太田述正コラム#12204(2021.8.15)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』覚書(その21)>(2021.11.7公開)
ところが、11月30日という、対英米開戦直前の時点で、なお、昭和天皇は、高松宮に対し、この戦争は五分五分の引き分け、良くて六分四分の辛勝という予想・・ウソの予想だ(太田)・・なので敗戦もありうると懸念している旨を伝えた(前出)というのですから、もはや、救いようがないと言うべきか。
恐らく、貞明皇后/杉山元は、昭和天皇の識見はその程度である(注23)と見切っていた上、南方作戦成功後に、万一、昭和天皇が停戦交渉を命じたとて英米は絶対に交渉入りをしないとふんでおり、従って、日本が最終的には大敗北に至るのは不可避であることを重々承知しつつ、巧みな世論工作を行い、対英米開戦を「見事に」実現させたわけだ。
(注23)昭和天皇が十分備えていなかったのは識見であって、知力でも職務意欲でもなかったことに注意。
「昭和天皇はときに軍部の戦略に容喙したこと<が>あった。太平洋戦争時の大本営において、当時ポルトガル領であったティモール島東部占領の計画が持ち上がった(ティモール問題)。これは、同島を占領してオーストラリアを爆撃範囲に収めようとするものであった。しかし、御前会議で昭和天皇はこの計画に反対した。そのときの理由が、「アゾレス諸島のことがある」というものであった。
これは、もしティモール島攻撃によって中立国のポルトガルが連合国側として参戦した場合、イギリスやアメリカの輸送船がアゾレス諸島とイベリア半島との間にある海峡を通過することが容易となりイギリスの持久戦が長引くうえに、ドイツ軍や日本軍の潜水艦による同諸島周辺の航行が困難になるため、かえって戦況が不利になると判断したのである。この意見は御前会議でそのまま通り、1942年から1943年末にかけて行われたオーストラリアへの空襲は別の基地を使って行われた。しかし1943年には、ポルトガルの承認を受けてイギリスはアゾレス諸島の基地を占拠し、その後アゾレス諸島は連合国軍によって使用されている。・・・
<また、>ガダルカナル島の戦いでの飛行場砲撃成功の際、「初瀬・八島の例がある。待ち伏せ攻撃に気をつけろ」と日露戦争の戦訓を引いて軍令部に警告、これは連合艦隊司令長官・山本五十六と司令部にも伝わっていた。だが、参謀・黒島亀人以下連合艦隊司令部は深く検討せず、結果、待ち伏せていたアメリカ軍との間で第三次ソロモン海戦が発生する。行啓の際にたびたびお召し艦を務めた戦艦比叡を失い、翌日には姉妹艦霧島も沈没、天皇の懸念は的中した。」(上掲)
昭和天皇が、いつ頃以上のことに気付いたのかまでは分からないが、「「自国日本軍の勝利」を確信して、「平和克復後は南洋を見たし、日本の領土となる処なれば支障なからむ」と語った・・・対米英開戦後の1941年(昭和16年)12月25日」と、「木戸幸一内大臣に対し、「武装解除又は戦争責任者問題を除外して和平を実現できざるや、領土は如何でもよい」などと述べ<た>・・・1944年(昭和19年)9月26日」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲
の間、というか、1944年9月に入ってからなのだろうが、著しく遅きに失したと断ぜざるをえない。
しかも、この時点においても、依然として、昭和天皇は、具体的な行動を何もとらなかったのだから何をかいわんや、だ。
すなわち、以上のような意味で、昭和天皇には、重大な戦争責任がある。
「占領下の1945年(昭和20年)9月27日に、「私は、国民が戦争遂行にあたって行った全ての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決に委ねるためお訪ねした」と発言した(上掲)が、それは、「昭和26年8月22日・・・法律上ニハ全然責任ハなく又責任を色々とりやうがあるが地位を去るといふ責任のとり方は私の場合むしろ好む生活のみがやれるといふ事で安易であるが道義上の責任を感ずればこそ苦しい再建の為の努力といふ事ハ責任を自覚して多少とも償<おうとしている。>」
https://www3.nhk.or.jp/news/special/emperor-showa/articles/diary-abdication-01.html
という、道義的な責任、という意味で言っているのであり、昭和天皇自身は、自分には法的な責任もあることを自覚しつつも、その点には触れないようにしていたのだろう。
繰り返すが、だから、1945年(昭和20年)12月にこそ、田中清玄には、法的責任はないと言い切った(前出)ものの、内心、忸怩たるものがあり、1975月10月時点では、返答をはぐらかした(前出)のだろう。
ところで、昭和天皇は、「1944年(昭和19年)12月<、>・・・長男継宮明仁親王が満10歳になり、「皇族身位令」の規定に基づき陸海軍少尉に任官することになった折・・・、父親たる自身の意思により、任官を取り止めさせ<るとともに>、明仁親王の教育係として、大日本帝国陸軍の軍人を就けることを・・・拒否し<ている>・・・」(上掲)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E4%BB%81
が、これは、余り取り上げられていないけれど、驚くべき挿話であるところ、これを、我々は一体どう考えるべきだろうか。
(続く)