太田述正コラム#12208(2021.8.17)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』覚書(その23)>(2021.11.9公開)

 昭和天皇が、戦前の天皇時代に、(私見では、私の言葉で言うところの、)幕末以来弥生モードだった日本を縄文モードに切り替えるイニシアティブを取ったのはそのためだ、と。
 但し、乃木が、「日本は、外国に支配されたことがなく、万世一系の天皇が支配して君臣の義が守られている<ので、>・・・<支那>は中朝や中華を自称しているが、日本こそが中朝(中華)である」とする『中朝事実』、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9C%9D%E4%BA%8B%E5%AE%9F
と、尊王論で貫きつつ三種の神器の所在などを理由として南朝を正統として扱ったと思われる『中興鑑言』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%AE%85%E8%A6%B3%E7%80%BE
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%AD%A3%E9%96%8F%E8%AB%96
を熟読するようにも言い残したことから、乃木は、天皇制は絶対に維持しなければならない、とも自分に訓戒した、と、昭和天皇は受け止めたことだろう。
 そんな昭和天皇が、軍人上がりの田中義一首相・・元陸軍大臣・・が、「軍法会議によって容疑者を厳罰に処すべきと主張していたにもかかわらず、1929年(昭和4年)6月27日に・・・関東軍は張作霖爆殺事件とは無関係であったと<昭和天皇>に奏上したところ、天皇は「お前の最初に言ったことと違うじゃないか」と田中を直接詰問し<、>このあと奥に入った天皇は鈴木貫太郎侍従長に対して、「田中総理の言ふことはちつとも判らぬ。再びきくことは自分は厭だ」との旨を述べたが、これを鈴木が田中に伝えてしまったところ、田中は涙を流して恐懼し、7月2日に内閣総辞職した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E7%BE%A9%E4%B8%80
という「大事件」のきっかけとなったのは、ばれないように暗殺事件を起こして、ばれそうになったら陸軍出身者にもみ消してもらう、という帝国陸軍の軍人達の「汚さ」に憤り、その憤りを結果的にそのまま田中にぶつけてしまったことだ。
 これが「大事件」になったのは、田中が恐懼死してしまった(上掲)からだが、この「大事件」は、ずっと以前にも指摘した(コラム#省略)ように、私の言う縄文モードの時代が到来しつつあることを、当時の日本人の多くに感づかせ、この趨勢を促進したに違いない、と思う。
 乃木に昭和天皇を教育させたのは貞明皇后だから、昭和天皇が日蓮主義者にならなかったのは彼女の自業自得ではないか、と考えた人がいるかもしれないが、乃木を、名指しで起用したのは明治天皇なのだ。↓

 「明治40年(1907年)1月31日、軍事参議官の乃木は学習院長を兼任することとなったが、この人事には明治天皇が大きく関与した。山縣有朋は、時の参謀総長・児玉源太郎の急逝を受け、乃木を後継の参謀総長とする人事案を天皇に内奏したが、天皇はこの人事案に裁可を与えず、皇孫(後の昭和天皇)が学習院に入学することから、その養育を乃木に託すべく、乃木を学習院長に指名した。・・・
 明治45年(1912年)7月に明治天皇が崩御してから、乃木が殉死するまで3ヶ月ほどの間、裕仁親王は乃木を「院長閣下」と呼んだ。これは、明治天皇の遺言によるものである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%83%E6%9C%A8%E5%B8%8C%E5%85%B8

 その「明治天皇は「戦争には本能的なaversion(嫌悪)をもっておられた」という。だから日露戦争時には、「元老会議で決議したのに、まだ開戦の聖断の下らなかったのは、内心、如何にロシア相手の戦争は、できる限り避けたいとの懸念が強かったかを物語る」という」
https://www.moralogy.jp/wp-content/themes/mor/img_research/23miwa.pdf
わけであり、昭和天皇は、自分は、乃木を通じて明治天皇が(大正天皇を飛び越えて)隔世的に憑依した的な自覚、自負があり、その結果、貞明皇后の日蓮主義を拒絶することができたのだろう。
 昭和天皇の、明治天皇への傾倒ぶりは、「日露戦争直前に戦争回避と平和を望んだ<明治天皇>の御製<である>・・・よもの海 みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ・・・<を、>昭和天皇が<、>1941年(昭和16年)、日米開戦の回避を切望するにあたり御前会議で閣僚・陸海軍首脳らの前で発言」した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87
点に端的に現れている。
 だから、昭和天皇は、自分の長男で皇太子の明仁、及び明仁の後を襲うことになるそれ以降の諸天皇が、(軍令の最高責任者として)聖断を下さなければならない立場になることを回避させることを期して、皇族身位令第十七条皇太子皇太孫ハ満十年ニ達シタル後陸軍及海軍ノ武官ニ任ス 親王王ハ満十八年ニ達シタル後特別ノ事由アル場合ヲ除クノ外陸軍又ハ海軍ノ武官ニ任ス」
http://gyouseinet.la.coocan.jp/kenpou/koushitsu/kouzokushinirei.htm
を停止または廃止して、明仁を陸軍及び海軍の武官に任官させなかったのだろう。
 なお、これは、早晩、日本の敗戦の結果として日本の陸海軍が廃止されること、それに伴い明仁の陸海軍将校としての身分が剥奪されるであろうことを予期したからではないだろうし、いわんや、昭和天皇自身が日本の陸海軍の廃止を願っていたからではあるまい。 
 日本における、ヤマト国家の頃はともかくとして、律令制国家が成立してから明治維新に至るまでの間、朝廷における最高位の武官は左右の近衛大将であって、「765年・・・の・・・令外官<としての>・・・近衛府<の>設置時には正三位の官位相当。・・・793年・・・に従四位上に降格したが、6年後の<799>年に従三位に昇格し、定着する。
 古くは参議以上の兼務であったが、平安時代中期以後には大臣や大納言が兼任するのが一般的になったため正三位以上の者が就くことが多く、内大臣が空席になると大納言のうち席次が下位でも近衛大将を兼官する者が昇進したことから、武官としての実質を失っても公卿が兼帯を渇望する官だった。納言で兼任した者は、「右(左)大将何某」と呼ばれることが多く、大納言よりも上位と認識されていたことが見て取れる。摂関家嫡男などは権中納言で大将を兼任する例がよく見られた。なお、大将を兼ねる大臣(左大臣・右大臣・内大臣)が摂政・関白や太政大臣になると、大将を辞める例であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%A4%A7%E5%B0%86
というわけであり、摂政・関白や太政大臣、すなわち、天皇の代行者ないし最高補佐官たる官僚の最高位の者は武官を兼任してはならなかった。
 いわんや、治天の君や天皇をや、ということだ。
 そして、それは、武官(軍人)の仕事は汚い仕事なので、そんな仕事で汚れた心身でもって、治天の君や天皇及びその代行者ないし最高補佐官が、統治や君臨をしたり、或いは統治や君臨を補佐したり、してはならない、と考えられたからだった、と、昭和天皇は受け止めていたのではないか。
 その上で、昭和天皇は、天皇、皇太子、皇太孫、親王達が武官を兼ねることとされたところの、明治維新後の天皇制は、日本の歴史上、例外的にして異常な天皇制だったので、それを正常な姿に戻さなければならない、と、決意していたのだろう。
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(続く)