太田述正コラム#12200(2021.8.13)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』覚書(その19)>(2021.11.5公開)
その杉山は、翌1922年に陸軍省軍務局航空課の初代課長に就任し、更にその翌1923年8月に、陸軍省の当時の中枢課である軍務局軍事課の課長に就任します
https://note.com/songtenor0506/n/nf7912f664c13
が、これは、牧野が、貞明皇后の意向として、時の陸軍次官あたりに、代々の申し継ぎ事項として、杉山を陸軍の階級ごとの最重要ポストで処遇し続けることを、事実上命じたことを受けたものだったのではないか、とも。
そしてその後、杉山が日蓮主義完遂計画の策定に成功し、かつまた、杉山⇔牧野⇔貞明皇后、という伝達ルートが確立したことから、牧野は社会教育研究所を閉じた上で、1925年3月に内大臣に転じ、更に1935年12月には官を辞しますが、それ以降も、後任である湯浅倉平内大臣は牧野自身が選んだ人物だったこともあり、牧野は自由に宮中に出入りすることができたはずで、上述ルートは杉山が自裁する1945年9月まで生き続けた、と、私は想像しています。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E9%87%8E%E4%BC%B8%E9%A1%95
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83 も参照した。)
すなわち、このような次第で、貞明皇后のお墨付きの下、杉山が事実上率い続けることとなった帝国陸軍が、日蓮主義の完遂を目指しつつ、一体何を追求しているのか、また、その進捗状況がどうなっているのか、を、貞明皇后は、頻繁かつ詳細に、牧野を通じて杉山から聞かされていて<(注21)>、その都度杉山に対して助言を与えたり了解を与えていたりしたからこそ、「日米開戦して戦況が著しく不利となったのちも、彼女の意気は「ドンナニ人ガ死ンデモ最後マデ生キテ神様ニ祈ル心デアル」と、悲愴にして軒昂であった」(前出)のでしょうし、「四五年六月、終戦の方針を立てた昭和天皇は貞明皇太后の説得に臨んだ。実母と会う前には緊張感から嘔吐し、面会後はまる一日寝込んだ。」(前出)とはいえ、日蓮主義がほぼ完遂されたことを知っていて安堵していたのでしょう、貞明皇后が昭和天皇の終戦方針に反対した形跡はありませんし、終戦直前に「香椎宮と宇佐神宮に勅使を派遣」させたのもむべなるかなですし、「敗戦を「運命として受け入れた」のちの彼女が「まるで憑きものが落ちたかのごとく」その戦闘性、原理性を捨て<た>」
http://gunzo.kodansha.co.jp/39016/39848.html
のもまた当たり前だ、ということになります。
(注21)「大正天皇の崩御後、皇太后は日課の如く、朝食を終えると大正天皇の遺影を安置した御霊殿に向かい、その日の出来事や新聞のニュースなどを「生ける人に仕えるよう」に語られ、退出する時間はいつも午前11時半を回っていたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E6%98%8E%E7%9A%87%E5%90%8E
この時間↑を設けた目的は、その時間帯に、いつでも密かに上述ルートの牧野ないしその使者と会えるようにするためではなかったか。
なお、帝国陸軍の上層部が、海軍とは違って、(非日蓮主義者たる識者、つまりは一般の識者、の目から見れば日本が非合理極まる破滅に至る道を突き進んでいたというのに、)終戦という最後の最後に至るまで一枚岩であり続けることができたのは、単に杉山らの陸軍内の指揮命令関係や序列の高さや人徳のおかげなのではなく、彼らが、杉山らから、自分達が、例えば、(必ずしも貞明皇太后(以下「貞明皇后」という)とは特定せず、)「お上」の指揮の下で日蓮主義の完遂を目指している、と聞かされていたのだとすれば理解できようというものです。
付言しますが、「象徴天皇制というのは戦後 GHQ に押し付けられたような、確かにそういう一面もあるが、実は幕末以前に長い伝統がある。これについては、貞明皇后が、そんなに騒ぐなと、明治前の時代に戻るだけだからとおっしゃって。九条家出身で、さすが摂関家出身の女性でやっぱりわきまえておられたところがある。」
https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/taii_tokurei/dai3/gijiroku.pdf
という有名な話があります。
もちろん、象徴天皇制の復活・維持は確保した上で降伏せよ、と、貞明皇后が下命すると共に、同皇后は、昭和天皇に杉山構想を伝えないこととし、そのうちの陸軍の軍政マターはもとより陸軍の軍令マターに関しても、昭和天皇を完全に蚊帳の外に置けと指示し、杉山以下の陸軍首脳がかかる指示を厳守し、おかげで明治憲法に違背しつつ陸軍の軍令に関してさえも日本は戦前に既に象徴天皇制・・天皇無答責制・・になっていた<(注22)>ところ、海軍の軍令についてもそうなることで、戦後、完全な象徴天皇制になった、と思われるわけです。
(注22)「そういう言葉<・・戦争責任・・>のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます。」(1975.10.31記者会見での昭和天皇発言)
http://web.sfc.keio.ac.jp/~gaou/cgi-bin/mondou/html/036386.html
を想起せよ。
その前後の受け答えとはトーンが全くことなり、昭和天皇は露骨に逃げているが、これは、マッカーサーや田中らに戦争責任を認めてきた経緯があることから自らの戦争責任を否定するわけにはいかず、さりとて戦争責任を認めると、相手が外信の記者である(上掲)だけに、それは道義的責任か法的責任かと畳みかけてこない保証がなく、その場合、答えに窮するからだろう。
(「田中清玄が・・・敗戦後間もない1945年(昭和20年)12月21日、宮内省(のちの一時期宮内府、現在の宮内庁)から特別に招かれた昭和天皇との直接会見時の最後に、「他になにか申したいことがあるか?」と聞かれ、田中は「昭和16年12月8日の開戦には、陛下は反対でいらっしゃった。どうしてあれをお止めになれなかったのですか?」と問い質した。それに対して昭和天皇は<しれっと>「私は立憲君主であって、専制君主ではない。臣下が決議したことを拒むことはできない。憲法の規定もそうだ」と<嘘の>回答」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87
をしたけれど、田中は追及していない。)
貞明皇后自身は、日蓮主義/杉山構想のほぼ完遂後の天皇制の引き続きの存続にさほど思い入れなどなかったけれど、昭和天皇はそれを強く望んでいたからこそ、その存続を危殆に頻せしめること必至の(貞明皇后らの)日蓮主義を忌避し続けた、と、私は想像しており、ああそうなの、それならば、天皇制は取敢えずは維持させてあげるようにするけれど、本当に維持し続けることができるかどうか、お手並みを草葉の陰から拝見させてもらうよ、というのが、貞明皇后の気持ちだったのではないでしょうか。
(続く)