太田述正コラム#12184(2021.8.5)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』覚書(その11)>(2021.10.28公開)
カ 水戸徳川家
徳川昭武(第9代水戸藩主・徳川斉昭の十八男(庶子)で、第10代藩主・徳川慶篤、第15代将軍・徳川慶喜の異母弟<で、>・・・生母は側室・万里小路建房の六女。1853~1910年)が水戸藩第11代(最後)の藩主になったところ、彼自身は日蓮主義がらみの活動はしていません
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%98%AD%E6%AD%A6
が、その実子の武定(1888~1957年)は、父の勲功により、子爵に叙されて松戸徳川家を創設したところ、東大造船学科卒で、海軍技術将校となり、「昭和初期に帝国海軍が優秀な潜水艦を多数保有できたのは、徳川の研究成果によるところが大きいとされている<ところ、>・・・海軍士官として勤務しつつ、東京帝国大学工学部教授を、1938年(昭和13年)3月から1944年(昭和19年)10月まで兼任した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%AD%A6%E5%AE%9A
、という次第であり、その妻が徳川慶喜の長女の子であった(上掲)こととも相俟って、日蓮主義の海軍における技術面での推進に一身を捧げた、と言えるでしょう。
(3)越前松平家・浅野家
ア 王政復古クーデタ
「慶応3年12月9日、王政復古クーデターが勃発した。薩摩・土佐・広島・尾張・越前の5藩兵が会津・桑名藩兵に代わって御所を固め、小御所会議が開かれて摂関制・幕府の廃止、総裁・議定・参与の三職の新設などが宣言され、長州藩主子の官位が復旧されて藩士の入京も許可された。」(コラム#12177)に登場する諸藩の中、薩摩と尾張についての説明は既に済んでいますし、土佐藩については、「13代藩主・山内豊熈の死後、その弟の山内豊惇が跡を継ぐが、藩主在職わずか12日という短さで急死し、山内家は断絶の危機に瀕し<、>豊惇には実弟(後の16代藩主・山内豊範)がいたがまだ3歳であったため、分家で当時22歳の豊信が候補となった<が、>豊熈の妻・智鏡院(候姫)<(注9)>の実家に当たる薩摩藩島津家などが老中首座であった阿部正弘に働きかけ、豊惇は病気のため隠居したという形をとり、・・・1848年・・・12月27日、豊信が藩主に就任した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%86%85%E5%AE%B9%E5%A0%82
ということから、同藩は、幕末・維新期に薩摩藩と協調行動を取らざるを得なかった、という話を以前(コラム#9902で)したので、ここでは端折ります。
(注9)候姫(こうひめ。1815~1880年)は、島津斉彬(1809~1858年)の江戸で一緒に育った同母妹で、「母・弥姫譲りの才能があり、豊熈に嫁いでからは、土佐藩の家臣から「賢夫人」と母同様に称された」ところ、そもそも、「豊熈<と>・・・の婚儀は徳川家斉の息女を御守殿として押しつけられかけた山内家が島津家に泣きついて急にまとまった婚儀だったとい<われ、>この後、この件を根に持った幕府に山内家は過大な負担を強いられ窮乏し、老中水野忠成に賄賂を送ってようやく回避した。・・・
江戸高輪の島津江戸屋敷にて誕生し<、>・・・一度も土佐の地を踏むことはなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%99%E5%A7%AB
そこで、残るのは、越前松平家と広島浅野家です。
イ 越前松平家
松平慶永(春嶽。1828~1890年)は、越前藩(福井藩)の第14代藩主(結城秀康から数えれば第16代ないし17代)ですが、第8代以降は、秀康の子孫ではない
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E4%BA%95%E8%97%A9
ものの、私は、春嶽は秀康の強い影響を自ら受けている、と、見ています。
そこで、話を秀康から始めますが、そうなると、ここでも、秀康の実母が問題になってきます。↓
長勝院(1548~1619年)は、「三河国知鯉鮒明神の社人・永見貞英の娘として誕生する。・・・
はじめ徳川家康の正室・築山殿の奥女中で、家康の手付となり、於義伊(のちの結城秀康)を産んだとされるが、家康が永見氏を臣従させたときに万を仕えさせることを約束させ、元亀三年に浜松城に仕え、於義伊を産んだともされる。
⇒この前の方の説を覚えておいてください。(太田)
この時、双子であったといわれ、俗に永見貞愛がもう一人にあたるという。知立神社には、万が貞愛の容体を心配して送った手紙が残されている。当時、双子は「犬畜生と同じ双子腹」と忌み嫌われていた[要出典]<(注10)>ため、貞愛は万の実家・永見家に預けられ、於義伊も家康に嫌われ2歳(または3歳)の時に初めて家康と対面した。
(注10)[要出典]マークが付いているが、確かに、ネット上では、「双子は不吉だとみなす民族と,歓迎すべきものとする民族がある。不吉とされる理由は,一度に複数の子どもが生まれるのは動物と同じだから(日本では畜生腹といわれた)」
https://kotobank.jp/word/%E7%95%9C%E7%94%9F%E8%85%B9-565580
くらいしか、典拠を見つけられなかった。
・・・1584年・・・、11歳の於義丸が豊臣秀吉の養子となり、のちに元服し秀康と改名した。秀康は結城晴朝の養女・江戸鶴子と結婚し、婿養子として結城氏を継いだ。関ヶ原の戦い後は秀康が北ノ庄城の城主となったため、万もこれに同行する。・・・
⇒秀康が実母と共に任地で暮らした、ということも覚えておいてください。
於義丸を産む前に築山殿の嫉妬に遭い、寒い夜、全裸にされて庭の木にくくりつけられた。これを見つけた家康の家臣・本多重次によって保護され、於義伊を産んだという。
お万の方と呼ばれていて、陰部が余りにも綺麗だったことから派生語としてまんこという女性器を示す言葉が生まれたと言われている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%8B%9D%E9%99%A2
(続く)