>妙照寺に竹中重治の屋敷跡地を寄進し寺地を移させている。本誓寺には遺物として感状が伝わり、縁の深さが窺える。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E7%A7%80%E4%BF%A1
⇒キリシタンでありながら、仏教の諸寺院も支援したわけだが、中でも、日蓮宗の諸寺院に最も手厚い支援を行ったように見えるのは、父信長や、縁が深かった秀吉の日蓮主義の影響だろう。(太田)
大谷吉継(注62)もキリシタン大名であり、その上、三成の親友だ。
(注62)1565~1600年「1592年・・・から始まる秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では船奉行・軍監として船舶の調達、物資輸送の手配などを務めてその手腕を発揮し、勲功を立てている。同年6月には秀吉の命令で奉行衆の一人として長谷川秀一・前野長康・木村重茲・加藤光泰・石田三成・増田長盛らと共に渡海し、特に大谷・石田・増田の三人は秀吉の指令を受けて朝鮮諸将の指導にあたると共に現地報告を取り纏めた。明との和平交渉でも、明使(謝用梓・徐一貫)を伴って石田・増田と共に一時帰国し、・・・1593年・・・5月23日に名護屋城で秀吉と明使との面会を果たした。その後、再度朝鮮へ渡海したが、6月に晋州城攻防戦で晋州城を攻略すると戦局は和平交渉により停滞し、閏9月上旬には帰国した。最終的に決裂した和平では、明国の秀吉冊封に際し、吉継は石田三成、小西行長、宇喜多秀家、増田長盛とともに大都督の官位を受けることになっていた。・・・
1599年・・・、家康と前田利家の仲が険悪となり徳川邸襲撃の風聞が立った際には、福島正則ら豊臣氏の武断派諸将らと共に徳川邸に参じ家康を警護している。その後、前田利長らによる「家康暗殺計画」の噂による混乱の際は、家康の命令で失脚していた石田三成の内衆と共に越前表に出兵している。
・・・1600年・・・、家康は会津の上杉景勝に謀反の嫌疑があると主張して上方の兵を率い上杉討伐軍を起こした。家康とも懇意であった吉継は、所領地である敦賀・自らが代官を務める蔵入地から兵を募り、3,000の兵を率いて討伐軍に参加するべく領国を立ち、途中で石田三成の居城である佐和山城へと立ち寄る。吉継は三成と家康を仲直りさせるために三成の嫡男・石田重家を自らの軍中に従軍させようとしたが、そこで親友の三成から家康に対しての挙兵を持ちかけられる。これに対して吉継は、3度にわたって「無謀であり、三成に勝機なし」と説得するが、三成の固い決意を知り熱意にうたれると、敗戦を予測しながらも息子達と共に三成の下に馳せ参じ西軍に与した。8月5日付の三成の書状「備えの人数書」によると、この後北国口の兵3万100の大将とされた。また大坂にいた真田昌幸の正室を預かるなど、西軍の一員としての行動を開始する。大谷氏は一族挙げて西軍につき、吉継の母・東殿は高台院の代理として宇喜多秀家が行った出陣式に出席している。
こうして西軍首脳の1人となった吉継は敦賀城へ一旦帰還し、東軍の前田利長を牽制するため越前国・加賀国における諸大名の調略を行った。その結果、丹羽長重や山口宗永、上田重安らの諸大名を味方として取り込むことに成功した。さらに吉継は偽情報を流して利長を動揺させ、8月に前田軍と戦った(浅井畷の戦い。)。
9月、吉継は三成の要請を受けて脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・戸田勝成・赤座直保らの諸将を率いて美濃国に進出する。そして9月15日・・・関ヶ原の戦いに至った。この時、吉継は関ヶ原の西南にある山中村の藤川台に大谷一族や戸田勝成・平塚為広の諸隊、合わせて5,700人で布陣する。・・・吉継は病の影響で後方にあって軍を指揮し、午前中は東軍の藤堂高虎・京極高知両隊を相手に奮戦した。
正午頃、松尾山に布陣していた小早川秀秋隊1万5,000人が東軍に寝返り大谷隊を攻撃するが、初めから小早川隊の謀叛に備えていた直属の兵600で迎撃し、更に前線から引き返した戸田勝成・平塚為広と合力し、兵力で圧倒する小早川隊を一時は500メートル押し戻し2、3回と繰り返し山へ追い返したという。・・・
しかし吉継が追撃を仕掛けたところへ、秀秋の裏切りに備えて配置していた脇坂・朽木・小川・赤座の4隊4200人が東軍に寝返り突如反転、大谷隊に横槍を仕掛けた。これにより大谷隊は前から東軍、側面から脇坂らの内応諸隊、背後から小早川隊の包囲・猛攻を受け防御の限界を超えて壊滅、吉継は自害した。・・・吉継率いる大谷軍の敗北は戦場の趨勢を一変させ、西軍の諸隊に動揺を与え、西軍潰走の端緒となった。西軍の諸将の多くが戦場を離脱したにもかかわらず自害をしたのは、高台院の甥である秀秋に討たれることで、高台院への恩義に報いようとした結果の討死にではないかといわれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%90%89%E7%B6%99
大谷吉治(?~1615年)は、「大谷吉継の子(一説には弟)」で、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%90%89%E6%B2%BB
木下頼継(?~1600年)は、「大谷吉継の次男とされるが、甥であるとも養子であるともいわれている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E4%B8%8B%E9%A0%BC%E7%B6%99
ところであり、この2人は吉継と一体と見るべきだろう。
織田信高(1576~1603年)は、「弟信吉と同様に西軍に属したために失領したと思料される。もっとも、本戦に参加したとする記録はない。・・・信高は羽柴姓を許されているのみで官位は従五位下左衛門佐、所領も2000石どまりである・・・。信孝、成政と縁故が深い側室の子とすると、豊臣政権時代の冷遇、江戸開幕後に高家に取り立てられ厚遇されたことの説明がつく(佐々成政は秀吉の覇権確立期にはさらさら峠越えなど、家康に接近する姿勢を取っていた)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%AB%98
という人物であり、織田信長家の一員として、信長流日蓮主義者であったと言えそうな三成に与した、と、受け止めることができるかもしれない。
寝返った小早川秀秋(注63)は、「<北政所>から500両にもおよぶ莫大な借金をしてい<たことや、>・・・秀秋の離反については、当初から家老の稲葉正成・平岡頼勝とその頼勝の親戚である東軍の黒田長政が中心となって調略が行われており、長政と浅野幸長の連名による「我々は北政所(高台院)様のために動いている」と書かれた連書状が現存している・・・<こと・・>本戦の開始前より離反することを長政を通じて家康に伝えており、長政は大久保猪之助、家康は奥平貞治を目付として派遣している。<・・こと>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%97%A9%E5%B7%9D%E7%A7%80%E7%A7%8B
から、北政所の指示に従ったと断言してよかろう。
(注63)1582~1602年。「12歳にしてアルコール依存症になっていた。・・・1594年・・・、秀吉の命により秀俊は隆景と養子縁組させられ・・・<翌年、>小早川領30万7千石を相続する形で九州に下り筑前国(名島城)国主となった。・・・1597年・・・2月21日、秀吉より発せられた軍令により秀俊の朝鮮半島への渡海が決定し、釜山浦にて、前線からの注進を取り次ぐ任が与えられた。・・・1598年・・・帰国した秀秋には、秀吉より越前北ノ庄15万石への減封転封命令が下った。これにより筑前国の旧小早川領は太閤蔵入地となり、石田三成と浅野長政が代官になっている。・・・1598年・・・8月、秀吉が死去すると、その秀吉の遺命をもとに、翌・・・1599年・・・2月5日付で徳川家康ら五大老連署の知行宛行状が発行され、秀秋は筑前・筑後に復領、所領高も59万石と大幅に増加した。・・・秀秋は当初、・・・1600年・・・7月18日から8月1日の伏見城の戦いでは西軍として参戦していた。その後は近江や伊勢で鷹狩りなどをして一人戦線を離れていたが、突如として決戦の前日に当たる9月14日に、1万5,000の軍勢を率い、関ヶ原の南西にある松尾山城に伊藤盛正を追い出して入城し・・・開戦直後・・・離反し・・・西軍の大谷吉継の陣へ攻めかかった。・・・
戦後の論功行賞では備前・美作・備中東半にまたがる、播磨国の飛び地数郡以外の旧宇喜多秀家領の岡山55万石に加増・移封された。・・・
死後、小早川家は無嗣断絶により改易された。」(上掲)
その際、近衛家からも、北政所を通じて、働きかけがあったのではないか。(注64)
(注64)近衛信尹<は、秀秋>・・・と親交の深かった<ところ、>・・・秀秋死後、・・・追悼文<を>記し<ている。>」(上掲)
寝返ったもう一人である吉川広家(1561~1625年)は、「吉川元春・・・の三男<。>・・・
・・・1588年・・・10月には宇喜多直家の娘(宇喜多秀家の姉)で秀吉の養女となった容光院を正妻に迎え、形式上は秀吉の娘婿となった。しかし、僅か2年後の・・・1591年・・・春に容光院は病死し、以後、広家は正妻を迎えず側室を置くのみにとどめ、容光院の菩提を弔った。・・・
文禄・慶長の役にも出陣し、しばしば毛利家の別働隊を指揮し、碧蹄館の戦いなども参戦し功を挙げて、秀吉から日本槍柱七本の1人と賞讃された。第一次蔚山城の戦いでは籠城する加藤清正の救援に赴いて蔚山倭城を包囲した明将・楊鎬率いる明・朝鮮軍を撃退する功を立てた、この戦に広家が真っ先に進み出て明軍に向かって突撃し、続いて総勢が一度に突撃した、そして明軍の一隊の逃走先に進み退路を寸断すると、その方向へ明兵は逃げられなくなり、別方向に逃げた。この戦の奮戦ぶりも立花宗茂と共に清正からの賞讃も得た。・・・
家康率いる東軍の勝利を確信していた広家は、同じく毛利重臣である福原広俊と謀議を練り、恵瓊や輝元には内密にしたうえ独断で黒田長政を通じて家康に内通し、毛利領の安堵という密約を取り付ける。一方で、安濃津城攻略戦では主力として奮戦し長政が一時顔色を失う局面もあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B7%9D%E5%BA%83%E5%AE%B6
という人物であり、武断派だったと見てよい上、後陽成天皇が家康押しであるとの認識の下、「東軍の勝利を確信していた」のだろう。毛利輝元、毛利秀元、安国恵瓊、の判断がおかしかったのだ。
最後に、摩訶不思議な行動をとった島津義弘(注65)についてだ。
(注65)1535~1619年。「義弘に本国の島津軍を動かす決定権がなく、関ヶ原の戦い前後で義弘が率いたのは大坂にあった少数の兵だけであった。 そのため、義弘はこの時、参勤で上京していた甥の島津豊久らと合流し、豊久が国許に要請した軍勢などを指揮下に組み入れた。
・・・家康が上杉征伐のために出陣し、上杉征伐を行おうとしていた・・・1600年・・・の7月15日に、義弘は上杉景勝に対して「毛利輝元・宇喜多秀家・前田玄以・増田長盛・長束正家・小西行長・大谷吉継・石田三成らが『秀頼様御為』であるので上杉景勝に味方する。そして、それに私も加わる。仔細は石田三成より連絡があると存します」という書状を送って<いる>。
<そして、>伏見城攻めで奮戦し、討ち死・負傷者を出した後、濃州垂井の陣所まで進出した義弘が率いていた兵数は、1000人ほどであった。そして、この時に、義弘が国許の家老の本田正親に宛てた書状で援軍を求めた結果、・・・譜代衆と有志・志願者の390人ほどの兵が国許から上京し、合流した。・・・
9月15日・・・の関ヶ原の戦いでは、参陣こそしたものの、戦場で兵を動かそうとはしなかった(一説にはこの時の島津隊は3,000余で、松平・井伊隊と交戦していたとする説もある)。三成の家臣・八十島助左衛門が三成の使者として義弘に援軍を要請したが、「陪臣の八十島が下馬せず救援を依頼した」ため、義弘や甥の島津豊久は無礼であると激怒して追い返し、もはや完全に戦う気を失ったともされている。
関ヶ原の戦いが始まってから数時間、東軍と西軍の間で一進一退の攻防が続いた。しかし14時頃、小早川秀秋の寝返りにより、それまで西軍の中で奮戦していた石田三成隊や小西行長隊、宇喜多秀家隊らが総崩れとなり敗走を始めた。その結果、この時点で300人(1,000人という説もあり)まで減っていた島津隊は退路を遮断され敵中に孤立することになってしまった。この時、義弘は覚悟を決めて切腹しようとしていたが、豊久の説得を受けて翻意し、敗走する宇喜多隊や小西隊の残兵が島津隊内に入り込もうとするのを銃口を向けて追い払い自軍の秩序を守る一方で、正面の伊勢街道からの撤退を目指して前方の敵の大軍の中を突破することを決意する。・・・
島津隊は東軍の前衛部隊である福島正則隊を突破<し、>・・・井伊直政や松平忠吉の負傷によって東軍の追撃の速度が緩んだことや、家康から追撃中止の命が出されたこともあって、義弘自身はかろうじて敵中突破に成功した。・・・
薩摩に戻った義弘は、徳川に対する武備を図る姿勢を取って国境を固める一方で徳川との和平交渉にあたった。ここで義弘は、和平交渉の仲介を関ヶ原で重傷を負わせた井伊直政に依頼した。直政は徳川・島津の講和のために奔走している。また福島正則の尽力もあったとも言われる。また一方で近衛前久が家康と親しい間柄ということもあり、両者の仲介に当たったといわれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E5%BC%98
これは、近衛前久父子と島津義久・義弘兄弟が相談の上、もともと義久が義弘に家督を譲った体を装っていたところ、義弘が、「武勇と実直な人柄から、福島正則ら武闘派の武将たちに大いに尊敬されていた」(上掲)一方で、「秀吉への降伏の際に島津家は本拠である薩摩一国以外の領土を全て奪われることを覚悟していたが、秀吉方の使者として交渉にあたった石田三成の取りなしにより大隅一国と日向の一部が島津領として残った。この事から義弘は三成に対して深く感謝し、その後も深い交誼があった」という見方が当時されていた(上掲)ところ、私自身は、三成に、唐入り挫折を行わせたのは自分達であるという気持ちがあり、義弘が島津部隊を率いること、そして島津部隊は西軍につくが、東軍が勝利するのは妨げない程度の戦い方しかしない、という方針で最初から臨んだ、と見ている。
その結果、調略に応じて寝返ることはせず、前哨戦と敗戦後の撤退戦だけを戦うこととなり、こうして三成に対して義理を果たすとともに、本国に兵力が温存され、近衛家も全面的に支援してくれることから、本領安堵はギリギリ可能、と踏んだのだろう。
増田長盛(注66)は、煮え切らない姿勢で終始した人物だ。
(注66)1545~1615年。「父母不詳。・・・1592年・・・からの文禄の役では、石田三成、大谷吉継とともに朝鮮に渡って漢城に駐留し、奉行として占領地統治や兵站に携わった他、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いにも参加している。・・・慶長の役では開戦後国内にいたが、慶長4年(1599年)に予定されていた大規模攻勢では福島正則・石田三成とともに出征軍の大将となることが決定していた。・・・
秀吉の晩年には五奉行となる。・・・
伏見城攻めには自ら参加し、・・・大津城の戦いには一門の増田作左衛門を陣代として軍勢を派遣<する>・・・一方で家康に三成の挙兵を内通し、また三成の資金援助要請も渋るなど対東軍への保身工作も講じている。9月15日に行われた関ヶ原の戦いには参加せず、毛利輝元とともに大坂城守備部隊として西の丸に兵3,000を率いて駐屯。戦後の9月25日、出家して謝罪し、9月27日に大坂城西の丸にて沙汰を申し渡され改易となる。・・・
安藤英男は、長盛が三成失脚後に100万石以上に相当する豊臣氏の蔵入地を一括管理していた点を指摘し、長盛が家康に通じずに蔵入地の100万石がもたらす資金・人員を豊臣家及び西軍のために振り向けたならば、関ヶ原の戦況も西軍有利に転じた可能性があったとして輝元とともに西軍敗戦の原因と分析している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%97%E7%94%B0%E9%95%B7%E7%9B%9B
(同じく、五奉行の一人であった長束正家(注67)は、まっとうに行動し最期を迎えている。
(注67)1562?~1600年。「文禄・慶長の役では肥前名護屋に在陣し兵糧奉行も務めた。またこの際には京都の秀吉との中継役も務めていたよう<だ。>・・・
関ヶ原の戦いでは毛利秀元・吉川広家とともに南宮山(岐阜県不破郡垂井町)に布陣し合戦前には浅野隊と南宮大社付近で交戦、池田輝政隊と銃撃戦を展開したが、広家の妨害のため、秀元や長宗我部盛親ら同様に本戦に参加でき<なかった。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%9D%9F%E6%AD%A3%E5%AE%B6
[その他の寝返り諸大名]
○脇坂安治(やすはる。1554~1626年)
「賤ヶ岳の七本槍の中では最年長の武将である。・・・<朝鮮出兵で水軍を中心に大活躍。>・・・小早川隊が大谷吉継隊を攻撃するとそれに乗じて他の3将と共に東軍に寝返り、・・・石田三成の居城・佐和山城攻略にも従軍した。・・・
石田三成の挙兵時に、偶然に安治・安元父子が上方にいた故に脇坂家が西軍に属さざるを得なかった事情が考慮され、関ケ原の戦後処理で咎めを受けずに所領を安堵された<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%87%E5%9D%82%E5%AE%89%E6%B2%BB
○朽木元綱(1549~1632年)
「1550年・・・に父・晴綱が戦死したため、わずか2歳で家督を継承した。・・・1553年・・・より三好長慶に京都を追われた13代将軍・足利義輝を父に引き続き朽木谷に匿った。・・・事前に内通しており戦後家康から領地を安堵された<ようだ。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%BD%E6%9C%A8%E5%85%83%E7%B6%B1
○赤座直保(なおやす。?~1606年)
「関ヶ原の戦いで初めは西軍の大谷吉継の軍に属して北国口で戦ったが、本戦で小早川秀秋が東軍に寝返ったのに呼応し、脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠らと共に東軍に寝返り、大谷軍を壊滅させる。だが事前に通款を明らかにしなかったとの理由で戦後、徳川家康にその功を認められず所領を没収されたとするが、そもそも直保は関ヶ原の戦いに参戦していなかったとする指摘もある。その後は京に住んだが、同年10月前田利長の家臣となり加賀へ赴き、松任城代として7千石を領した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%BA%A7%E7%9B%B4%E4%BF%9D
○小川祐忠(すけただ。1549~1601年)
「小早川秀秋の寝返りに呼応して寝返り、・・・戦後、佐和山城攻略戦にも参加した。
しかし、藤堂高虎に約束されていた内応への賞賜はなく、通款を明らかにしなかったことを逆に咎められて、身柄は東軍として戦功のあった親族の一柳直盛に預けられ、その嘆願により死一等を減じられたが、内応に応じたにも関わらず改易とされた。改易の理由について、『野史』は本人の資質の欠如と領内悪政を上げ、祐忠・祐滋の親子が共々に石田三成と昵懇であったことを徳川家康が嫌ったためであったとも言う。また所領を没収された理由として、祐忠がいつも弱きを捨てて強きにつくということを諸人が訴えたためであるからともいわれている(『当代記』)。・・・
主君 浅井長政→織田信長→明智光秀→柴田勝豊→豊臣秀吉 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E7%A5%90%E5%BF%A0
[五奉行中の残りの二奉行]
○浅野長政/幸長・父子
浅野長政(1547~1611年)は、「尾張国春日井郡北野に宮後城主・安井重継の子として生まれる。織田信長の弓衆をしていた叔父・浅野長勝に男子がなかったため、長勝の娘・やや(彌々)の婿養子として浅野家に迎えられ、のちに家督を相続した。同じく長勝の養女となっていたねね(寧々、のちの北政所、高台院)が木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に嫁いだことから、長吉は秀吉に最も近い姻戚として、信長の命で秀吉の与力となる。・・・
秀吉が文禄の役で自ら朝鮮に渡ると言い出した際、三成は「直ちに殿下(秀吉)のための舟を造ります」と述べたが、長吉は「殿下は昔と随分変わられましたな。きっと古狐が殿下にとりついたのでしょう」と述べた。秀吉は激怒して刀を抜いたが、長政は平然と「私の首など何十回刎ねても、天下にどれほどのことがありましょう。そもそも朝鮮出兵により、朝鮮8道・日本60余州が困窮の極みとなり、親、兄弟、夫、子を失い、嘆き哀しむ声に満ちております。ここで殿下が(大軍を率いて)渡海すれば、領国は荒野となり、盗賊が蔓延り、世は乱れましょう。故に、御自らの御渡海はお辞めください」と諫言したという(『常山紀談』)。・・・
朝鮮出兵でも<活躍し>、・・・豊臣政権の五奉行<となる。(五奉行中>最大の大名<>>。・・・五大老筆頭の徳川家康とは親しい関係にあり、秀吉死後は同じ五奉行の石田三成と不仲であったとされている<。>・・・
1599年・・・、前田利長らと共に家康から暗殺の嫌疑をかけられて謹慎し、家督を幸長に譲って武蔵国府中に隠居した。・・・
白川亨は、関ヶ原の戦いの前の長政謹慎事件は、長政や前田利長を三成らの反家康派から分離させようとした家康の陰謀、挑発であるという説を提唱している。長政の嫡子・幸長は三成と犬猿の仲だったため、長政は両者の間で苦悩していたという。・・・
1600年・・・、関ヶ原の戦いでは家康を支持し、家康の三男・秀忠の軍に従軍して中山道を進み、幸長は東軍の先鋒として岐阜城を攻め落とし、関ヶ原の本戦で活躍した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E9%95%B7%E6%94%BF
浅野幸長(1576~1613年)は、「浅野長政(長吉)の長男<。>・・・
文禄の役では・・・幸長は・・・兵3000を率いた。伊達政宗は在陣衆とされてまだ出征を命じられていなかったが、長政と懇意にしていたので、幸長の後見人として同行したいと自発的な出征を秀吉に申し出て許可された。幸長・政宗は共に釜山浦で諸将と合流し、西生浦に築かれた倭城に在番した。その後は加藤清正隊と合流して各地を転戦した。・・・
1595年・・・に日明間で和議が成立したため帰国した。しかし7月に関白豊臣秀次の切腹事件が発生し、幸長は相婿の関係にあった秀次を弁護したことで秀吉の逆鱗に触れ、連座して能登国津向に配流された。ただし前田利家・徳川家康の取り成しもあり、まもなくして恩赦された。・・・
1597年・・・、再出兵で慶長の役が始まると・・・日本軍は全羅道・忠清道に進撃して明・朝鮮軍を破り、朝鮮南部に帰還し、さらに多くの倭城の築城を開始したが、これが諸将の怠慢であると秀吉の怒りを買って出撃を催促されたので、幸長・毛利秀元・黒田長政らは再び北上し<ている>。・・・
戦後、幸長は西生浦に戻り、8月の秀吉の死去に伴い、10月に帰国した。同年冬頃から奉行衆筆頭で文治派の石田三成と激しく対立し、幸長・細川忠興・加藤清正・福島正則・加藤嘉明・黒田長政・蜂須賀至鎮ら七人衆(七将)で徒党をなし、武断派と称され、五大老筆頭・徳川家康に与した。・・・
9月14日、家康が赤坂岡山に着陣すると、南宮山の毛利秀元・安国寺恵瓊・長束正家ら西軍勢に備えとして、池田と共に垂井一里塚付近に陣を構えた。このため終日対峙したままで終わり、本戦には加わらなかった。・・・
10月、軍功を賞されて、紀伊国で37万6560石を与えられ、和歌山城主となった。・・・
晩年は病気平癒を願ってキリスト教を信奉していたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E5%B9%B8%E9%95%B7
⇒父子どちらも秀吉にたてついたつわものであり、文字通りの武断派だったので、東軍に与したのは当然か。
幸長が(晩年だから、関ケ原後なのだろうし、)キリシタンになったことについては、その教義に反しての現世利益を求めてのことだったようなので、無視してよかろう。(太田)
○前田玄以
前田玄以(1539~1602年)は、「豊臣政権においては京都所司代として朝廷との交渉役を務め、・・・五奉行の一人に任じられた。・・・
秀吉没後は豊臣政権下の内部抗争の沈静化に尽力し、徳川家康の会津征伐に反対した。
・・・1600年・・・、石田三成が大坂で挙兵すると西軍に加担、家康討伐の弾劾状に署名したが、一方で家康に三成の挙兵を知らせるなど内通行為も行った。また豊臣秀頼の後見人を申し出て大坂に残り、さらには病気を理由に最後まで出陣しなかった。これらの働きにより関ヶ原の戦いの後は丹波亀山の本領を安堵され、その初代藩主となった。・・・
かつて僧侶だった関係から当初キリシタンには弾圧を行っていたが、後年には理解を示し、秀吉がバテレン追放令を出した後の・・・1593年・・・、秘密裏に京都でキリシタンを保護している。・・・ちなみに息子2人はキリシタンになっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E7%8E%84%E4%BB%A5
⇒玄以は、文治派でキリシタン・シンパだったというのに、(恐らく、その経歴から近衛家等と親しく、彼らから得られた情報から、家康勝利を確信していたのだろうが、)ほぼ東軍に与したという、極めて珍しい人物だったと言えよう。(太田)
[前田利長]
「1595年・・・の秀次事件がもたらした政治危機を克服するため、豊臣秀吉は、有力大名が連署する形で「御掟」五ヶ条[1]と「御掟追加」九ヶ条を発令して政権の安定を図った。この連署を行なった六人の有力大名、徳川家康・毛利輝元・上杉景勝・前田利家・宇喜多秀家・小早川隆景が、豊臣政権の「大老」であると、後世みなされることになった。
・・・1598年・・・夏、死の床にあった秀吉は、嫡男・豊臣秀頼成人までの政治運営にあたっては、前記有力大名五人(既に病没していた小早川隆景を欠く)と石田三成ら豊臣家吏僚による合議制をとることを遺命した。いわゆる「五大老・五奉行」が制度化されたのである。
徳川家康は終始、大老内でも特段の地位を保持し続けていた。秀吉はこの家康に対抗・牽制しうる人物として、「御掟・御掟追加」発令時は毛利輝元と小早川隆景を、「五大老・五奉行」制度化時は前田利家を充てていた。秀吉の死後は遺命により、家康が伏見城下にて政務をとり、利家は大坂城において秀頼の傅役とされ<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%A4%A7%E8%80%81
「大西泰正は利長は当初より徳川と協調して領国を保全する立場で、秀頼の傅役の職務放棄と加賀への帰国<や、>・・・芳春院<(まつ)>を<その発意により>人質として江戸の家康に差し出すこと・・・もその一環であった<とする。>・・・
1600年・・・、利長は金沢を出陣するが、この金沢出陣についてはその解釈が二説あり、上杉征伐に出陣する際に背後の丹羽長重を討とうとしたとする説、石田方の挙兵に対抗するための出陣とする説である。・・・
いずれにせよ、家康出陣中に石田三成らが五大老の一人・毛利輝元を擁立して挙兵すると、利長は大聖寺城(石川県加賀市)を攻略し、越前国まで平定。金沢への帰路の8月8日には小松城(石川県小松市)主・丹羽長重軍に背後を襲われ、からくも撃退した(浅井畷の戦い)。
9月11日、弟・利政の軍務放棄に悩まされながらも再び西上し、18日には長重と和議を結ぶ。
利政は西軍に妻子を人質を取られたと知り、秘かに妻子を取り戻してから兄と合流しようとしたものの、事態の急転によって遂に動くことが出来ずに仮病を使ったとみられているが、この戦いで戦功を挙げて母・芳春院の金沢帰還を期待していた利長の怒りは激しく、亡き利家が遺言にて利長に子が無い時は利政を後継にするように命じていたにも関わらず、利長は家康に対して利政が西軍に加担したと訴え出たのである。
関ヶ原の戦い後、弟・利政の能登の七尾城22万5,000石と西加賀の小松領12万石と大聖寺領6万3,000石(加賀西部の能美郡・江沼郡・石川郡松任)が加領され、加賀・越中・能登の3ヶ国にまたがる日本最大の藩・加賀藩が成立した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E9%95%B7
大西泰正(1982年~)は、京都教育大院修了の石川県金沢城調査研究所所員。
https://www.hmv.co.jp/artist_%E5%A4%A7%E8%A5%BF%E6%B3%B0%E6%AD%A3_200000000749788/biography/
「一向一揆の時代には一揆側の拠点<。>・・・<豊臣>秀勝の越後移封後・・・1<5>98)山口宗永が配されましたが、関ヶ原の合戦で西軍に属した宗永は前田利長との合戦で落城しました。」
https://www.daisyoji.com/%E5%A4%A7%E8%81%96%E5%AF%BA%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%A9%E3%82%93%E3%81%AA%E3%81%A8%E3%81%93/%E5%A4%A7%E8%81%96%E5%AF%BA%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/
⇒利長の「変節」は、まつが北政所と相談した上で、そのように利長を行動させた、というのが私の見方だ。(太田)
(4)方広寺鐘銘事件と興意法親王
○始めに
織田信長の猶子の邦慶親王(興意法親王)と豊臣秀吉の猶子の智仁親王(初代八条宮)・・それぞれ、(正親町天皇の嫡男の)誠仁(さねひと)親王の第五王子と第六王子・・の事績を紹介しておく。
○邦慶親王(興意法親王)
こういほっしんのう「1576年~1620年」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%A0%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
は、「<1610>年近江(滋賀県)園城寺(おんじょうじ)長吏となる。<1614>年豊臣氏がたてた方広寺大仏殿の棟札に前例にない銘文をかき<(注68)、>・・<具体的には、>豊臣氏が建立した方広寺大仏殿の棟札銘文に,書くべき大工頭の名を入れなかったという江戸幕府の嫌疑を受け<、>・・・<かつ>また徳川氏調伏の嫌疑<を受け、>蟄居する。
(注68)「大工棟梁を勤めた中井正清から家康への注進により大仏殿の棟札にも不穏の文字があるとされた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E5%BA%83%E5%AF%BA
・・・1616・・・年聖護院寺務および三井寺長吏を退いた。・・・
のち疑いがとけ,幕府の寄進で照高院を白川に再建し<、>・・・ここへ入った。・・・
<1620>年9月江戸へ下向,滞在中急死した。」
https://kotobank.jp/word/%E8%88%88%E6%84%8F%E6%B3%95%E8%A6%AA%E7%8E%8B-1073779
⇒「1614年・・・7月末、板倉勝重から家康への報告により、鐘銘、棟札、座席などに疑惑がかけられる方広寺鐘銘事件が起こる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E6%A1%90%E4%B8%94%E5%85%83
「26日、家康は且元にあてて、開眼・大仏殿供養日<を>同日<にす>ること<、と>、大仏殿棟札・梵鐘銘文が旧例にそぐわないことに加え、その内容に問題があるとして開眼供養と大仏殿上棟・供養の延期を命じた」(注69)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9D%82%E3%81%AE%E9%99%A3
ことが、あの有名な方広寺鐘銘事件の発端だが、問題は、誰が、板倉勝重(注70)にご注進をしたのか、だ。
(注69)「7月、後水尾天皇より、大仏開眼法要を天台宗妙法院門跡の常胤法親王を指名する勅命が下される。
家康は開眼法要を8月3日、堂法要の日取りを秀吉の命日である8月18日という指示を出した。18日は、秀吉17回忌の大祭の日となっていたため、且元は、両法要を8月3日とし、早天(早朝)に常胤法親王を開眼、堂法要の導師を覚深法親王とし、終日天台宗僧侶を上座とする。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E6%A1%90%E4%B8%94%E5%85%83
常胤法親王(じょういんほっしんのう。1548~1621年)。「伏見宮邦輔親王の第5王子。正親町天皇の猶子。・・・1564年・・・、京都妙法院で出家。門跡となり妙法院宮といわれる。正親町天皇の猶子となり、・・・1575年・・・に親王宣下を受ける。・・・1597年・・・、第168代天台座主となる。雲龍院門主にもなる。1614年・・・には、京都方広寺大仏鐘名事件により、方広寺別当の照高院興意法親王の後をうけ、大仏を兼管し別当職についた。豊臣家滅亡後の・・・1616年・・・、妙法院門主であった常胤は、徳川家康より豊国社の豊臣秀吉の遺品の寄進を受けている(「豊公遺宝図略」)。その後、豊国社や神宮寺(豊国社別当神龍院梵舜の役宅)は妙法院に引き渡された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E8%83%A4%E6%B3%95%E8%A6%AA%E7%8E%8B
覚深入道親王(かくしん/かくじんにゅうどうしんのう。1588~1648年)。「後陽成天皇<の子。>・・・1594・・・年4月29日・・・、次期天皇即位を前提に親王宣下を受ける。一説にはこの親王宣下の背景には豊臣秀吉の後押しがあり、朝鮮出兵が成功して明を征服した暁には後陽成天皇を北京に遷して、良仁親王を日本の天皇にする計画が存在したとも言われている。2年後には亡くなった正親町上皇の御所を将来の東宮御所にすべく親王に与えられている。
ところが、・・・1598年・・・秀吉が死亡すると、突如、後陽成天皇が良仁親王を皇位継承者から外す意向を示す。この時は朝廷・豊臣政権ともに強く反対して中止されるものの、・・・1600年・・・関ヶ原の戦いに勝利して政治の実権を握った徳川家康は豊臣政権色の強い良仁親王を廃して、天皇の正室である女御・近衛前子が生んだ第3皇子の政仁親王(後の後水尾天皇)を代わりに立てることを条件に天皇の意向を受け入れた。
・・・1601・・・年3月5日・・・、良仁親王は仁和寺真光院に入室し落飾。・・・1614年・・・、一品に叙せられて法中第一座の宣下を受けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%9A%E6%B7%B1%E5%85%A5%E9%81%93%E8%A6%AA%E7%8E%8B
覚深入道親王は、政仁親王(後水尾天皇)や近衛信尋とは違って、女御の近衛前子の子ではなく、典侍(ないしのすけ)の中山親子の子。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%99%BD%E6%88%90%E5%A4%A9%E7%9A%87
(注70)1545~1624年。「三河国額田郡小美村に生まれる。幼少時に出家して浄土真宗の永安寺の僧となった。・・・徳川家康の命で還俗して武士となり、家督を相続した。・・・
関ヶ原の戦い後の・・・1601年・・・、三河国3郡に6600石を与えられると共に京都町奉行(後の京都所司代)に任命され、京都の治安維持と朝廷の掌握、さらに大坂城の豊臣家の監視に当たった。・・・
方広寺鐘銘事件では本多正純らと共に強硬策を上奏。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%80%89%E5%8B%9D%E9%87%8D
この件の梵鐘に、奉行代表として「片桐・・・且元」の名が刻まれている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E6%A1%90%E4%B8%94%E5%85%83 前掲
ところ、片桐は、「方広寺大仏殿・・・の作事奉行を勤め」ていて、しかも、「1598・・・年8月,秀吉の死の直前に,子の秀頼付きの家臣を監察する地位につく。関ケ原の戦後の<1601>年には,大和平群郡で1万8000石を加増されているが,これは徳川家康が豊臣政権の五大老としての立場で与えたものと考えられる。且元は純粋な秀頼の老臣ではなく,家康の指示を受ける立場にあった。<1604>年には旧太閤蔵入地の算用状を発給。慶長10年代(1605~14)には,秀頼の名代や豊国祭の奉行など豊臣家の老臣とみられる活動のほか,摂津,河内,和泉の国奉行という徳川幕府の吏僚としての活動もあった。18年には,秀頼から1万石の加増を受けた。」
https://kotobank.jp/word/%E7%89%87%E6%A1%90%E4%B8%94%E5%85%83-44915
という、事実上、家康から豊臣家に高級スパイとして送り込まれた人間であり、彼が家康にご注進をするなどという、そんな嫌疑がかかっただけでアウトのような危ない橋を渡るはずがない、というか、家康の方もそんなことをやらせるワケがない。
ちなみに、片桐の事績に文化面のものは皆無であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E6%A1%90%E4%B8%94%E5%85%83 前掲
彼は、事前に鐘銘(等)の案を見せられたと思われる(後出注74参照)けれど、そもそもその「問題性」に気付かなかった可能性が高い。
「8月に家康は五山の僧や林羅山に鐘銘文を解読させた。羅山は銘文に家康呪詛の意図があると断じたが、一方で五山の答申は概ね、諱を犯したことは手落ちとしたものの、呪詛意図までは認めず、相国寺のように「武家はともかく、五山では諱を避けない」との指摘を付記するものもあった<(注71)>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9D%82%E3%81%AE%E9%99%A3 前掲
(注71)「五山の・・・見解
東福寺・・・名前の二字の間に安の字を入れたことは、何よりも悪いことと考える。・・・
国家安康の言葉については、日本・中国共に天子の諱を避ける事は古くからのしきたりである。日本の庶民の諱についてはこのしきたりが無いことがあると言えども、天子・執政・将軍の諱は避けるべきで、見逃してそのままにはできない。・・・
天龍寺・・・家康の名前を考えなく書くこと、特に銘文の言葉が諱に触れることは、承知できることではない。ただし遠慮して避けるのが道理かは、自分は忘れた。・・・
南禅寺・・・銘文中に大臣(家康)の名前の二字を分けて書いたことは、過去・現在に例は無い。その上同じ官位であっても、天子に次ぐ大臣と同じ位置に並ぶことはあってはならない。・・・
<(> これは国家安康(家康)と君臣豊楽(秀頼)の文言が鐘に並んで(しかも後者の方が一段高く)刻印されていることを指していると考えられる。<)>・・・
何よりも大臣の諱の二字を、四言詩に分けて書くことは前代未聞である。仮に二字を続けたとしても、文章の詞の内に記載することは、全く無い。・・・
相国寺・・・銘文中に家康の諱を書いたことは、好ましいことではないと考える。ただし武家のしきたりは知らないが、五山においてはある人物について書く時に、その人の諱を除いて書くしきたりは無い。・・・
建仁寺・・・銘文の国家安康で前征夷大将軍の諱を侵したことは、好ましいことではない。・・・」(上掲)
「五山外の妙心寺<の見解は、>・・・清韓の文章は世に知られ、至らない者に判決は難しい。凶詞書く人物でもなく、天下泰平を祝し、功徳を著したものに違いない」
「林羅山<は、>・・・右大臣の唐名を用いた「右僕射源朝臣家康」は「源氏の長者である家康を射る」、「君臣豊楽 子孫殷昌」は「豊臣を君として子孫までの繁栄を祈る下心」とした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E6%A1%90%E4%B8%94%E5%85%83 前掲
清韓の弁明。「右僕射というのは右大臣の唐名である。王子が誕生した際に蟇目(鏑矢)を射る官である。他の敵を滅ぼし、悪神を射る職なので右僕射と言う。秀頼も右大臣なので(家康の右大臣は)唐名を書き、(両者を)間違えないように書き変えた。・・・
鐘は奇特且つ不思議なもので、この功徳により四海は太平になり、万歳も長久になるという心である。国家安康というのは、家康の字を隠し題に入れて縁語にしている。名を分けることは今も昔も縁語では多くあり、全ては家康の名を尊重するためである。諱については松杉等の連歌で歌の作者の一字を頂いている。ただし侍・公家の家のことは、分からない。名乗り(諱)は名乗り字(名乗りに用いる漢字)に続き、これを字と言い尊重するように頂いている。随分と尊んだのであるが、愚人や夏の虫のようになってしまった。御慈悲を頂きたいが、頂けぬのなら(自身の)不才の罪である。赦して頂けるなら、生前死後における大きな幸いである。・・・
君臣豊楽・子孫殷昌・・・も豊臣を隠し題にしたものである。この例も昔にあったものである。」(上掲)
では、板倉勝重ないしはその配下の者か?
しかし、板倉は、「幼少時に出家して浄土真宗の永安寺の僧となった<が、父は>・・・戦死<し>、さらに家督を継いだ弟・・・も・・・戦史したため、徳川家康の命で<36歳の時に>還俗して武士となり、家督を相続した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%80%89%E5%8B%9D%E9%87%8D 前掲
と、僧経歴が長いにもかかわらず、当時の浄土真宗の僧が一般的にそうだった(注72)のか、彼が特異だったのかは分からないけれど、彼とその嫡男が京で善政を行った話(注73)はあっても、彼の事績に文化的なものが一切見当たらないことから、やはり、鐘銘の「問題性」に気付いたとは思えないし、トップがそうであれば、彼の京都所司代の配下達そんな意味で気の利いた者がいたとも思えない。
(注72)適切な例かどうかはともかく、石山戦争を行った顕如、その子で東本願寺の祖となった教如、西本願寺の祖となった准如には、(教如が茶を嗜んだという話を除き、)文化的な事績がない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%95%E5%A6%82
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E5%A6%82
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%86%E5%A6%82
(注73)例えば、「犯人は地蔵さま?・板倉勝重」
https://www.isad.or.jp/pdf/information_provision/information_provision/no101/46p.pdf
参照。
私は、織田信長の猶子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%A0%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B 前出
で、当時、方広寺別当でもあった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E8%83%A4%E6%B3%95%E8%A6%AA%E7%8E%8B
だと見ている。
当時の養子は実子と全く同じ存在であったところ、猶子だって通例相続権がないだけで、後は養子と同じ存在だった
https://kotobank.jp/word/%E7%8C%B6%E5%AD%90-650686
のだから、信長の猶子であったこの法親王が、自分の「父親」の家を乗っ取ったに等しく、またその結果、自分を出家に追いやった、豊臣秀吉、ひいては豊臣家、に報復を行うチャンスを窺っていて、鐘銘案、ないし、鐘銘、を見た時に、その「問題性」に気付き、方広寺の別当である自分と制作者の文英清韓(注74)の命は保証してもらうという条件付きで、板倉勝重にご注進をしたのではないか、と。
(注74)「1600年・・・東福寺,次いで南禅寺の住持となる。14年,片桐且元の依頼でつくった方広寺大仏の鐘銘が徳川家康の怒りに触れ,鐘銘事件を引き起こした。豊臣氏滅亡後に捕らえられて京都,次いで駿府に数年のあいだ拘禁されていたが,20年・・・には後水尾天皇に東坡詩集を進講している。
https://kotobank.jp/word/%E9%90%98%E9%8A%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6-79894
「文英も連座し、南禅寺から追放され、住坊の天得院は一時廃絶の憂き目にあっている。・・・1614年・・・8月28日、天下一の茶人で交友が深かった古田織部が文英を茶席に招いて鐘銘事件について慰め、それが家康の耳に入るところとなり叱責される。
文英は南禅寺を追われ、戦にあたっては大坂城に篭もり、戦後に逃亡したが捕らえられ、駿府で拘禁され、蟄居中に林羅山と知り合い、のち羅山の取りなしなどにより許され、・・・1621年・・・に没している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E8%8B%B1%E6%B8%85%E9%9F%93
但し、このことを、豊臣方に知られてはならないので、文英清韓には伝えなかった、とも。
文英が、南禅寺を追われてから、大阪の陣の終焉まで大阪城に籠ったのは、そのためだったと考えられるし、にもかかわらず、なお、彼が処刑されなかっただけでなく、拘禁・蟄居だけさせられ、しかも、最終的には赦免された以上、ますます、そのためだったとしか考えられない。
○八条宮智仁王
1579~1629年(コラム#12024)。「すぐ上の兄である邦慶親王が織田信長の猶子であったのに倣い、智仁王も・・・1586年・・・、今出川晴季の斡旋によって豊臣秀吉の猶子となり、将来の関白職を約束されていた。しかし・・・1589年・・・、秀吉に実子・鶴松が生まれたために解約となり、同年12月に秀吉の奏請によって八条宮家を創設した。
・・・1591年・・・1月、親王宣下を受け、次いで元服して式部卿に任じられる。・・・1601年・・・3月、一品に叙せられた。・・・1600年・・・7月、細川幽斎から古今伝授を受け、・・・1625年・・・12月これを甥の後水尾天皇に相伝し、ここにいわゆる御所伝授の道が開かれた。さらに造庭の才にも優れ、・・・1620年・・・から家領の下桂村に別業を造営する。この桂御別業が現在の桂離宮であり、八条宮は後に桂宮と呼ばれた。・・・
学問文芸の素養が高く、若年から和歌と連歌に堪能であった。・・・1596年・・・、細川幽斎から『伊勢物語』『雨中吟』などの講釈を受け、二条派歌学を学び、また、里村紹巴から連歌を学び、一字名を「色」と称している。長じてからは自邸でしばしば歌会を催し、近衛信尋(甥)などの後進の歌人の育成にも尽力した。自筆の詠草や私撰集が多数残されている他、『智仁親王御記』・・・1599年 – 1604年・・・『煙草説』・・・1609年・・・『江戸道中日記』・・・1617年・・・、・・・1625年・・・などの著述が知られている。また、古典の収集・書写にも熱心で、現在「桂宮本」(宮内庁書陵部蔵)と呼ばれる蔵書群の基礎を築いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%9D%A1%E5%AE%AE%E6%99%BA%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
「1428年・・・、称光天皇の崩御に伴い、貞成親王の第一皇子である彦仁王が皇位を継承(後花園天皇)。この時、伏見宮の血統は皇統と統合させて消滅する選択肢もあったが、・・・1456年・・・の貞成親王の薨去後、後花園天皇のより貞成親王の第二皇子である貞常親王に「永世伏見御所と称すべし」との勅許が下され、貞常親王が宮号を継承、およびそれに付属する財産を相続した。これが世襲親王家「伏見宮」の始まりであり、同時に最初の世襲親王家の成立でもある。ただし、世襲親王家であってもときの天皇もしくは上皇の猶子とならなければ親王宣下を受けることができないことはそれまでと同様であった。このことから世襲親王家は血縁による特権ではなく家としての特権であることがわかる。
その後、・・・1589年・・・に桂宮(当初は八条宮)、・・・1625年・・・に有栖川宮(当初は高松宮)、・・・1710年・・・に閑院宮が創設され、最終的に世襲親王家は四家に達する。
世襲親王家は、男系の血筋を直系とあわせて合計五本、次世代に継承し、それぞれに男系の男子が途絶えた時には、皇位および宮号の継承者を互いに融通しあった。結果、万世一系の皇統の安定的継承に寄与した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E8%A5%B2%E8%A6%AA%E7%8E%8B%E5%AE%B6
○結論
八条宮智仁王は、文化的資質に秀で、しかも、当時としては、秀吉によって伏見宮以来の二番目の世襲親王家が創設されその初代当主にしてもらい、それが家康によって覆されることもなかったので、家康に復讐する理由がなかったのに対し、邦慶親王には、上述したように、秀吉、ひいては豊臣家に復讐する理由があった、というわけだ。
[織田有楽斎]
信長の弟の織田長益(おだながます。1547~1622年)は、信長の猶子の邦慶親王とは、対照的な軌跡を描いた人物だ。↓
「<1582>年の本能寺の変の際は、信忠とともに二条御所にあったが、長益自身は城を脱出し、近江国安土を経て岐阜へ逃れたとされる。変後は甥の信雄に仕え、検地奉行などを務める。小牧・長久手の戦いでは信雄方として徳川家康に助力。蟹江城合戦では大野城の山口重政救援、下市場城攻略にも参陣しており、蟹江城の滝川一益の降伏を仲介した。戦後家康と羽柴秀吉の講和に際して折衝役を務めている。また、佐々成政と秀吉の間を斡旋したともいう。・・・
・・・1590年・・・の信雄改易後は、秀吉の御伽衆として摂津国島下郡味舌(現在の大阪府摂津市)2000石を領した。この頃、剃髪して有楽と称す。姪の淀殿とは庇護者として深い関係にあり、鶴松出産の際も立ち会っている。
秀吉死後、家康と前田利家が対立した際には、徳川邸に駆けつけ警護している。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、長男・長孝とともに総勢450の兵を率いて参戦。・・・
織田隊は西軍の有力武将の首級を2つ取るという活躍を見せ、戦後にその功績を認められ、有楽は大和国内で3万2000石、長孝は美濃野村に1万石を与えられた。
戦後も豊臣家に出仕を続け、淀殿を補佐した。・・・大坂冬の陣の際にも大坂城にあり、大野治長らとともに穏健派として豊臣家を支える中心的な役割を担った。一方、嫡男の頼長は強硬派であり、和平派としばしば対立している。冬の陣後、治長と共に和睦を締結させ、家康に人質を出すが、大坂夏の陣を前にして再戦の機運が高まる中、家康・秀忠に対し「誰も自分の下知を聞かず、もはや城内にいても無意味」と許可を得て豊臣家から離れた。
大坂退去後は京都に隠棲し、茶の湯に専念し、趣味に生きた。・・・1615年・・・8月、四男・長政、五男・尚長にそれぞれ1万石を分け与え、有楽本人は隠居料として1万石を手元に残した。・・・
『義残後覚』・『明良洪範』など後世の編纂書では本能寺の変の際に信忠に自害を進言したのは長益だとされ、その後の逃亡劇を、京の民衆たちに「織田の源五は人ではないよ お腹召せ召せ 召させておいて われは安土へ逃げるは源五 むつき二日に大水出て おた(織田)の原なる名を流す」と皮肉られたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E9%95%B7%E7%9B%8A
その嫡男の織田頼長(よりなが。1582~1620年)は、「1614年・・・の大坂冬の陣では長益と共に大坂城に籠城し、二の丸玉造口などを守備する。雑兵を合わせて1万人あまりの部隊を指揮したという。同年12月、自ら率いる部隊内の喧嘩騒ぎにより、徳川方の藤堂高虎隊が織田隊方面から攻撃を開始して谷町口の戦いが起きるが、頼長は病気と称して一切の指揮をしなかったという。これは高虎と頼長とが示し合わせた上での謀略ともされている。・・・
・・・1615年・・・4月、大坂城を退去する。一説には、豊臣方の総大将の地位を望んだものの、叶わなかったためという。以後は京都に隠遁し、「道八」と号して茶の湯に専念して有楽流を継承する。なお、頼長は豊臣方の部将であったため、長益は領地を分与することを控え、幕府も領地を与えず、大名に列することはなかったようである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E9%A0%BC%E9%95%B7
その長男の織田長好(ながよし。1617~1651年)は、「1620年<に>・・・父・頼長が39歳で死去し、翌・・・1621年<に>・・・祖父・長益(有楽)が75歳で死去した。長益は長好を嫡孫として扱っており、隠居料(味舌藩)1万石を相続させたかったようである。しかし、幕府に対して後継者としての届出を出さないうちに死去してしまったため、相続はかなわなかったようである。・・・
成長した長好は、茶の湯・有楽流を継承し、茶人として名を成した。一方で、2代将軍・徳川秀忠の長女千姫(元豊臣秀頼室)を通じ、幕府に召抱えを工作していたようである。生存中は3000石の合力米を支給されていたようである。
・・・享年35。正室、子女ともにいなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E9%95%B7%E5%A5%BD
⇒家康に「協力」した点だけでは邦慶親王と同じながら、まことにもって、一卵性三生児、とでも形容したくなるような、織田家(信長、信雄、淀殿、千姫)をしゃぶり尽くしつつ、意地汚く生き抜いた・・有楽斎に関しては秀吉に媚びを売ったことも付け加えるべきだろう・・ところの、有楽斎三代だったと言えよう。(太田)
エピローグ
信長流と秀吉流(とその後に成立する光政流(コラム#12303。未公開))を問わず、あらゆる日蓮主義を否定するキリシタン勢力、と、反キリシタンでかつ信長流日蓮主義だけを信奉する天皇家・近衛家/島津家、の野合が、北政所を要(リンチピン)として成立し、それが、秀吉による唐入りを挫折させ、かつ、非キリシタンだがキリシタン勢力同様、あらゆる日蓮主義を否定するところの、「退嬰的」な徳川家康(徳川幕府)による権力の掌握をもたらし、長らく世界の人口・経済の中心であった大東亜地域の、欧米勢力による席捲による、数百年に及ぶ荒廃と地盤沈下をもたらした、ということ。
その責任は、秀吉流日蓮主義を、国内での妨害を適切に除去しないまま遂行した秀吉、妨害した有力な存在の一人である北政所、にもあるけれど、この二人の子孫はいないのに対し、カトリック教会はさておき、天皇家・近衛家/島津家は、相互に交錯しつつそのいずれの子孫もいるだけに、ほぼ全面的に負う立場であり続けることになる。
以下、感想とお詫びだ。
まず、感想からだが、まともな形で日本史研究を行うためにも、これまでの世界の歴史学の常識や分析諸ツールだけでは不十分だ、と、改めて痛感させられた。
考古学時代より後の日本史においては、外国による征服とか革命とか王朝の交替とかが一度もなく、全く断絶がないのだが、こんな歴史を持つ国や地域は、世界に日本しか存在しないからだ。
このことを勘案すれば、いかなる日本での事件も、また少なくとも日本の支配層に関しては、いかなる人の生涯も、いかなる考え方も、いかなる宗教・宗派も、日本史全体の中に位置づけることによって、初めて正しく評価することができる、と、私は思うに至っている。
別の言い方をすれば、日本史に関しては、特定の時代や事件や人物の専門研究者などというものは、およそ存在しえない、ということだ。
最後に、お詫びだが、三好長慶について、取り上げると申し上げていたけれど、果たせなかった。
<太田>
上掲には反映済みだが、昨夜、オフ会参加予定者に昨朝配布した「講演」原稿案に対する下掲修正表を送付した。
「講演」で使うので、ここに掲載しておく。
修正表
豊臣家の中に、a: → 広義の豊臣家の中に、a:
豊臣秀吉<が>謁見した島津義弘 → 豊臣秀吉<が>謁見した島津義弘<(注18-2)>
※「注19」のすぐ前に下掲を挿入。↓
(注18-2)「九州国分後、「義弘<は、>・・・義久から家督を譲られ島津氏の第17代当主になったとされているが、正式に家督相続がなされた事実は確認できず、義久はその後も島津氏の政治・軍事の実権を掌握しているため、恐らくは形式的な家督譲渡であったものと推測されている。また、秀吉やその側近が島津氏の勢力を分裂させる目的で、義久ではなく弟の義弘を当主として扱ったという説もある。・・・1588年・・・に上洛した義弘に羽柴の名字と豊臣の本姓が下賜され<、>以降、羽柴兵庫頭豊臣義弘(後に出家し羽柴兵庫入道)となる。一方、義久には羽柴の名字のみが下賜された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E5%BC%98
というのですが、これまた、島津氏は、義久の全般的指揮の下、兄弟で協議して、反秀吉派と親秀吉派をでっちあげ、秀吉を含む世間の目を欺こうとした、というのが私の見方です。(太田)」(コラム#12130)
※「注20」のすぐ後に下掲を挿入。↓
⇒「注20」に出てくる、三成によるの夜襲にの拒否は、三成が、関ヶ原の戦いで勝利を収める・・戦術的勝利を含む・・ことなど考えていなかったことの傍証の一つだと私は考えている。(太田)
福島正則、黒田長政ら武断派の反発を招いた。
⇒
福島正則<(注20-2)>、黒田長政ら武断派の反発を招いた。
(注20-2)1561~1624年。「尾張国海東郡二ツ寺村(現・愛知県あま市二ツ寺屋敷)で桶屋・・・の長男として生まれたという。しかし、<この>父・・・は義父であったともいわれている。後者の場合、実父と目されているのは、同国春日井郡の清洲村界隈(旧・愛知県西春日井郡清洲町、現在の清須市の中核地域)の桶大工・・・である。母は、秀吉(のちの豊臣秀吉)の母(のちの大政所)の妹(秀吉の叔母)にあたる人物である。・・・賤ヶ岳の七本槍の<一人。>・・・
文禄の役では五番隊の主将として戸田勝隆、長宗我部元親、蜂須賀家政、生駒親正、来島通総などを率いて京畿道の攻略にあたった。年末には京畿道竹山の守備についた。この後、正則はいったん日本に帰国し、文禄3年(1594年)1月に再び朝鮮に渡った。 講和交渉の進展により南部布陣が決まったため、正則は巨済島の松真浦城や場門浦城の守備、補給などの兵站活動を担当した。10月、朝鮮水軍を率いる李舜臣が場門浦を攻撃した時(場門浦海戦)には正則自ら軍船に乗って指揮を執り、敵船を焼き討ちするなどの反撃でこれを撃退した。・・・
続く慶長の役には参加しなかった正則であったが、慶長4年(1599年)に秀吉は朝鮮半島に大軍勢を派遣して大規模な軍事行動を計画しており、その軍勢の大将として石田三成と増田長盛とともに抜擢されていた。・・・
1611年・・・3月、家康が秀頼に対し二条城での会見を迫った時には、いまなお豊臣家が主筋と自負して強硬に反対した淀殿を加藤清正や浅野幸長とともに説得し、秀頼の上洛を実現させた。なお正則自身は病と称して会見に同席せず、枚方から京の街道筋を1万の軍勢で固めて変事に備えた。・・・
大坂の陣では秀頼に加勢を求められても、正則は拒絶し、大坂の蔵屋敷にあった蔵米8万石の接収を黙認するに留まった。また、一族の福島正守・福島正鎮は豊臣軍に加わった。幕府には従軍も許されず、正則は冬の陣、夏の陣ともに江戸留守居役を命じられたが、嫡男の福島忠勝が兵を率いて幕府軍に加わった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E6%AD%A3%E5%89%87
譴責を受けた諸将の中には加藤清正など
⇒
譴責を受けた諸将の中には加藤清正<(注21-2)>など
※下掲を挿入。↓
(注21-2)1562~1611年。「刀鍛冶・加藤清忠の子として尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に生まれた。・・・1573年)、羽柴秀吉の生母である大政所と母が従姉妹(あるいは遠縁の親戚)であった縁から、近江長浜城主となったばかりの秀吉に・・・仕え<た。>・・・「賤ヶ岳の七本槍」の一人<。>・・・<そ>の清正・・・は、豊臣政権の財務官僚として<腕を振る>った。・・・<やがて、>肥後半国を与えられ<たが、>・・・治績は良好で、田麦を特産品化し南蛮貿易の決済に当てるなど、世に知られた治水以外に商業政策でも優れた手腕を発揮した。・・・1589年)、小西領の天草で一揆が起こると、小西行長の説得を無視して出兵を強行、これを鎮圧している。・・・
文禄の役では二番隊主将となり鍋島直茂、相良頼房などを傘下に置いた。同じく先鋒である小西行長率いる一番隊とは別路をとり、4月17日の釜山上陸後は行長と首都漢城の攻略を競い、5月3日南大門から漢城に入城した。漢城攻略後は一番隊や黒田長政の三番隊と共に北上し、臨津江の戦いで金命元等の朝鮮軍を破る。その後、黄海道金郊駅からは一番隊、三番隊とは別れ東北方向の咸鏡道に向かい、海汀倉の戦いで韓克諴の朝鮮軍を破り、咸鏡道を平定して、現地の朝鮮人によって生け捕りにされていた朝鮮二王子(臨海君・順和君)を捕虜にした。だが、清正の本意は秀吉の意向が明本国への進撃である以上、朝鮮半島の平定に時間をかけるべきではないという考え方で、日本側が取った八道分遣策には批判的であった。
清正の危惧通り、明軍の援軍を得た朝鮮軍の反撃を受けた一番隊や支援にかけつけた三番隊は苦戦をし、日本軍の進撃は停止してしまう。一方、明への侵攻路から外れた辺境で敵軍も少なかった二番隊は大きな抵抗を受けずに侵攻を続けたため、一番隊や三番隊の苦戦を知る日本本国では「清正が虚偽の戦果を報告しているのではないか」と疑惑を持たれることになった。当然、清正はこうした流れに反発し、それが一番隊を率いていた小西行長や本国と現地の取次をしていた石田三成への不信の発端になったとみられている<。>・・・
明・朝鮮と本格的な交渉が始まると、・・・秀吉の命令を無視してでも和睦を結ぼうとする小西行長と対立し、行長は清正が講和の邪魔になると見て、彼が豊臣姓を勝手に名乗ったこと、独断専行した罪などで秀吉に訴えた。この時、戦争継続は不利と考える石田三成が行長を支持したことなどから、清正は京に戻され謹慎となる。増田長盛が三成と和解させようとしたが、清正は断っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%B8%85%E6%AD%A3
死ぬまで、一貫して三成を全く疑わなかったことだ。
→
死ぬまで、疑いつつも三成を最重用し続けたことだ。
<太田>
末尾に更に追加。↓
罪滅ぼしに、三好長慶の旗印・馬印がなさそうな話をしておこう。
[信長・光秀・秀吉・三成・家康の旗印と馬印(馬標)]<(word文書。省略)>
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太田述正コラム#12329(2021.10.16)
<2021.10.16東京オフ会次第>
→非公開