太田述正コラム#12198(2021.8.12)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』覚書(その18)>(2021.11.4公開)
貞明皇后と秩父宮に対する昭和天皇の緊張した関係性が透けて見えるのが、下掲の挿話です。↓
「1951(昭和26)年5月、貞明皇后が大宮御所で急死した。モンペをはいて、奉仕団の人々への挨拶に出たところだったという。享年66歳、死因は狭心症だった。知らせを受けて、高松宮や三笠宮ら、療養中の秩父宮を除く兄弟はすぐに駆けつけたが、昭和天皇は・・・かなり遅れて到着したもようである。・・・
1953(昭和28)年1月には、秩父宮も亡くなった。享年50歳。1940(昭和15)年に肺結核と診断され、翌年より静岡県御殿場で療養生活を送っていたが、死の前年には神奈川県藤沢市の鵠沼別邸に移っていた。秩父宮は、亡くなる前に、自身の病理解剖と無宗教の葬儀と火葬を望んだ。いずれも皇族の死において前例のないことだったが、天皇は承諾した。兄は、発病から13年間、一度も弟を見舞うことはなかった。」
https://webronza.asahi.com/culture/articles/2019043000002.html
それに対し、「1986年(昭和61年)に<高松宮>が末期の肺癌に侵されたときは、昭和天皇は3度にわたって親ら親王のもとへ渡御し、見舞っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9D%BE%E5%AE%AE%E5%AE%A3%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
秩父宮の無宗教での葬儀は、彼が、日蓮宗信徒ならぬ、徹底した日蓮主義者であったことを示唆しています。
ついでに、高松宮についてです。
「1920年(大正9年)4月、学習院中等科三年退学、海軍兵学校予科入学。無試験で入学できる皇族子弟は他の生徒より知的・体力的に劣らざるを得なかった。・・・
昭和天皇は高松宮に関し「政府当局の意見よりも周りの同年輩の者や出入りする者の意見に流されやすく、日独同盟締結以来戦争を謳歌していたが、東條内閣成立後は開戦に反対し、その後海軍の意見に従い、開戦後は悲観的で陸軍に対する反感を持っていた」と捉えて」います(上掲)が、この昭和天皇の口吻からも窺えるように、秩父宮ほど優秀ではなかったらしいこの高松宮には、貞明皇后はさしたる思い入れはなかったのではないでしょうか。
「大正天皇<・・すなわち貞明皇后(太田)・・>は、幟仁、熾仁、威仁三親王の幕末以降の功労に鑑み、威仁親王薨去の翌日(10日まで喪が秘されたため、公には「御重体」のまま)である7月6日に特旨をもって当時8歳だった第三皇子の宣仁親王に高松宮の号を与え、有栖川宮の祭祀を将来的に宣仁親王に受け継がせることと<し、>・・・有栖川宮威仁親王や徳川慶喜の孫にあたる徳川喜久子と<結婚させている>」(上掲)ところ、同皇后は高松宮に日蓮主義教育は施さなかったのではないでしょうか。
ところで、「1941年・・・11月20日<頃、>・・・保科善四郎(海軍省兵備局長)に日本軍の実情を聞き、燃料不足を理由に長兄・昭和天皇に対し開戦慎重論を言上する。昭和天皇は当初宣仁親王を主戦論者と見ていた為衝撃を受け、総理兼陸軍大臣・東條英機、軍令部総長・永野修身、海軍大臣・嶋田繁太郎を急遽呼んで事情を聞いた・・・<上で、>11月30日、<昭和天皇は、高松宮と>・・・開戦について意見を交わした。その際、統帥部の予測として「五分五分の引き分け、良くて六分四分の辛勝」と伝えた上で、敗戦を懸念する昭和天皇に対し、翌日に海軍が戦闘展開する前に戦争を抑え、開戦を中止するよう訴えた。だが昭和天皇は、政府・統帥部の意見を無視した場合、クーデターが発生してより制御困難な戦争へ突入すると考えており、宣仁親王の意見を聞き入れることはできなかった」(上掲)という挿話、等から分かることは、(外務省や海軍等も欺かなければならないことから、ある意味当然ながら、)杉山元は、昭和天皇にすら杉山構想・・この時点について言えばその最終目標・・を伝えていなかった、ということです。
(保科局長も高松宮も、日本が燃料確保のために対英米開戦をして真っ先に南方作戦を敢行し燃料を確保しようとしていることを知らされていなかったため、高松宮は見当違いの問題提起を昭和天皇に行ったところ、天皇は南方作戦の最中に燃料不足に陥らないかどうかを念のために軍部に確認したのでしょうし、改めての場での昭和天皇と高松宮とのやりとりにおいては対英米戦そのものの帰趨に関するものであり、話がこんぐらかってしまっています。)
では、果して、杉山元以下の帝国陸軍首脳部は、彼らの独断だけで、杉山構想を遂行していったのでしょうか?
本当にそんなことができたのでしょうか?
もっと前から、私は、この疑問を自分自身に突きつけるべきでした。
大正天皇が1918年末から体調を崩し始めたことを受けて、(後の)昭和天皇が1921年11月25日に摂政になっていますが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E5%A4%A9%E7%9A%87
同じ年に、その前に、「宮中某重大事件の影響で中村雄次郎宮相が辞任すると元老の松方正義が後継選択を行い、2月19日に親任式が行われ牧野が宮内大臣に就任する」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E9%87%8E%E4%BC%B8%E9%A1%95
という出来事があったところ、「大正10年<(1921年)>3月、丸の内の中央気象台跡に社会教育研究所<が設立され、>」その運営に牧野が深く関与した(コラム#10427)ことからすると、それ以前から、貞明皇后の方から牧野にアプローチがあり、それを受けて密かに同研究所の設立に向けて動き出していた牧野を、同研究所設立の目途が立った時点で、同皇后が、牧野を指名し、彼を表に出して宮内大臣に就任させたのではないでしょうか。
その社会教育研究所設立の目的は、牧野が公然と陸海軍の若手俊衆達を講師や学生として身近に集めて、彼らに対して日蓮主義を浸透・普及させるのと並行して、陸海軍の軍人で日蓮主義完遂を託せる人物を物色するためだったと思われるのであって、牧野が最終的に白羽の矢を立てたのが、国連連盟空軍代表随員としてのジュネーブ勤務から帰国したばかりの杉山元だった、ということではないでしょうか。
(続く)