太田述正コラム#12210(2021.8.18)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』覚書(その24)>(2021.11.10公開)
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[杉山啓子]
「・・・第1総軍司令官・杉山元の妻・啓子は、終戦<を>むかえ、疎開先の山形から喪服<を>たづさえ帰京した。ふたりの死を裁量せねばならないから。夫は太平洋戦争開戦時の参謀総長、その後陸軍大臣をつとめた責任がある。自分は国防婦人会の幹部として、銃後の同胞にくるしみを強いた。おめおめ生き恥さらせない。自宅へもどると8月15日に死んで当然の夫がいておどろく。
「いつ死ぬのですか」「……まだ兵たちの復員がすんでない」「そんなことはあなたでなくともできます。はやく死になさい」
顔をあわせるたび自決をせかされ、元は閉口した。
9月22日、総軍司令官室でことにおよぶ。副官に胸へ万年筆で印をつけさせた。前日の東條英機みたいにしくじれば、国中の笑いものになる。ところが弾がでない。室外で待機する副官に銃をみせると、安全装置がかかつたまま。四発撃つが、心臓をはづした。軍医部長に薬のまされ、ようやく責めをはたす。
⇒「軍医部長に薬のまされ」は初耳だ。(太田)
杉山邸に「元帥閣下自決せり」との電話連絡がはいる。啓子夫人は「まちがいなく死んだのでせうね」と念<を>おす。喪服にきがえ仏間へはいり、膝がみだれぬよう足をしばつた。短刀で胸を一突き。声すらたてない、うつくしい死に様だつたらしい。夫におくれること25分だつた。」
http://nearfuture8.blog45.fc2.com/blog-entry-1635.html
⇒この個所(25分)も初耳だ。
ところで、「夫人は「息を引き取ったのは間違いありませんか?」と確認した後、正装に着替え仏前で青酸カリを飲み、短刀で胸を突き刺し自決して夫の後を追った。」
https://ameblo.jp/jtkh72tkr2co11tk317co/entry-11923655609.html
と書いてあるものもあり、青酸カリの話も初耳だが、私はこちらのストーリーの方が腑に落ちる。
青酸カリは杉山が軍医部長から入手し、啓子に渡してあったのだろう。(太田)
さて、この啓子夫人、何だかおかしくないか。
そもそも、生年不詳ときている
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/S/sugiyama_h.html
が、結婚式をあげておれば、参集者のだれかが、その場で通常披露される新婦の生年くらいは覚えているだろうから、式をあげたとは思えないし、(もちろん結婚写真も含め)啓子の写真が全くなさそうなことも不思議だ。
また、杉山との間に子もいない。↓
「12日の朝、田中参謀は杉山に呼び出され、「自分は本日自決するが、家内も同時に家で自決することになっている。しかし、若い娘(杉山夫妻には子供は無かったが養女がいた)のために家内には生き残ってもらいたいので、小林副官とも相談してなんとか家内の自決を思いとどまらせてほしい。自分はその翻意を聞いてから自決する」と言われ、田中参謀は小林副官と相談の上、杉山夫妻と家族ぐるみの親交があった小林副官が車を飛ばして杉山邸に駆けつけ、杉山夫人の翻意を促したが、夫人の意思は固く、小林副官は杉山に翻意させることが失敗したこと、しかし軽挙はしないと思う旨の報告せざるを得なかった。その後杉山は自決したが、結局夫人も後を追うことになった。」
https://ameblo.jp/jtkh72tkr2co11tk317co/entry-11923655609.html
子がいなかったのは、子の消息を一切ネット上で見出すことがなかったので確かだろうが、養子についても同様だったので、こちらの方はウソか誤伝ではなかろうか。
杉山元自身についても、そのウィキペディアには父親の名前が杉山貞(コラム#9902)と出て来るだけで、母親の名前も分からないし、兄弟姉妹もいなかったようだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
父以外の親族の存在さえ定かではない。
杉山は、陸大卒業後、参謀本部第二部(情報)勤務で、フィリピンで諜報活動を行っているが、いつ結婚したのか定かではないところ、自分の身辺情報について、妻啓子の身辺情報共々、あたかも自分達が諜報員であるかのように、その後も秘匿を続けたとしか考えられないが、これは、貞明皇后からそう指示されたからであって、そもそも妻啓子も同皇后が白羽の矢を立て、彼女を杉山元の片腕を兼ねた存在とすべく彼の下に送りこんだのではないか、そして、「任務」完了時には、情報秘匿のために二人が自死を選択肢に入れるよう同皇后から示唆されていたのではないか、更に、かかる背景の下、杉山夫妻は子供を作らないことにしたのではないか、とさえ、私には思えてならない。
二人とも杉山の構想完遂の同志たる、阿南惟幾陸将の自死も東條英機元首相の自死未遂も、杉山元がしかるべき時期に自死することをこの二人が知っていて、タイミング的にそれに先立って行われた、とも。
(これらの自死に比し、ずっと遅れて行われたところの、近衛元首相の自死については、そのように評価するのは忍びないのだが、茶番だった、けれども、近衛家が、その平安末期以来の長い役割を終えた、ということの象徴にはなったのかもしれない。)
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(続く)