太田述正コラム#12180(2021.8.3)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』覚書(その9)>(2021.10.26公開)
付言すれば、徳川宗将(紀州藩第7代藩主)が「日蓮宗を激しく排撃した」のは、紀州藩の藩主家に流れる日蓮主義的世界観が徳川幕府や紀州藩や西条藩に将来もたらすものを予見できたからこそだったのではないか、と、私は考えるに至っています。
また、私の言う隠れ日蓮主義者の徳川慶喜が、正室として今出川家第24代の公長の娘の美賀子を迎えた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E4%BA%AD%E5%AE%B6
こともイミシンです。
ちなみに、「当初、徳川慶喜は関白・一条忠香の娘・千代君(照姫)と婚約していたが、婚儀直前に千代君は疱瘡に罹患した。そのため<彼女が忠香の養女という形で>代役として立てられた<もの。>・・・美賀子との仲は<生涯>しっくりいかなかった慶喜であるが、美賀子の実家との仲は良好で、将軍後見職を務めていた頃には今出川家の世話になっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E7%BE%8E%E8%B3%80%E5%AD%90
ところですし、公長の実父尚季の実母は水戸藩第5代藩主の徳川宗翰<(注6)>の娘の国姫です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%87%BA%E5%B7%9D%E5%B0%9A%E5%AD%A3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E7%BF%B0
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E7%BF%B0
(注6)(宗翰(5代)-治紀(7代)-斉昭(9代)-慶喜
-国姫-尚季 -公長 -美賀子
更に更に、松平頼純(西条藩初代藩主)-徳川宗直(紀州藩6代藩主) -久姫-池田重寛(鳥取藩5代藩主)-治道(鳥取藩6代藩主)-弥姫-島津斉彬、であった(前出)ことも想起しましょう。
その上でですが、蛇足ながら、秀吉が秀次事件の際に秀次の眷属まで連座させたのは、ほんの最近まで、日本の諸家には、日蓮主義・・それにも、次回の東京オフ会「講演」原稿で明らかにするように、信長バージョンと秀吉バージョンがある・・といった、(公家の場合は家業もありますが、)家是が往々にしてあった、というか、少なくともありえた、ことを思えば、さほど無体なことではなかった、と、言えるのではないでしょうか。
9 幕末・維新期の近衛家
ここまで来て、近衛家の幕末・維新期における表舞台での活動が見られないのはどうしてか、という、以前からの私の疑問を解消しておきたい、と思い至り、少しですが、調べてみました。
弱ったのは、信じがたいことに、近衛家のウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%AE%B6
ですが、分量が少なく、歴代当主図も載せられていなかったことです。
で、とにかく、近衛基前(もとさき。1783~1820年)から出発することにしたところ、正室は尾張藩主徳川宗勝の子で高須藩の藩主となった松平義当の娘の維君で、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%9F%BA%E5%89%8D
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E7%BE%A9%E5%BD%93
この二人の子の忠煕(ただひろ。1808~1898年)は、その正室が島津斉興の実妹の興子、養子に天璋院篤姫がいるけれど、「1857年・・・、左大臣となるが将軍継嗣問題で一橋派に属し戊午の密勅のために献策したため、安政の大獄により失脚し落飾謹慎<し、>・・・1862年・・・に復帰して九条尚忠に代わり関白内覧を務めるが、翌年関白職を辞し、鷹司輔煕が後任となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%BF%A0%E7%85%95
と、忠煕が幕末・維新期に引き続き逼塞していた理由は、息子の忠房に後を任せる時期が来たと判断したためでしょう。
実際、その子の忠房(1838~1873年)は、正室光子が島津久長(注7)の娘で島津斉彬の養女であり、「1863年・・・内大臣に昇り、同年の八月十八日の政変においては父と共に薩摩藩に協力して、長州藩の勢力を京都から追放することに尽力し<、>・・・1866年・・・、第二次長州征討が勃発した際は、征討を強行する幕府と、長州藩を擁護する薩摩藩の仲介を務め<、> ・・・1867年・・・左大臣となる<も、>・・・明治6年(1873年)、父に先立って36歳で死去した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%BF%A0%E6%88%BF
と、大事な節目で何度も薩摩藩に与力して、倒幕、新政府樹立に貢献しています。
(注7)島津久長(1818~1857年)は、島津一門四家の加治木島津家当主。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E4%B9%85%E9%95%B7_(%E5%8A%A0%E6%B2%BB%E6%9C%A8%E5%AE%B6)
その子の篤麿(1863~1904年)が、「母は島津斉彬養女(島津久長の娘)・光子とされているが島津家側の資料では「光蘭夫人(光子)篤麿養母」と書かれてあり疑問である<ところ、>・・・1879年)に大学予備門に入学したが、病を得て退学を余儀なくされ<、>・・・1885年)にドイツ・フランスの両国に相次いで渡り、ボン大学・ライプツィヒ大学に学<び、>・・・帰国<後、>・・・アジア主義の盟主として活躍<することになるところ、その子が、あの>近衛文麿<で、その文麿の外孫が>細川護熙」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%AF%A4%E9%BA%BF
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E6%96%87%E9%BA%BF
というわけです。
私見では、篤麿は出来が良い、そして、文麿は出来が悪い、日蓮主義者であったけれど、とにもかくにも、近衛家は、日蓮主義の家是を、終戦まで堅持し続けた、ということになります。
10 維新後
(1)織田信長の顕彰
維新政府が行ったのは秀吉の顕彰だけではありません。
日蓮主義においても秀吉の先達であったところの、信長、の顕彰だって行っていて、その立ち上がりは秀吉に対するそれの直後の1869年であったことを忘れないうちに紹介して、このシリーズを終えることにしましょう。↓
「明治2年(1869年)になると、明治政府が織田信長を祀る神社の建立を指示した。明治3年(1870年)、信長の次男・信雄の末裔である天童藩(現在の山形県天童市)知事の織田信敏が、東京の自邸内と藩内にある舞鶴山に信長を祀る社を建立した。信長には明治天皇から建勲の神号が、社には神祇官から建織田社、後には建勳社の社号が下賜された。その後、明治年間には東京の建勲神社は、京都船岡山の山頂に移っている。大正6年(1917年)には正一位を追贈された<(注8)>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7
(注8)秀吉には大正4年(1915年)に正一位が追贈されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89
1915年(秀吉追贈)、1917年(信長追贈)は、第2次大隈内閣(1914~1916年)においてだった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC2%E6%AC%A1%E5%A4%A7%E9%9A%88%E5%86%85%E9%96%A3
が、そのキーパーソンが、大隈重信だったのか、それとも、内相(1915年1月7日~1915年7月30日)だったところの、旧薩摩藩士の大浦兼武
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B5%A6%E5%85%BC%E6%AD%A6
あたりだったのか、調べがつかなかった。
ちなみに、維新以降の日蓮主義を規定した人物であるところの、島津斉彬(1809~1858年)については、「1863年1月1日・・・、追贈従三位権中納言。・・・1863年6月27日・・・、照国大明神の神号を贈られる。明治2年11月22日(1869年12月24日)、追贈従一位。1901年(明治34年)5月16日、追贈正一位。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%96%89%E5%BD%AC
と、秀吉、信長よりも遥か前に正一位が追贈されています。
(続く)