太田述正コラム#1424(2006.9.28)
<佐藤優の「自壊する帝国」>
1 始めに
三冊目の本、佐藤優「自壊する帝国」(新潮社2006年5月)は、題名からソ連の崩壊過程を、佐藤の現場体験を生かしつつも、客観的かつ時系列的に描いたものであろうと思い、期待を持ってこの本を読みました。
しかし残念ながら、この本は、佐藤の私小説的ノンフィクションであり、私の期待は裏切られました(注1)。
(注1)ソ連という国のしくみやスラブ人の精神構造に疎い人には、この私小説的ノンフィクションは面白いかもしれないが、幸か不幸か、ソ連という国のしくみを防衛官僚であった私は熟知しているし、スラブ人の精神構造についても、青年時代にロシア文学をかじった人にとっては目新しい話はほとんど出てこない。
そこで、寄贈された3冊中、2冊については読後感を力任せにコラムに仕立て上げてきたけれど、この本を取り上げるのは止めようかと一旦は思いました。
しかし、「国家の罠」とこの「自壊する帝国」(既に2回にわたってご紹介)に佐藤の八面六臂の活躍ぶりが随所に出てくる(注2)ところ、そんな活躍が外務省に入り立てのモスクワ勤務のノンキャリの若者にどうして可能であったのか、について、「国家の罠」を読んだ時点で私が立てた仮説が、「自壊する帝国」を読んで裏付けられたような気がするので、それをご説明するのもまんざら無意味ではない、と思い直しました。
(注2)一つだけ例を挙げておこう。1992年にリトアニア政府は、リトアニア独立に貢献した外国人64名に対し、叙勲したが、その中にエリツィン・ロシア大統領らと並んで佐藤が入った(298??299頁)。
結論を先に申し上げると、佐藤の活躍は、彼が優秀な人物であったことはもちろんですが、日本に外交戦略がないこと(=日本に「外交」はあっても外交はないこと)、そして、佐藤が欧州的知識人であったこと(=佐藤は欧州の知識人に求められる教養を身につけていたのにソ連ではそんな人は少なかったこと)、の賜でもあると私は考えています。
2 日本に外交戦略がないこと
日本は経済大国であって、かつ米国の、軍隊も諜報機関も持たない保護国である、というユニークな存在です。
つまり、米国の保護国なるがゆえに、日本は外交戦略を持たず(注3)、諜報工作も行わないけれど、カネに不自由はしていません。
(注3)日本にいかに外交戦略がないかは、この414頁の大部な本の中に、日本の外交戦略らしきものの記述は、「95年に・・日本に帰国した・・後も、私はモスクワを頻繁に訪れ・・ロシア内政に関する情報収集と北方領土問題に関してロシアの政治エリートを日本寄りにするロビー活動に熱中していた」(311??312頁)という、一箇所だけしかないことが如実に物語っている。
ですから、佐藤ら在モスクワの日本の外交官は、日本に比べてはるかに貧しいソ連(ロシア)において、情報をとりたい相手を、金に糸目を付けずに高級レストランやバーで接待したり小型レコーダー等の小物の物品を与えたりして籠絡し、その見返りとして、(諜報工作を行うような国ではないことから)日本に対する警戒心を持たないその相手から、比較的容易に情報の提供を受ける(284頁等)ことができたのです。(このようにして提供を受けた情報は、更に、別の相手から情報をとる際にその相手に対する見返りとして用いられた。)
もとより、日本政府に外交戦略がなく、従ってリスクを冒そうとしないことから、ソ連の反体制派のロイ・メドベージェフらとの接触は米英に比べて著しく遅れます(186??187頁)が、ソ連崩壊前後に、米英は、もっぱら反共産党勢力やバルト諸国の独立派と接触し、彼らを支援した(156??157頁)のに対し、日本は共産党ないしソ連維持派等の守旧派とも接触を保ち、結果としてこの激動期にバランスのとれた情報収集ができた(392頁)だけでなく、ソ連崩壊後ロシアで野党として活動を続けたこれら守旧派ともしばらくの間良好な関係を維持できた(376??378頁)という面もありました(注4)。
(注4)佐藤が前述の勲章を与えられたのは、彼が、リトアニアのソ連維持派から得た、独立派を武力攻撃することはない、という情報を、巧まずして使者となって独立派に伝えた(296??298頁)功績による。
これは、日本に外交戦略なきがゆえの怪我の功名と言えるでしょう。
3 佐藤が欧州的知識人であったこと
しかし、以上は、当時の在モスクワ日本大使館員全員にあてはまることです。
その中でどうして、佐藤に「三党書記官なのに、大使館幹部級の人脈をもっている」という評判が立った(163頁)のでしょうか。
それは、佐藤が欧州的知識人であったからです。
欧州的知識人とは、合理論哲学・・公理を措定し、そこから結論を論理的に導き出す知的営み・・を身につけた人物ということです。
佐藤の場合は、合理論哲学の原型であるキリスト教神学を身につけていました(注5)。
(注5)佐藤は、「この学問は、まず、正しい結論があって、その結論に向かって議論を組み立てていくというものだ。だから、真理を探求していく一般の学問とは性質がかなり異なる」と言っている(20頁)が、これでは佐藤はソフィストだということになってしまう。校正ミスだと思いたい。
そういう人物なら、西欧諸国からソ連に派遣されてきていた外交官やジャーナリスト等の中にいくらでもいたはずだと思われるかもしれません。
いやいや、今時の西欧で、キリスト教神学くずれの神抜きの合理論哲学を身につけている人はいても、佐藤のように敬虔なクリスチャン(プロテスタント)(394頁)でかつキリスト教神学をきちんと身につけている人は少ないのではないでしょうか。
共産主義が権威を失墜していた崩壊前後のソ連において、ソ連(ロシア)の知識人の多くは、ロシア正教を手がかりにして新しいイデオロギーを構築すべく模索していました(258頁等随所)。
しかし、ソ連では無神論の共産党の下で宗教が弾圧されてきたために、キリスト教神学の研究者が払底していました(266頁)。
だからこそ、彼らは佐藤からキリスト教の話を聞きたがった(266頁)わけですし、ソ連崩壊後には、何と佐藤にモスクワ大学に新設された宗教史宗教哲学科の講師を委嘱する(42頁)のです(注6)。
(注6)欧州の外縁に位置するソ連(ロシア)の知識人は、西欧に対してコンプレックスを抱いている。だから、キリスト教神学について、西欧人から教わるのは潔しとしない、ということもあったに違いない。
まさに、佐藤は、千載一遇の機会に在モスクワ日本大使館に勤務していた、ということです。
ソ連(ロシア)で佐藤の人脈が加速度的に増えて行ったのはこういうわけなのです(注7)。
(注7)そんな佐藤が、仮にアングロサクソン系の国に赴任していたとしても、人脈は形成されず、従って情報もとれなかったろう。合理論哲学にせよ、その原型であるキリスト教神学にしても、そんなものを身につけていても何の評価もされないからだ。実際、佐藤がロシア語研修生として1年間過ごした英国で、彼は一人のイギリス人とも親しくなっていない。