太田述正コラム#12178(2021.8.2)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』覚書(その8)>(2021.10.25公開)

8 紀州藩

 水戸藩、尾張藩、と来れば、御三家で残った、紀州藩、についても振り返ってみたくなるというものです。
 幕末・維新期の(最後の)紀州藩藩主は14代藩主の徳川茂承(もちつぐ。1844~1906年)でした
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E8%8C%82%E6%89%BF
が、彼もまた、幕府を裏切っています。↓

 「・・・西条松平家<から、>紀州徳川家<入りする。>・・・
 1858年・・・に紀州藩13代藩主・慶福が徳川家茂として14代将軍に就任すると、幕命により同年6月25日に紀州徳川家の家督を継いだ。・・・
 2歳下の家茂とは気が合ったらしく、家茂が最も親しく交わりを結んでいたのが茂承であったのと同時に、茂承も家茂を慕っていたという。茂承が第二次長州征討で御先手総督として芸州口に出陣する際には大坂城の御座の間に迎え入れられ、家茂から直々に采配と陣羽織を授けられた後、人払いして2人だけで対面した。これが家茂との今生の別れとなった。・・・
 1868年・・・、戊辰戦争が勃発した際、茂承は病に倒れていたが、御三家の一つである上、鳥羽・伏見の戦いで敗走した幕府将兵の多くが藩内に逃げ込んだため、新政府軍の討伐を受けかけた。しかし、茂承は病を押して釈明し、新政府に叛く意志はないということを証明するため、藩兵1500人を新政府軍に提供すると共に、軍資金15万両を献上した上、勅命により京都警備の一翼を担った。このため、新政府は紀州藩の討伐を取りやめたという。・・・」(上掲)
 「<茂承の出身の>西条藩<は、>・・・1670年・・・紀伊国紀州藩初代藩主徳川頼宣の三男松平頼純が紀州藩の支藩として3万石で入封した<もの>。紀州徳川家(紀州藩主家)が絶えた場合に備えた。第2代頼致は紀州藩主徳川吉宗が将軍となったため紀州徳川家・紀州藩主を継いだ。松平家は参勤交代を行わない定府の大名だった。・・・
 藩主松平家は徳川一門の親藩でありながら、明治維新の際にはいち早く新政府に恭順の姿勢を示し、官軍として戊辰戦争に参戦した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%9D%A1%E8%97%A9
 徳川宗将(紀州藩7代藩主)☆-松平頼謙(西条藩6代藩主)★-頼看(7)
                             -頼啓(8)-頼学(9)-頼英(10)
                                       -徳川茂承
 調べた結果↑は、驚くべきものでした。↓

☆「日蓮宗を激しく排撃した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E5%B0%86
★墓所は(現在の東京大田区の)池上本門寺。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E9%A0%BC%E8%AC%99 (以下、省略)
というわけで、本家の徳川宗将と分家入りした松平頼謙との間で、日蓮宗への姿勢が180度転換し、分家の西条藩最後の藩主の松平頼英も、その弟で本家の紀州藩の最後の藩主になった徳川茂承まで、全員が日蓮宗信徒(本門寺が墓所。但し、茂承だけは、紀州藩主歴代の菩提寺である浄土宗の長保寺も墓所)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E9%A0%BC%E7%9C%8B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E9%A0%BC%E5%95%93
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E9%A0%BC%E5%AD%A6
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E9%A0%BC%E8%8B%B1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E8%8C%82%E6%89%BF

 こういうわけなのですから、徳川茂承は、当然、日蓮主義者であったはずで、これで、幕末の紀州藩の軌跡の説明がつきます。
 問題は、どうして、突然変異的に、松平頼謙(よりかた。1755~1806年)<(注5)>が、浄土宗から日蓮宗へ宗旨替えをしたのか、です。

 (注5)徳川治貞(1728~1789年)は、「伊予西条藩の第5代藩主<で>、のち紀州藩の第9代藩主<という人物だが、>・・・1775年・・・2月3日、紀州藩8代藩主となっていた甥の徳川重倫が隠居すると、5歳の岩千代(後の10代藩主・治宝)に代わって重倫の養子という形で藩主を継ぎ、西条藩主を同じく甥の松平頼謙(重倫の実弟)に<養子という形で>譲った<もの>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B2%BB%E8%B2%9E

 今のところ、可能性として見つけたのは、彼の父親である徳川宗将の正室(頼謙の実母ではない)が今出川公詮(18代)の娘の徳子である
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E5%B0%86
だけでなく、自身の正室もまた、(公詮の子の)今出川誠季(20代)の娘の定子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%87%BA%E5%B7%9D%E8%AA%A0%E5%AD%A3
だったことです。
 今出川家(菊亭家)は、藤原北家閑院流、西園寺家の庶流ですが、その初代の今出川兼季の娘の子は法華宗陣門流の祖である日陣です
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E4%BA%AD%E5%AE%B6
から、同家は、もともと、日蓮宗と浅からぬご縁があったわけです。
 有名なのは、第12代の晴季であり、彼は、「秀吉に関白任官を持ちかけて朝廷との調整役を務め・・・、これにより晴季は豊臣政権と密接な関係を築いて朝廷内で重きをなした。しかし、関白・豊臣秀次に娘の一の台を嫁がせていたため、・・・1595年・・・8月に秀次が謀反の疑いをかけられて高野山に軟禁され、自害に追い込まれた後、一の台をはじめとする秀次の一族妻妾が処刑される。晴季もこれに連座して越後国に流罪となった。翌・・・1596年・・・、赦されて帰京し、秀吉の死後<1599>年12月・・・には右大臣に還補、・・・1603年・・・正月に辞すまでその職に在った。」
という人物であり、妻は武田信虎の娘で、男の子に日桓という日蓮宗の僧と思しき人物がいます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%87%BA%E5%B7%9D%E6%99%B4%E5%AD%A3
 晴季の墓所は浄土宗の寺である上善寺(上掲)ですから、彼は、日蓮宗信徒ではなかったものの、秀吉、秀次に接近したのは、権力者への擦り寄りというよりは、日蓮主義者としての信念からだったと思われるのです。
 「江戸時代以降の<今出川>家は公規の頃から同じ清華家の徳大寺家や西園寺家、上位の五摂家である鷹司家などから養子を迎え存続し続けてきた。その為、家格は藤原一族でありながらDNA上は男系天皇の血を引いた時代(皇別摂家)が近代まで長く続いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E4%BA%AD%E5%AE%B6 前掲
とはいえ、むしろ天皇家の血の注入もあって、この日蓮主義の「遺産」は、同家を規定し続けたのではないでしょうか。
 そして、義理の母親、と、正室、の日蓮主義に触れた頼謙は、回心して、紀州徳川家で初めての(単なる隠れ日蓮主義者では飽き足らぬところの)日蓮宗信徒になった、のではないか、と。 

(続く)