太田述正コラム#12164(2021.7.26)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』覚書(その1)>(2021.10.18公開)
1 始めに
平川のシリーズを書いている間に道草を何度かさせられたのですが、その一端をご披露しておきたいと思います。
2 島津重豪/斉彬と廃仏毀釈
まず、島津重豪が惹き起こした道草から始めましょう。
「廃仏毀釈が徹底していたのは鹿児島である。
寺院総数1066個所、僧侶総数2964人が明治9年の半ばまでにすべて消滅したとされる。
種子島では明治政府による廃仏毀釈が実施される半世紀以上も前の文化5年(1808)に、「寺が多く老朽化して修理も難しいので寺院を整理したい」という伺書が出され、藩庁が寺院整理の許可を出している。
⇒この時点では、島津重豪(1745~1833年)は、家督を長男の斉宣に譲っていたものの、なおも薩摩藩の実権は握り続けていた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E9%87%8D%E8%B1%AA
ところ、義理の息子で将軍の徳川家斉が日蓮宗信徒だった(コラム#12156)のですから、予め、家斉の了解(黙認?)を取りつけた上でこの種子島での日蓮宗諸寺院の「整理」を断行したのか、それとも、単に、「整理」は寺の数を減らすだけだったのでそこまでの配慮は必要なかったのか、知りたいところです。(太田)
仏教寺院は言葉巧みに檀家に改修を強要し農民を苦しめていたらしい。
小さな種子島に28もの寺院があり、すべてが法華宗であった。
薩摩藩の廃仏毀釈については島津斉彬の側近であった市来四郎が後日、誇りをもって証言している。
「寺院を廃止僧侶を還俗せしめ時勢相当国用に立たせようと云う議論でござりました」「斯ふ云う時勢に立ち至って寺院または僧侶と云うものは不用なものである。或いは僧侶も夫々国のために尽くさせなくてはならぬ時勢になった。先年水戸家にても寺院廃合の処分があった、真に英断である。皆人感賞する処である」、建白書を作って「忠義、久光に披露したところが即日に決断致しました」と述べており、班内すべてが金食い虫の寺院は断じて廃すべきであるという意見になったようだ。
薩摩藩の歴代の藩主は一向宗などの一部の宗派を除き仏教寺院の手厚く保護してきたが、斉彬の跡を継いだ島津忠義の代になって夫人の逝去を契機に葬儀を神式で行い廃仏毀釈を容認している。
門徒の抵抗や流血の惨事もなく廃仏毀釈を徹底できたのは「先君斉彬の遺志」とされ、過激な行為がなかったからである。
斉彬は時鐘を除き大小の寺院の梵鐘を悉く徴集したため、その祟りで病気になり急死したとの噂さえ立った。
寺院から徴集した梵鐘は武器製造に充てたとされているが、斉彬が急死したため寺院に返却された梵鐘もあった。
薩摩藩は文久2年(1862)に幕府から琉球通宝鋳造の許可を得て仏具や梵鐘を貨幣の鋳造にも転用している。
「民衆疲弊の悲声なく人気は頗る盛んであった」とされ、貨幣の鋳造は巨額の借金を抱える薩摩藩の財政改善に大きく貢献した。
寺社に提供される米穀金銀や堂宇の修理代に加え、占有する土地に対する免租額は石高にして約10万石の巨額に及ぶものであったという。
巨額の資金を消費する仏教寺院の存在を斉彬が疑問視していたことは確かだが、日蓮の教義を伝承する富士大石寺の宿坊再興は援助している。
日蓮没後長い間無名で仏像を持たず僧衣も質素であった大石寺が後に日蓮正宗<(注1)>と称し国家神道を否定する宗派になることを斉彬は知る由もなかった。」(大島一元「日本の近代化と廃仏毀釈」(近創史 No.14/2012)より)<(注2)>
https://www.jstage.jst.go.jp/article/rcmcjs/14/0/14_61/_pdf/-char/ja
(注1)「種脱相対、日蓮本仏論を唱え、・・・本門戒壇の大御本尊を信じ、題目を唱えるならば、どんな者でも必ず成仏できるとしている。また、・・・戒・・・は捨悪と持善である。・・・
多宝塔や釈迦・多宝如来、等の仏像の制作・崇拝は一切禁止されている。
1941年<、>・・・宗派存続と引き換えに、神嘗祭遥拝等の容認や神宮大麻の受け取りなど、国家神道への妥協も余儀なくされた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE%E6%AD%A3%E5%AE%97
「五重相対・・・とは、・・・一切の思想や宗教を比較・検討し、その高低・浅深・勝劣を判定する」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E9%87%8D%E7%9B%B8%E5%AF%BE#%E7%A8%AE%E8%84%B1%E7%9B%B8%E5%AF%BE
「多宝塔は、「法華経」見宝塔品第十一に出てくるもので、釈迦が霊鷲山で法華経を説法していると多宝如来の塔が湧出し、中にいた多宝如来が釈迦を讃嘆し半座を空け、二如来が並座したとされることに由来する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E5%AE%9D%E5%A1%94
「捨悪<とは、>・・・謗法を捨てること<。>・・・持善<とは、>・・・三大秘法<を>受持信行<すること。>・・・三大秘法とは、本門の本尊(本門戒壇の大御本尊)・本門の戒壇(本門の本尊安置の場所)・本門の題目(本門の本尊に向かって題目を唱えること)の3つのことである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE%E6%AD%A3%E5%AE%97 前掲
(注2)このくだりは、市来四郎「史談速記録第13輯」史談会(国会図書館近代デジタルライブラリー)に拠っているようだ。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/rcmcjs/14/0/14_61/_article/-char/ja/
なお、大島のこの本は、2012年刊で、『近創史』は、特定非営利活動法人 近代日本の創造史懇話会の機関誌らしい。
https://ci.nii.ac.jp/naid/130003354416
大島その人については調べがつかなかった。
⇒「注2」に登場する市来四郎(1829~1903年)(コラム#9902)は、「斉彬の死後は弟の久光の側近となり、・・・維新後は、主に久光の元で島津家に関わる史料の収集に携わった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E6%9D%A5%E5%9B%9B%E9%83%8E
人物ですが、彼が著した『島津斉彬言行録』は、彼の手になる『順聖公御言行録』を改題の上1944年に出版したものである(上掲)ところ、この『順聖公御言行録』、と、「史談速記録第13輯」に収録された市来の文章、の、それぞれの執筆時期までは調べがつきませんでしたが、斉彬の言行と言い切れないからこそ、廃仏毀釈がらみの記述が後者にだけ出てきて前者には出てこないのだと思います。
少なくとも、斉彬の行った寺院の破却は、その即物的な目的こそ斉彬は示唆していたけれど、その思想的/宗教的な背景までは示唆していなかった、と、想像されます。
種子島以外の旧薩摩藩の諸離島や九州本島内にも日蓮宗の寺院があって廃仏毀釈の対象になって破却されたのか、また、種子島の日蓮宗の諸寺院についても同様破却されたのか、知りたいところですが、斉彬が、軍事的/財政的な理由で応急手段的に実施した寺院の破却が、彼が、日蓮主義者だったけれどその日蓮正宗信仰は単なる方便に過ぎなかったことを意味する可能性は小さいのではないでしょうか。
いずれにせよ、明治以降の日本は、島津久光が推進したところの、全寺院の破却(仏教の禁止)までにはついに踏み込めず、神仏分離までにとどまった、というわけです。(太田)
(続く)