太田述正コラム#12206(2021.8.16)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』覚書(その22)>(2021.11.8公開)
「昭和天皇は戦後間もない1945年(昭和20年)9月9日に、栃木県の奥日光に疎開していた長男、皇太子の継宮明仁親王(現:上皇)へ送った手紙の中で、戦争の敗因について次のように書き綴っている。・・・
「・・・我が国人が あまりに皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである 我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである 明治天皇の時には山県 大山 山本等の如き陸海軍の名将があつたが 今度の時は あたかも第一次世界大戦の独国の如く 軍人がバッコして大局を考へず 進むを知つて 退くことを知らなかつた 戦争をつゞければ 三種神器を守ることも出来ず 国民をも殺さなければならなくなつたので 涙をのんで 国民の種をのこすべくつとめたのである」・・・」(上掲)
引用冒頭部分は、戦前の日本は既に民主主義国家であったところ、いわば、民主主義の陥穽の指摘を行っており、間違っていないが、軍人批判の部分は間違いである上に、軍令の最高責任者であった自分にブーメランのように戻ってくるはずなのに、果してそれらのことを自覚した上であえてそう書いたのだろうか、と首をひねりたくなってしまう。
しかし、これは、方便を用いたところの、自分の後継者たる息子に対する、日本の再縄文モード化傾向の定着を期した薫陶の手紙だったのではなかろうか。
さて、昭和天皇(1901~1989年)の教育の責任者は、学習院時代(1908~1914年)は乃木希典であり、東宮御学問所時代(1914~1921年)は東郷平八郎だった。↓
乃木希典(1849~1912年)は、長州藩の支藩である長府藩士。「裕仁親王は、赤坂にある東宮御所から、車での送迎で目白の学習院まで通っていたが、乃木は徒歩で通学するようにと指導した。裕仁親王もこれに従い、それ以降どんな天候でも歩いて登校するようになったという。・・・
明治45年(1912年)7月に明治天皇が崩御してから、乃木が殉死するまで3ヶ月ほどの間、裕仁親王は乃木を「院長閣下」と呼んだ。これは、明治天皇の遺言によるものである。昭和天皇は後に、自身の人格形成に最も影響があった人物として乃木の名を挙げるほどに親しんだ。
乃木は大正元年(1912年)9月10日、裕仁親王、淳宮雍仁親王(後の秩父宮雍仁親王)および光宮宣仁親王(後の高松宮宣仁親王)に対し、山鹿素行の『中朝事実』と三宅観瀾の『中興鑑言』を渡し、熟読するよう述べた。当時11歳の裕仁親王は乃木の様子がいつもとは異なることに気付き、「院長(学習院)閣下はどこかへ行かれるのですか」と聞いたという。・・・
乃木の訃報が新聞で報道されると、多くの日本国民が悲しみ、号外を手にして道端で涙にむせぶ者もあった。乃木を慕っていた裕仁親王は、乃木が自刃したことを聞くと涙を浮かべ、「ああ、残念なことである」と述べて大きくため息をついたという。・・・
乃木の遺書には『遺書に記載されていない事柄については静子に申しつけておく』旨の記載などがあり、乃木自刃後も妻の静子が生存することを前提としていた。・・・
乃木は、日露戦争において多くの兵士を無駄に死なせてしまったことを心底から悔い、生涯にわたって自責の念に苛まれ続けていた。乃木が前述の通り元帥の称号を断り、最終的に割腹自殺したのも、日露戦争で多くの兵士を死なせたことに対する自責の念が最大の理由だったとする意見は根強い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%83%E6%9C%A8%E5%B8%8C%E5%85%B8
東郷平八郎(1848~1934年)は、薩摩藩士。「昭和天皇は学習院時代、東宮御学問所総裁であった東郷について、後年、記者の質問に「何の印象もない」と答えている。・・・
晩年において海軍における東郷の権威は絶大で、官制上の権限は無いにもかかわらず軍令・軍政上の大事は東郷にお伺いを立てることが慣例化していた。 海軍省内では軍令部総長・伏見宮博恭王と共に「殿下と神様」と呼ばれ、しばしば軍政上の障害とみなされた。・・・
東郷氏<は、>桓武平氏流れ平良文を祖とし、坂東八平氏の系譜に数えられる秩父氏、また鎌倉幕府御家人で相模国渋谷庄を領した渋谷氏を祖とする<ところの、>鎌倉時代中期以降に薩摩国に移住した渋谷一族の総領家である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E9%83%B7%E5%B9%B3%E5%85%AB%E9%83%8E
昭和天皇自身の口吻からして、東郷は奉られることを当然視していた俗物として軽蔑の対象であったのに対し、乃木はただただ尊敬の対象だったところ、そんな乃木による、結果として夫人も巻き込んでしまったところの、切腹死、を、昭和天皇は、狂気の沙汰であると受け止め、武士/軍人全体に対して否定的感情を抱くに至ったのではないか、と一旦は単純に考えたのだが、そうではなく、東郷だけに関してはそんなところだろうが、乃木に関しては、戦争は、大勢の敵味方の兵士達等、とりわけ(乃木自身の息子二人を含む)大勢の日本の兵士達の死をもたらす悲惨な営みであり、このような死をもたらした者の罪は自らの死でもって償わなければならないほど大きいのであって、かかる認識を持てない(東郷のような)軍人は人間失格である、と自分に訓戒した、と、受け止めたのではないか、そしてその結果として、昭和天皇は、武士が台頭するまでの平安時代や武士が行政官化していた江戸時代、のような平和な時代・・私のいう縄文モードの時代・・、へと日本を回帰させるべきだ、機会を捉えて自分の手で回帰させたい、と思い立ったのではなかろうか。
(続く)