太田述正コラム#12162(2021.7.25)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』を読む(その3)>(2021.10.17公開)
「これまで江戸時代のいわゆる鎖国は、日本の閉じこもり型外交としてネガティブに評価されてきた。
しかし鎖国にいたる歴史展開をみれば、強大な軍事力を有していたがゆえにヨーロッパ列強をも日本主導の管理貿易下におくことができた、ということが明瞭に浮かび上がってくる。
弱くて臆病だから鎖国、ではなく、強かったから貿易統制や入国管理を可能にしたのであった。
それが、のちに鎖国と呼ばれた体制であった。
つまり、強かったから鎖国なのである。・・・
⇒「強かったから鎖国」をしたと言わんばかりの最後の一文は筆が滑ったのでしょう。
あくまでも、「強かったから鎖国ができた」までで留めるべきでした。(太田)
スペイン国王とポルトガル国王の調整により、スペインはポルトガルから賠償金を得てモルッカ諸島から撤退し、同諸島の東の子午線(東経144度30分)を境界とする条約を1529年に結ぶことになる。<(注4)>
(注4)「1525年2月10日、ポルトガルの・・・ジョアン3世は・・・スペインの・・・カール<(カルロス)>5世の妹カタリナと結婚した。翌年3月11日に今度はカール5世がジョアン3世の妹イサベルと結婚した。この二重結婚により両国は緊密な関係となり、モルッカ諸島に関する協議を促進した。カール5世も紛争を避けて<欧州>での政策の実施に専念したい上、スペインはモルッカ諸島からの香辛料を東回りでヨーロッパに持ち帰る航路を知らなかったことも条約締結の一因となった。東回り航路は1565年にアンドレス・デ・ウルダネータ(Andrés de Urdaneta)がマニラ=アカプルコ航路を確立するまでついぞ見つからなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%82%B4%E3%82%B5%E6%9D%A1%E7%B4%84
これがサラゴサ条約である。
地球の表面全体が、こうして両国によって半分ずつに区切られた。
この子午線はモルッカ諸島のはるか東部のニューギニア島中央部を通っており、スペインが占拠しているフィリピンはこの子午線の西側になる。
したがって子午線を基準にすればポルトガル領ということになるが、スペインが先取権を主張してフィリピンはスペインの支配下に入ることになった。
つまり、スペインはモルッカ諸島から手を引くが、フィリピンは確保するという交換条件であった。<(注5)>・・・
(注5)「カール5世はフィリピンには香辛料がないためポルトガルも強く反対はしないと考え、1542年にはフィリピンを植民地化することを決定した。このときの植民は失敗したが、息子のフェリペ2世は1565年に植民に成功、マニラに初の交易所を設置した。そして、カール5世の予想通り、ポルトガルからの反対は少なかった。」(上掲)
ところで、この東経144度30分を北に延ばしていくと、日本では北海道の釧路と網走のラインを通過する。・・・
このような位置関係にある日本はポルトガル勢力とスペイン勢力がともに支配権を主張できる微妙なエリアだったということである。・・・
⇒ポルトガルやスペイン側がいかなる認識であったかを誰か明らかにして欲しいものです。(太田)
1543年に、ポルトガル人の乗ったジャンク船が種子島に漂着して鉄砲を日本に伝えたという有名な故事がある。
ジャンク戦の持ち主は、倭寇の首魁である明人の王直であった。<(注6)>・・・」(14、25~26)
(注6)「『鉄炮記』によれば、・・・1543・・・8月25日、大隅国の種子島、西村の小浦(現/前之浜)に一艘の船が漂着した。100人余りの乗客の誰とも言葉が通じなかったが、西村時貫(織部丞)はこの船に乗っていた明の儒者・五峯と筆談してある程度の事情がわかったので、この船を島主・種子島時堯の居城がある赤尾木まで曳航するように取り計らった。
船は8月27日に赤尾木に入港した。時堯が改めて法華宗の僧・住乗院に命じて五峯と筆談を行わせたところ、この船に異国の商人の代表者が2人いて、それぞれ牟良叔舎(フランシスコ)、喜利志多佗孟太(キリシタ・ダ・モッタ)という名だった。時堯は2人が実演した火縄銃2挺を買い求め、家臣の篠川小四郎に火薬の調合を学ばせた。時堯が射撃の技術に習熟したころ、紀伊国根来寺の杉坊某もこの銃を求めたので、津田監物に1挺持たせて送り出した。さらに残った1挺を複製するべく金兵衛尉清定ら刀鍛冶を集め、新たに数十挺を作った。また、堺からは橘屋又三郎が銃の技術を得るために種子島へとやってきて、1、2年で殆どを学び取った。・・・
実戦での最初の使用は、薩摩国の島津氏家臣の伊集院忠朗による大隅国の加治木城攻めであるとされる。
遅くとも・・・1549年・・・までに、種子島の本源寺から堺の顕本寺に鉄砲が届けられており、当時、足利幕府の管領だった細川晴元が、鉄砲献上に対する礼状を、両寺を仲介した法華宗の総本山である本能寺に宛てて出している(『本能寺文書』)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E7%A0%B2%E4%BC%9D%E6%9D%A5
種子島時堯の弟が日法、時堯の戒名が法惟院日勝大居士
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%AE%E5%AD%90%E5%B3%B6%E6%99%82%E5%B0%AD
であることからも、時堯一家は全員日蓮宗信徒であったと思われる。
⇒鉄炮への注目、鉄炮のリバースエンジニアリング、日本国内(堺、根来、島津氏、細川氏)への普及、に、時堯及び日蓮宗・・こんなところにまで登場!・・が直接関与していた、というわけです。(太田)
(続く)