太田述正コラム#12176(2021.8.1)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』覚書(その7)>(2021.10.24公開)

 「石清水八幡宮の神官志水宗清(しみずむねきよ)の娘お亀の方(相応院)を母として生まれる。・・・学を好み儒教を奨励し、城内に・・・わが国最初の・・・孔子廟(びょう)を営んだ。著書『神祇(じんぎ)宝典』『類聚(るいじゅう)日本紀』・・・<『>軍書合鑑<』>・・・など。」
https://kotobank.jp/word/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E7%9B%B4-19112
 「石清水八幡宮<は、>・・・祭神は・・・応神天皇・・・宗像三女神・・・神功皇后・・・<で、>武家からは特に源氏が源義家が当社で元服したこともあって武神として信仰<され、>・・・皇室・朝廷からは、京都の南西の裏鬼門を守護する王城守護鎮護の神、王権・水運の神として篤く崇敬され、天皇・上皇・法皇などの行幸啓は250余を数える。・・・
 慶長年間(1596年 – 1615年)には境内の建物が豊臣秀頼によって修復されたり、再建が行われている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%B8%85%E6%B0%B4%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE
 
 ここ↑から、どうやら、石清水八幡宮が義直の世界観を理解するカギらしいことが見えてきました。 
 そして、(松花堂弁当と関係があるらしき)松花堂昭乗(1582~1639年)を「発見」しました。
 彼は、近衛信尹に仕えた後、当時、神仏習合だった石清水八幡宮に入って出家し真言宗の僧侶となったところの、書を近衛前久に学び、近衛信尹、本阿弥光悦とともに「寛永の三筆」と称せられ、絵画、茶道に堪能であった人物であり、「徳川義直と近衛信尋を対面させるため奔走」したり、近衛信尋の推挙で将軍家書道師範として江戸に下向したり、徳川義直を席主とした茶会(昭乗は小堀遠州とともに近衛信尋、一条昭良、一乗院尊覚法親王、八条宮智仁親王等を招待)を催したり、徳川義直と面会したりしています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E8%8A%B1%E5%A0%82%E6%98%AD%E4%B9%97
 つまり、義直は、この松花堂昭乗を通じて、(近衛前久の孫にして後陽成天皇の子である)近衛信尋
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%BF%A1%E5%B0%8B
がその一身に体現していたところの、近衛家/天皇家、と、濃厚な交流があった、ということが、義直をして、日蓮主義者にして尊王家たらしめた、と、思われるのです。
 『軍書合鑑』を著したこと(前出)や「日本武術も好み、柳生利厳から新陰流兵法の相伝を受けている・・・義直は<、>朝宮御殿を拠点に、よく春日井原へ鷹狩りに行ったという。また、いつ襲われても対処できるようにするためか、寝る際には寝返りを打つごとに脇差の位置を常に手元に置き、さらに目を開けながら絶えず手足を動かして寝ていたとも伝えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E7%9B%B4 前掲
ことも、義直が日蓮主義者であったとすれば、よく理解できる、というものです。
 また、調べがつきませんでしたが、彼が著した『類聚日本紀』(前出)も、恐らく、尊王史観で書かれていた可能性が大です。
 こうして、この義直によって、尾張藩の、日蓮主義/尊王、の藩論が形成された、と。
 次に、6代藩主の徳川継友(1692~1731年)の正室が近衛家熙の娘、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%B6%99%E5%8F%8B
その異母弟で7代藩主の宗春(1696~1764年)の娘が近衛内前正室、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E6%98%A5
松平友著(尾張徳川家第2代当主・徳川光友の十一男)の長男である8代藩主宗勝(1705~1761年)の息子の娘の子が近衛忠煕、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E5%8B%9D
この宗勝の子で9代藩主の宗睦(むねちか/むねよし。1733~1800年)の正室が近衛家久の娘、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E7%9D%A6
11代将軍・徳川家斉の十九男で11代藩主の斉温(なりはる。1819~1839年)の継室が近衛基前(もとさき)の養女・・閑院宮直仁親王の第四王子で、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%BF%A1%E5%B0%8B
基輝の養子となって藤原姓鷹司家を継承した鷹司輔平の子の政熙の実子・・、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E6%B8%A9
と、尾張徳川家は、血統いかんにかかわらず、近衛家/天皇家との関係を再確認することに勤しみ続けた観があるところ、その都度、日蓮主義/尊王、が同家に再注入された、と、言えるでしょう。
 更に、そこへもってきて、松平義和、義建父子を経由して、水戸藩の日蓮主義/尊王、によって、この尾張藩の藩論がより強固なものとなった、とも。↓

 徳川治保(水戸藩6代藩主)-松平義和(美濃高須藩9代藩主)-義建(同左10代藩主)-徳川慶勝(尾張藩14・17代藩主)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B2%BB%E4%BF%9D
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E7%BE%A9%E5%92%8C
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E7%BE%A9%E5%BB%BA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E5%8B%9D

 ちなみに、義建の正室にして慶勝の実母は、水戸藩7代藩主の徳川治紀(はるとし。1773~1816年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B2%BB%E7%B4%80
の娘の真証院であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E7%BE%A9%E5%BB%BA (前掲)
慶勝と徳川慶喜は、共通の曽祖父を持つ間柄であって、この二人の幕末での立ち振る舞いが似通っていたのはむべなるかな、ですね。
 なお、いつでも銘記すべきは、近衛家なるものは、島津家と一体化していた存在でもある、ということです。
 ですから、こういう観点からも、徳川慶勝、徳川慶喜の両名は、島津斉彬、と繋がっていた、ということにもなるわけです。

(続く)