太田述正コラム#12170(2021.7.29)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』覚書(その4)>(2021.10.21公開)

 斉彬は、養珠院の日蓮宗がらみの挿話はもちろんのこと、久昌院のことも知ってはいて、日蓮正宗の信徒になる際、このことも彼の背中を押したのでしょうが、慶喜に至っては、養珠院の存在だけではなく、彼女の勇気と機転がなければ、自分が物理的に存在していないだけに、彼は、この二人が信徒であった日蓮宗への強い関心を抱き続けたのではないでしょうか。
 というわけで、私は、慶喜は、隠れ日蓮主義者だったのではないか、と、考えるに至っています。

5 水戸学と日蓮主義

 「・・・1657年・・・、水戸藩世子の徳川光圀は江戸駒込別邸内に史局を開設し、紀伝体の日本通史(のちの「大日本史」)の編纂事業を開始した。藩主就任後の・・・1663年・・・、史局を小石川邸に移し、彰考館とした。・・・
 「大日本史」の編纂方針において、南朝正統論を唱えたこと<も>後世に大きな影響を与える・・・。・・・
 光圀死後も編纂事業は継続されたが、・・・1737年・・・、安積澹泊の死後、修史事業は50年間ほど中断状態となった。
 「大日本史」の編纂事業は、第6代藩主徳川治保の治世、彰考館総裁立原翠軒を中心として再開される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E6%88%B8%E5%AD%A6
 「『大日本史』は三種の神器の所在などを理由として南朝を正統として扱った。その際、北朝の天皇についての扱いについても議論となり、当初北朝天皇を「偽主」として列伝として扱う方針を採っていたが、現在の皇室との関連もあり、後小松天皇の本紀に付記する体裁に改めたという。
 だが、光圀が生前に望んでいた『大日本史』の朝廷献上は困難を極めた。・・・1720年・・・、水戸藩から『大日本史』の献上を受けた将軍徳川吉宗は、朝廷に対して刊行の是非の問い合わせを行った。当時博識として知られた権大納言一条兼香(後、関白)はこの問い合わせに驚き、北朝正統をもって回答した場合の幕府側の反応(三種の神器の所在の問題)などについて検討している(『兼香公記』享保6年閏7月20日条)。この議論は10年余り続いた末に、・・・1731年・・・になって現在の皇室に差しさわりがあることを理由に刊行相成らぬとする回答を幕府に行った。だが、吉宗は同書を惜しんで3年後に独断で刊行を許可したのである。
 また、水戸藩も不許可回答の翌年である・・・1732年・・・に江戸下向中の坊城俊清に同書を託して朝廷への取次を要請した。これが嘉納されたのは実に69年後の・・・<徳川家斉が将軍の時の>1810年・・・のことであった。
 ただし、光圀の南朝正統論は水戸学に継承されるが、細かいところでは議論があった。光圀に仕えていた栗山潜鋒は神器の所在に根拠を求め、同じく三宅観瀾は名分の存在に根拠を求めて対立している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%AD%A3%E9%96%8F%E8%AB%96
 「<この>『大日本史』は、・・・全体的に・・・尊皇論で貫かれており、幕末の思想に大きな影響を与えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2

 光圀(1628~1701年)は、実母の久昌院(1604~1662年)から、彼女、と、実祖母の養珠院(1577~1653年)の日蓮宗及び同宗にまつわる「武勇伝」等を聞かされ、その影響を強烈に受けたと思われるのであって、例えば、「1661年・・・7月、父・頼房が水戸城で死去<した時、その>葬儀<を>儒教の礼式で行い、領内久慈郡に新しく作られた儒式の墓地・瑞竜山に葬った」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%85%89%E5%9C%80
こと、つまりは、儒教にかこつけて仏式(、就中徳川本家の浄土宗、)による葬儀を拒否した、こと、や、上出の、尊王論、と、(日蓮主義者であった後醍醐天皇から始まるところの)南朝が正統であるとする論、に立脚した『大日本史』編纂事業への着手、は、光圀が日蓮主義者であったからこそである、と、考えるのが自然でしょう。
 また、『大日本史』完成部分について、その刊行を(「北朝朝廷」の反対を押し切って)吉宗が認め、また、恐らくは、家斉の事実上の口添えもあってその朝廷への献上が成ったのは、家斉に関しては、彼が日蓮宗信徒であった(前出)ことから説明がつきますし、吉宗(注3)に関しても、実曾祖母の養珠院のことを知っていて、彼が実は隠れ日蓮主義者だったからではないでしょうか。

 (注3)1684~1751年。「目安箱の設置による庶民の意見を政治へ反映、小石川養生所を設置しての医療政策、洋書輸入の一部解禁(のちの蘭学興隆の一因となる)といった改革も行う。またそれまでの文治政治の中で衰えていた武芸を強く奨励した。・・・海防政策としては大船建造の禁を踏襲しつつも下田より浦賀を重視し、奉行所の移転や船改めを行い警戒に当たった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%90%89%E5%AE%97

 (「注3」に出てくる、吉宗による諸施策は、日蓮主義の実践準備、と見ることで統一的な説明が可能。)
 ずっと以前から、どうして、水戸藩が、徳川幕府の存立根拠をぐらつかせるような史観に基づく『大日本史』を編纂し、しかも、この『大日本史』を幕府自身が積極的に受け入れたのか、不思議だったのですが、ようやく、その理由が分かりかけてきた思いがしています。

(続く)