太田述正コラム#12166(2021.7.27)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』覚書(その2)>(2021.10.19公開)

3 島津斉彬の信長・秀吉・家康・信玄評

 斉彬の事績を改めて調べている過程で、こういうのにも遭遇しました。↓

 「斉彬はどのような指導者を目指していたのか。・・・
 『鹿児島百年(上)幕末編』(謙光社)・・・は、織田信長と豊臣秀吉、徳川家康らを比較した斉彬の「太閤記評」を紹介している。
 「秀吉は信長につかえているうちに、信長をつかってやろうと思いたった。これを考えると、秀吉の知慮は、信長の十倍はあった」「家康は、その秀吉の威勢が、どう広がるかを、よく考えてつかえた。秀吉に劣らぬ知慮があったが、家康より偉いのは武田信玄だ」
 そして、「信玄は、天下を取った日のことを考えて、日本国中の政事の進めかたを、準備していた。その計画の緻密なこと、これ以上はないというりっぱなもので、家康も激賞した。そして家康は天下を取ってから、それをすぐに用いた」と信玄を高く評価している。
 また、水戸家については、「老公(水戸斉昭のこと)の感徳は、四方にきこえ渡ってはいる。が、これは側近の補佐の力だ。藤田東湖や戸田逢軒(ほうけん)が地震で死に会沢正志斉(せいしさい)が老齢に達したので、これからの水戸家は衰微に向かおう。人材ほど、えがたいものはない」と分析し、豊富な人材の大切さを語っている。」
https://www.zakzak.co.jp/soc/news/210216/pol2102160001-n1.html
 『鹿児島百年(上)幕末編』は「南日本新聞社編」である
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I001282468-00
ところ、南日本新聞社は、販売エリアが鹿児島県・宮崎県で本社所在地が鹿児島市で発行部数25万3,366部(2021年4月現在)で九州の県紙6紙の中でトップだと謳っている。
https://373news.com/_kaisya/guide/

 出版元そのものは信頼がおけそうですが、問題は、上で引用した箇所の典拠が何か、です。
 (典拠如何によらず、市来四郎が『順聖公御言行録』にこの斉彬発言を収録していない以上、斉彬はそんな発言をしていない、と、考えるべきでしょうが・・。)
 さて、上掲引用中で、斉彬は、信玄>家康≒秀吉>信長、としているわけですが、仮に典拠が信頼のおけるもので、かつ、斉彬が本当にそう言ったことがあるのだとすれば、ですが、その場合、二つの可能性がありえます。
 第一は、一種の韜晦的発言だった可能性です。
 斉彬は、徳川幕府打倒を目指していたわけであり、自分の考えと真逆のことを述べ、勘の良い者に自分の真の考えに気付かせようとした、と。
 第二は、(後で触れるように、斉彬にとって家康は先祖であることからも、)家康を一応は立て、16世紀末時点においては、家康が最も当時の日本にとって適切な国家体制の構築を目指してそれに成功したことを高く評価しつつ、もはや、その国家体制の抜本的変革が求めらている、という話にもって行くための前振り的な発言だった可能性です。

3 徳川慶喜と島津斉彬

 斉彬つながりで、今年の大河のこともあり、彼が生前、将軍に擁立しようとした慶喜のことが気になりだし、慶喜のウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E5%96%9C
を開いて、そこに出てくる彼の写真群をあらためて眺た時に、突然、慶喜の容貌が三島由紀夫
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E7%94%B1%E7%B4%80%E5%A4%AB
に似ていることに気付きました。
 で、この話はその時はそのままにして、慶喜と斉彬のそれぞれの系図を調べて比較対象すれば、何かが見えてくるかもしれない、と、思いました。
 まず、慶喜の方を調べたのですが、慶喜関連のウィキペディア執筆者達の好み(?)なのか、彼のウィキペディアの「血筋」・・ぜひ、ご自分で一瞥をくれてください・・の所
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E5%96%9C
には、「裏口」から徳川家康と織田信長を含むところの、織田信秀(信長の父親)に到る系図が掲げられており、慶喜の父親の斉昭(水戸藩8代藩主)のウィキペディアには系図が載っていないのですが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E6%98%AD
その斉昭の父親の治紀(同左7代藩主)のウィキペディアにも、慶喜のケースと基本的に同じ系図が掲げられています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B2%BB%E7%B4%80
 そこで、やむなく、治紀から遡った男系系図は、自分で作ってみました。
 (典拠ウィキペディアURL群は省略。)↓

徳川家康-頼房(水戸藩初代藩主)-松平頼重(高松藩初代藩主)-頼侯(無官位)-頼豊(高松藩3代藩主)-徳川宗堯(水戸藩4代藩主)-徳川宗翰(水戸藩5代藩主⇒三島由紀夫(昆孫))-徳川治保(水戸藩6代藩主⇒幕末から明治維新期の尾張徳川家、幕末以降の一橋徳川家、清水徳川家の当主)-徳川治紀(水戸藩7代藩主)

 この過程で一番驚いたのは、徳川宗翰(むねもと)のウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E7%BF%B0
に「三島由紀夫は<彼の>昆孫である。」と記されていたことです。
 (そのずっと後になって、三島由紀夫(本名、平岡公威)の「祖母・夏子・・・の母方の祖父・松平頼位の血筋を辿っていくと徳川家康に繋がっている。」と、三島由紀夫のウィキペディア(前出)に記されていることに気付きました。)
 さて、慶喜に成り代わって、彼のアイデンティティーを、私の独断と偏見でもって想像すれば、天皇家が半分の5割で、残りの半分中、(信長や家康の次の代を基準にして)織田家が4割、すなわち全体の2割、徳川家が6割、すなわち全体の3割、といったところだったのではないでしょうか。
 次に斉彬です。
 (やはり、典拠ウィキペディアURL群は省略。)↓

(紀州藩初代藩主) (鳥取藩)
徳川頼宣-茶々姫-池田仲登(非藩主)-吉泰-宗泰–|
|-松平頼純-徳川宗直(紀州藩6代藩主) -久姫–|-池田重寛-治道–|-弥姫(注)-斉彬
  (伊予西条藩初代藩主)            |
伊達政宗-忠宗-宗房(非藩主)-吉村-宗村-重村-生姫–|

 「弥姫<いよひめ(1792~1824年)>は徳川家康、伊達政宗、織田信長、毛利元就らの血を引いている。・・・子に島津斉彬、池田斉敏<(岡山藩主)>、候姫(山内豊熈室)。異母姉の姚姫は佐賀藩主・鍋島斉直に嫁ぎ、名君と誉れ高い鍋島直正を産んでいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E5%A7%AB
と、彼女のウィキペディアにはあるけれど、上出の織田信長、毛利元就への言及部分は誤りではないでしょうか。↓
 (織田氏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E6%B0%8F
  毛利氏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E6%B0%8F )

 同様、斉彬に成り代わって、彼のアイデンティティーを、私の独断と偏見でもって想像すれば、島津家が半分の5割、残りの半分中、頼宣と政宗(が同世代人であるところ、そこ)を基準にして、紀州徳川家が半分、すなわち全体の2割5分、伊達家が半分、すなわち全体の2割5分、といったところだったのではないでしょうか。

(続く)