太田述正コラム#1419(2006.9.24)
<佐藤優の「国家の罠」(その1)>
1 始めに
読者の島田さんから寄贈された二冊目の本である、佐藤優(まさる。1960年??)「国家の罠――外務省のラスプーチンと呼ばれて」(新潮社2005年3月)・・第59回毎日出版文化賞特別賞を受賞・・を読み終えたので、感想を記したいと思います。
2 佐藤優の悲劇
(1)佐藤を使いこなせなかった外務省
佐藤(敬称略)の悲劇は、優秀なノンキャリであった彼を外務省が使いこなせなかったところにあります。
佐藤は、東京生まれの埼玉育ちで、京都の同志社大学神学部と大学院で組織神学(Christian Theology)を学び、1985年に外務省に専門職員として入省し、ロシア専門の情報分析要員として、その域を超えて縦横無尽に活躍した人物です(注1)。
(注1)彼の優秀さと活躍ぶりについては、直接この本で確かめられたい。
2002年5月に鈴木宗男衆議院議員との癒着を問題にされて逮捕され、起訴されたため、彼の外務官僚としてのキャリアは国際情報局分析第1課主任分析官で事実上終わります(注2)が、彼のような、優秀で政策遂行能力もある人物は、ロシアスクール(58??59頁)のキャリアに準じる扱いをして、政策担当部局である欧州局ロシア課(かつての欧亜局ソ連課)等で次席事務官等として処遇すべきだったのです(注3)。
(注2)1995年に同課に配属される前は、彼は7年8ヶ月にわたってモスクワの日本大使館勤務だった(36頁)。
(注3)ないものねだりと言うべきだが、日本に諜報機関があれば、まさにこの機関でのロシア担当としてうってつけの人物が佐藤だと思う。
外務省も、全く彼の処遇に配慮しなかったわけではありません。
外務省は、「ロシア情報収集・分析チーム」なるプロジェクトチームを、(恐らく彼を分析第1課の枠、更には国際情報局の枠を超えて活躍できるようにするために)1998年に分析第1課内に設け(注4)、彼をチームリーダーとしていました(64頁。379??381頁)が、なまじそんな姑息な方法をとったことが、彼のルール遵守意識を一層鈍磨させたのではないでしょうか。
(注4)この「令外の官」は、小渕内閣当時に、「2000年まで・・<に>日露平和条約の締結を目指すという」背景の下、国際情報局長と欧亜局長の指揮・監督の下で、小渕首相によって、党や内閣でのポストいかんにかかわらず、対ロシア外交支援任務を事実上与えられた、こちらも令外の官たる鈴木宗男衆議院議員の「指示」をあおぎながら活動した。
(2)佐藤自身の限界
佐藤は、官僚として当然わきまえなければならない組織・会計・法令等のルール遵守意識が希薄であり、政策遂行のためにはルール違反をいとわないにもかかわらず、政策や政策の前提自体を疑う意欲や能力には欠けている、という点が彼の限界です。
政策や政策の前提は所与のものとして行動するのが官僚の努めであると言われればそのとおりなのですが、政策や政策の前提の絶対的な正しさを疑う意識がどこかにあれば、ルール違反を犯してまでして一所懸命に政策遂行にのめり込む、ということにはならなかったのではないでしょうか。
例えば、佐藤は、北方領土4島の日本への帰属を一括してロシアに認めさせてからしか平和条約は締結しない、という政府の規定方針に何の疑問も抱いていないように見えます(65頁)。
しかし、そもそも、国後とエトロフ両島の返還要求には無理があるのであって、そんな無理筋の要求を続けている限りは、ロシアと永久に合意に達することはありえない、といった認識(コラム#549等)は、佐藤には皆無なのです。
(続く)