太田述正コラム#12188(2021.8.7)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』覚書(その13)>(2021.10.30公開)

  ウ 広島浅野家

 「第11代藩主・長訓<(ながみち)>(重晟の孫)は先代からの藩政改革を受け継ぎ、・・・藩政機構・支配体系の中央集権化を図り、財政を強化し軍備を近代化し、成功をみた。長州征討で広島は最前線基地となり、戦争景気に湧いた。しかし長州征伐そのものには否定的であり、幕府と長州藩の仲介を務める一方で、幕府が命じた長征の先鋒役を辞退している。
 ・・・1866年・・・に第14代将軍・徳川家茂が死去し、第2次長征が事実上幕府軍の敗退に終わると、広島藩は次第に長州藩の影響を受けるようになり、慶応3年(1867年)には長州藩・薩摩藩と同盟を結び、倒幕に踏み切った。一方で、第15代将軍・徳川慶喜に大政奉還の建白を行うなどしたため、日和見藩として不信を招き、明治維新の主流からは外された形となった。しかし戊辰戦争では官軍に参加して戦った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E8%97%A9

 しかし、長訓の先代の第10代藩主浅野慶熾(よしてる。1836~1858年)の正室の利姫が[徳川斉彊<(注13)(コラム#9902)>の養女、徳川斉荘<(注14)>の次女」であったこと、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E6%85%B6%E7%86%BE
第8代藩主浅野斉賢の母親が徳川宗勝<(注15)>の9女・陽姫で、正室が有栖川宮織仁親王第一王女であったこと、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E6%96%89%E8%B3%A2
くらいしか、日蓮主義との接点は見出せなかったので、一旦、広島藩と日蓮主義との関係追究を諦めかけました。

 (注13)紀州藩12代藩主。正室が近衛忠熙の娘・豊子。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E5%BD%8A
 (注14)「徳川家斉の十二男<。>・・・田安徳川家4代当主、・・・1839年・・・に尾張徳川家12代当主」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E8%8D%98
 (注15)「尾張徳川家の尾張藩第8代藩主。御連枝川田久保松平家第2代当主、高須藩四谷松平家の第3代藩主でもあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E5%8B%9D

 ところが、第5代藩主浅野吉長のウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E5%90%89%E9%95%B7
に、「浅野吉長は、豊臣秀吉正妻(北政所)高台院の妹である長生院の子孫であり、また祖母(九条道房女)を通じて秀吉の姉日秀尼の子孫である。つまり、秀吉と高台院の傍系の血統である。また吉長は、徳川家康と前田利家の血統も受け継いでいる(母の貴姫が尾張藩2代藩主徳川光友の娘、曾祖母の満姫が前田利常の娘で前田利家の孫かつ徳川秀忠の外孫、曽祖父浅野光晟が徳川家康の外孫)。特に家康の血は3つの流れを受け継いでいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E5%90%89%E9%95%B7
とあるではありませんか。
 「高台院の妹である長生院の子孫」の方は、杉原家出身の高台院が浅野長勝の養女、長生院はこの長勝の実娘(別の家からの養女の可能性もあり)で長勝の甥の浅野長政に嫁して広島藩初代の長晟を生んだ、という関係であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E9%95%B7%E6%94%BF
日蓮宗ないし日蓮主義との関係は殆どないのに対し、浅野家が、「祖母(九条道房女)を通じて秀吉の姉日秀尼・・日蓮宗信徒で同宗の尼僧になった・・の子孫」になったことの方には注目すべきでしょう。↓

 |-日秀-秀次 九条幸家-|-・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・貞明皇后-昭和天皇
 |   -秀勝-| |-道房-愛姫—–|
 |      |-完子—–|       |-綱長–吉長–・・・・・慶熾
 |    江—|      |  -浅野綱晟-|(4代)(5代)      (10代)
 |-秀吉 |-娘(注16)(広島藩3代)

 (注16)「完子<(さだこ)>の末娘が日秀の生前からの願いにより瑞龍寺を継い<で>・・・いる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%A7%80%E5%B0%BC
 「日秀・・・は処刑された子や孫の菩提を弔うために出家し、・・・日蓮宗による寺院を建てようとしたところ、・・・1596年・・・、話を聞いた後陽成天皇より嵯峨の村雲(現・二尊院の北側)の寺地と「瑞龍寺」の寺号・寺領1000石・菊紋・紫衣を賜って創建された。これにより瑞龍寺は日蓮宗寺院で唯一の門跡寺院及び勅願所となり別名を村雲御所と称して、以後、代々皇女や公家の娘を貫首として迎えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9E%E9%BE%8D%E5%AF%BA_(%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%B8%82)

 しかも、上述したように、吉長は、日蓮主義家たる尾張徳川家の光友の娘が実母なのですからね。
 すなわち、浅野家において、隠れ日蓮主義的家風が形成され、受け継がれていった可能性が大です。

(続く)