太田述正コラム#1426(2006.9.30)
<タイのクーデター(その3)>

 (息子が中学受験をひかえていることから、本日、某大学附属中学の学校説明会に行ってきたのですが、教職員の皆さんのこの学校への熱い思いのほどがよく分かりました。ここは小・中・高一貫校であり、私は高校受験をひかえていた43年前の中3の時、同じキャンパスの中にある高校に願書をもらいに行ったことがあります。その折、用務員のおじさんに、「この学校はいい学校だよ。頑張ってぜひ入りなさい」と言われたことを思い出しました。結局私は別の学校を一校だけ受験することにし、この学校は受験しませんでしたが・・。)

 15年ぶりのクーデターだというが、タイではそれまでもクーデターは何回も起こっており、その都度プミポン国王は、クーデターを追認してきたのではないか、それなのにどうして今回、ことさら国王の追認姿勢を批判するのか、と疑問を抱く方もあるかもしれませんね。
 私が批判するのは、国王が現在78歳という高齢であり、そう遠くない将来、ワチラロンコーン(Maha Vajiralongkorn。1952年??)皇太子への王位継承が起こることが必至だからです。
 王位継承がなぜ問題かと言うと、この皇太子がタイ国民の間で非常に評判が悪いからです。
 評判が悪い理由は三つあります。
 第一に、彼が冷たく親しみを感じさせない人柄であること、第二に、軍歴が長く、前回のクーデター後の軍政の過程でバンコック市民の血が多数流されたこともあり、軍部とともに彼自身もタイ国民の反感の対象になったこと、そして、第三に、皇太子をめぐる女性関係の乱れ、です(注4)。

 (注4)皇太子は、私が「留学」した英国防省の大学校(Royal College of Defence Studies)の二年後輩にあたる。

 第三の点ですが、皇太子は、初婚の相手は母方の従姉妹たる貴族であったところ、女の子を1人設けただけで離婚し、次には平民の女性と内縁関係を結び、4男1女を設けます。しかし、この女性のタイ空軍大将との不倫により内縁関係は破綻し、4人の男の子は全員王族籍を剥奪されます(注5)。その後、皇太子は別の平民の女性と結婚するのですが、その事実は伏せられ、2005年に、男の子が生誕するに至ってようやく公表される、という乱れっぷりです(注6)。
 (以上、http://en.wikipedia.org/wiki/Maha_Vajiralongkorn
及び
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%81%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B3
(いずれも9月26日アクセス)。

 (注5)皇太子には男子の兄弟はおらず、また、このように長期にわたって王孫たる正嫡の男子が産まれなかったため、この間にタイの法律が改正され、タイの現王朝には女性が王位に就いた前例がなかったにもかかわらず、現在では女性が王位を継承することが可能になっている。ただし、女系継承は依然認められていない。
 (注6)皇太子は、何かと言えば、その妹のシリンドロン(Maha Chakri Sirindhorn。1955年??)王女と比較される。シリンドロンは、英仏支三カ国語を自在に操り、トランペットやタイの伝統諸楽器の名手であって発達教育学の博士号を持ち、士官学校の歴史の教官もしている。また、技術や情報技術にも造詣が深く、それらの振興にも力を入れている。なお、彼女は独身。(
http://en.wikipedia.org/wiki/Maha_Chakri_Sirindhorn
。9月29日アクセス)

 ですから、現プミポン国王とちがって、王位継承後にワチラロンコーンが政治に介入するようなことがあり、しかもそれが軍がらみの動きであれば、タイ国民が承伏するとは到底考えられず、王制の存続が問われることは必至であり、タイの政情が不安定化する懼れがあるのです。
 とすれば、せっかく14年間にわたって民主主義が機能してきたのですから、今度のクーデターにプミポン国王は同意を与えるようなことなく、立憲君主として毅然とした姿勢をタイ国民のみならず、ワチラロンコーンにも示すべきだったのです。
 この関連におけるもう一つの懸念材料は、タイで不敬罪が依然として厳格に適用されており、タイ国民は、以上のようなワチラロンコーンへの否定的な思いを一切口に出すわけにいかないことです(注7)。
 
 (注7)米国のジャーナリストが今年、プミポン国王についての本(Paul M. Handley, The King Never Smiles, Yale University Press)を出そうとしたところ、タイ政府から出版しないように求められた。プミポン国王が一貫して秩序の維持、すなわち王制の維持を民主主義より優先してきた、という内容だったからだ。著者側は、国王就位60周年記念日の後まで出版期日を延ばしたものの要求は拒否した。もちろん、タイ国内ではこの本を販売できない。(
http://www.nytimes.com/2006/09/25/world/asia/25thailand.html?ref=world&pagewanted=print
。9月26日アクセス)

 日本でも不敬罪は終戦直後まで存在していました(典拠省略)が、皇室や王室への尊敬の念は、本来強制にはなじまないだけに、不敬罪は廃止しないまでも、その適用はできるだけ控えることが望ましいのであって、前述のように、プミポン国王が昨年、自分に対する批判を行ってよいと述べたのは賢明でした。
 可及的速やかにこの国王の考えに従って、不敬罪の厳格適用の緩和化が図られるべきでしょう。
 ワチラロンコーンが王位を継承してから、彼に対する批判が許されないとなれば、タイ国民の憤懣がたまってそれがいつ何時爆発しないとも限らないからです。
 繰り返しましょう。
 タイ王室のためにも、ひいてはタイのためにも、プミポン国王は今次クーデターに同意を与えるべきではなかったのです。

(完)