太田述正コラム#12186(2021.8.6)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』覚書(その12)>(2021.10.29公開)
次に、秀康本人についてです。
結城秀康(1574~1607年)は、「・・・1579年、武田勝頼との内通疑惑から織田信長の命令により、兄・信康が切腹させられる(近年では信康が家康と対立したために切腹させられた、ともされる)。このため、次男である秀康は本来ならば徳川氏の後継者となるはずであった。しかし、・・・1584年・・・の小牧・長久手の戦いの後、家康と羽柴秀吉が和睦の条件として、秀康は秀吉のもとへ養子(実際は人質)として差し出され、家康の後継者は異母弟の長松(後の徳川秀忠)とされた。<但し、>母親の身分は秀忠の方が上<(注11)>であり、信康切腹前に生まれた秀忠が当初から後継者だったと考えられる。・・・
1589年・・・、秀吉に実子の鶴松が誕生すると、・・・1590年・・・秀康は関東に下り黒田孝高の取り成しで結城晴朝の姪と婚姻して結城氏の家督および結城領11万1,000石を継<がされた。>・・・
関ヶ原の後、秀康は家康より下総結城10万1,000石から越前北庄68万石に加増移封された。・・・
1604年・・・には松平氏に復することも赦されているとする史料も存在する。・・・
⇒秀康は、松平氏に復した可能性が高いわけですが、その際に、秀康という名前の「秀」を落とす改名をしなかった、ということも覚えておいてください。(太田)
越前松平家は御三家などの序列とは別格の制外の家とされた。この特例は、秀忠の兄として遇された秀康1代限りのものとされたが、各藩は越前松平家を徳川将軍家の兄の家系であるという意識は持っていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E5%9F%8E%E7%A7%80%E5%BA%B7
(注11)「母は側室の西郷局<(お愛の方)>。母の実家・三河西郷氏は土岐氏一族で、室町初期には三河守護代を務めたこともある名家であり、当時も三河国の有力な国人であった。・・・同母弟に関ヶ原の戦いで活躍した松平忠吉がいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%A7%80%E5%BF%A0
この三河西郷氏は、「会津藩・・・では家老をつとめ、幕末に西郷頼母を出した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E6%B0%8F
さて、いよいよ、春嶽についてです。↓
松平春嶽(1828~1890年)もまた、秀康の子孫ではありませんが、「田安徳川家3代当主・徳川斉匡の八男<だったが、>・・・1838年・・・7月27日に越前福井藩主・松平斉善が若年で突然死去した<が、>跡継ぎがいないことから、福井藩先々代藩主・松平斉承の正室・松栄院(浅姫・徳川家慶異母妹)や第12代将軍で斉善の兄の徳川家慶の計らいにより、9月4日付で急遽松平錦之丞が養子とされ<、>・・・わずか11歳で福井藩主とな<り、やがて、>・・・英邁な藩主で、幕末四賢侯の一人と謳われ<ることになる>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%98%A5%E5%B6%BD
という人物ですが、その実母の青松院(1796~1871年)は、「田安徳川家当主徳川斉匡の側室。松平春嶽、徳川慶臧・・・(尾張藩13代藩主)・・・、至姫、筆姫(鍋島直正室)の生母。閑院宮家司木村大進政辰の娘で、実名はれゐ(連以)<であるところ、>春嶽が切望して、実家の田安家から養子先の越前松平家に迎え入れた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%9D%BE%E9%99%A2
人物です。
ちなみに、春嶽の父の徳川斉匡の正室は、正室:閑院宮美仁親王の娘・裕宮貞子女王です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E5%8C%A1
春嶽は、越前松平家の祖である秀康が、徳川宗家を継ぐ可能性もあったこと、その秀康が少青年期の多感な6年間を秀吉家で秀吉の養子として過ごしたこと、この時与えられた「秀」入りの名前を生涯維持したこと、を通じ、秀吉が日蓮主義を遂行しようとしたこと、及びその意義を理解し、自分も日蓮主義遂行に資する人生を歩もうと決意した、と、想像しています。
だからこそ、(比較的格の低い家出身の実母、という点で共通していたところの、)秀康、に倣って、自分の実母を任地に呼び寄せたのではないか、とも。
その春嶽が、橋本佐内(1834~1859年)を登用したのも、佐内が、優秀な人物であったことに加えて、日蓮宗信徒(注12)で日蓮主義者だったからでしょう。
(注12)墓所は、現在の福井市の善慶寺(顕本法華宗)。「家系は足利氏の連枝・桃井氏の後胤。・・・水戸藩の藤田東湖、薩摩藩の西郷吉之助、小浜藩の梅田雲浜、熊本藩の横井小楠らと交流する。・・・英明の将軍の下、雄藩連合での幕藩体制を取った上で、積極的に西欧の先進技術の導入・対外貿易を行うことを構想した。またロシアとの同盟を提唱し、帝国主義と地政学の観点から日本の安全保障を弁じた先覚者でもあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E6%9C%AC%E5%B7%A6%E5%86%85
「注12」で紹介されている戦略方針は、佐内が小楠から聞いた小楠の戦略方針(コラム#省略)における「英国」を「ロシア」に置き換えたもので、春嶽との合作でしょうが、この置き換えはいかがなものかと思うけれど、小楠とは違って、春嶽/佐内は、欧米ランドパワー(露仏独)と組んで欧米シーパワー(英米)をアジアから駆逐した後、欧米ランドパワーをも駆逐する、というものだったはずです。
どうやら、この戦略方針を将軍になった慶喜が採用し、フランスに接近したり、弟の昭武をフランスに送ったりした、ということのようですね。
ちなみに、佐内の実弟の橋本綱常(1845~1909年)は、「兄橋本左内が藩医を辞して越前藩御書院番に任ぜられたことにより、代々藩医を家職とした橋本家は末弟の綱常が継<ぎ、ドイツに留学、>・・・<その後、>1883年・・・、陸軍卿大山巌の随員として欧州に渡り、万国赤十字条約加盟のために奔走した。明治18年(1885年)、軍医総監、陸軍省医務局長となる。明治20年(1887年)、日本赤十字社病院の初代院長となる。後に医務局長は辞したが、病院長職は生涯その任を離れなかった。・・・男爵を授爵し華族とな<り、更に子爵となる>。また、院長職にある間、東京大学教授を兼任」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E6%9C%AC%E7%B6%B1%E5%B8%B8
と、医学の側面から、春嶽/佐内の日蓮主義の遂行に一身を捧げる生涯を送っています。
(続く)