太田述正コラム#12182(2021.8.4)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』覚書(その10)>(2021.10.27公開)

 (2)島津氏・今出川家・慶喜家・尾張徳川家・紀州徳川家・水戸徳川家

  ア 島津氏

 島津氏に関しては、維新以降は、天皇家や近衛家との一体化が進行しただけで、日蓮主義者としての活動は見られません。↓

 「29<代:>島津忠義 – 初名は「忠徳」・「茂久」。12代鹿児島藩主。斉彬の養子。島津久光の嫡男。27代斉興の孫。維新後、公爵。
  30<代:>島津忠重 – 公爵。姉は邦彦王妃俔子。香淳皇后の叔父。海軍少将。
  31<代:>島津忠秀 – 水産学者。香淳皇后の従弟。
  32<代:>島津修久 – 照国神社宮司。近衛文麿の孫にあたる。細川護煕はいとこ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%B0%8F

 これは、「島津久光・忠義親子が・・・旧習<に>・・・固執した」ためであり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%BF%A0%E9%87%8D 
忠義(1840~1897年)は、「1889年・・・2月11日の大日本帝国憲法公布の日、忠義が洋服姿でありながら髷を切らずにいたことに驚いたと、ドイツの医学者ベルツは日記に記している(ちなみに当時の首相は旧家臣の黒田清隆)。西洋文化に造詣が深かったにもかかわらず旧習に固執したのは、父・久光の方針に従ったためとされる。
 鳥羽・伏見の戦い直後に海陸軍総督に任命された際にはこれを島津幕府の第一歩のように考える者が藩内に多数いる中、西郷の進言を容れて辞退し、辞退しきれずに陸海軍務総督(3人が任命されたが茂久以外の2人は皇族と公家)にされても用事がある時以外出勤せず、伴食役たるように努めたという(久光は「幕府をなくす気はなかった」と明治以後も公言し「島津幕府を狙っていた」といわれる)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%BF%A0%E7%BE%A9
という始末でしたからね。

  イ 今出川家

 今出川家に関しては、脩季(ゆきすえ。1857~1905年)は、「実父は関白鷹司輔熙。母は一条崇子(一条忠良の娘)。叔母(実父・輔熙の妹)の美津子が今出川実順の正室であった縁から、・・・1864年・・・、今出川家(この時菊亭に改姓)を嗣ぐ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E4%BA%AD%E8%84%A9%E5%AD%A3
と、幕末期に男系が断絶し、姓も変わっていることから、やはり、日蓮主義者としての活動は見られません。

  ウ 慶喜家

 慶喜(1837~1913年)は、明治35年に「公爵受爵。徳川宗家とは別に「徳川慶喜家」の創設を許された」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E5%96%9C
ところ、その子で同家を継いだ慶久(1884~1922年)は、東大法卒で貴族院議員になっていますが、比較的若くして急死したこともあり、日蓮主義関係を含め、これといった業績はありません。
 なお、慶久の次女喜久子が高松宮妃になっています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E4%B9%85
 慶久の長女については、後述。

  エ 尾張徳川家

 尾張藩のあの徳川慶勝の養子となって家督を継いだ徳川義礼(よしあきら。讃岐高松藩主松平頼聰の次男。1863~1908年。正妻も離婚後の後妻も慶勝の女子)の養子となった徳川義親(松平春嶽の五男。1886~1976年。義礼の長女が妻)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E7%A4%BC
の、日蓮主義者としての大活躍については、(コラム#9902で)既述した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E8%A6%AA
ので省略します。
 義親の場合、生家の越前松平家(後述)と尾張徳川家の「合作品」、というべきかもしれませんが・・。
 なお、高松藩は、ご承知のように、水戸藩の双子的な藩です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E6%88%B8%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6

  オ 紀州徳川家

 紀州徳川家に関しても、維新後も、日蓮主義に資するような活動を一応は行った、と言えそうです。↓

 徳川頼倫(1872~1925年)は、「田安徳川家第8代当主・徳川慶頼の六男<で>・・・紀州徳川家第14代当主・徳川茂承の養子になり・・・養父の長女である久子と婚姻する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E9%A0%BC%E5%80%AB
 成績不振により学習院中等学科を中退したが、後にオックスフォード大に遊学、「<遊>学中に見聞した欧州貴族の文化活動に感銘を受けたことにより、帰国後は華族として日本の文化活動を積極的に推進し、東京地学協会会長、海軍協会会長、日本弘道会副会長、明治神宮奉賛会幹事などを務めている。・・・<また、>尊皇の念が強く、渋沢栄一の推挙で聖徳太子奉賛会会長を務めるなど聖徳太子の顕彰事業にも参加している。」(上掲)

(続く)