太田述正コラム#12218(2021.8.22)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』覚書(その28)/平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』を読む(その5)>(2021.11.14公開)
そんな靖国神社参拝問題が将来起きるなどということはつゆ知らぬまま、阿南の次に、そして杉山の前に、自裁しようとして失敗した東條が、一転、昭和天皇の責任を否定するための法廷闘争を極東裁判の場で展開した上で死刑に臨んだのは、(縄文モードを志向する昭和天皇の意向を無視し、貞明皇后の指揮を受け、杉山構想を推進した)自分達(帝国陸軍)をついに疑うことがないままの天皇の、言葉は悪いが、幼児的無垢性に感動し、全力を挙げてこの天皇を守ろうと決意するに至った、ということではなかったか。
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(書き忘れたので、ついでにここで書いておきますが、昭憲皇太后が日蓮宗信徒であったのは、貞明皇后の「感化」で信徒になった、ということだったのではないでしょうか。
また、昭和天皇に関しては、日米安保体制構築への関与についての掘り下げ、や、自衛隊への公式訪問を一度も行わず、これも平成、今上両天皇によって踏襲されてきているところ、そのことについての再追究を行った方がよいと思いましたし、そもそも、どうして、明治天皇が最後まで非日蓮主義者であり続けたのか、換言すれば、私の言うところの縄文モード志向者であり続けたのか、についての追究も行わなければならないと思ったのですが、さすがに、このシリーズが長くなり過ぎるので、今後の宿題ということにさせてください。)
11 終わりに
せいぜい数回のシリーズになると思っていたにもかかわらず、結果的に、かなりの長編になってしまいましたが、書いている途中で新たな重大な発見が二つもあり、私自身としては、極めて大きな収穫があったという感慨がひとしおです。
重大な発見のその一は、日本の歴史を解釈する際には、武士の世界を含め、日本が一貫して女性優位の社会であったこと、そして、そのことと関連して、日本が一貫して潜在的には女系社会であったこと、を忘れてはならない、ということです。
(そうである以上、前回のオフ会「講演」原稿で、男性たる天才が新たな思想・世界観を創り出して歴史の転轍手となる、と指摘した(コラム#12103)ところ、それは、日本に関しては例外的に必ずしもあてはまらないのであって、「・・・創り出す」まではいいとして、現実に日本の歴史の転轍手となったのは、基本的に、男性達ではなく女性達であった、と訂正しなければならないのかもしれません。
思い起こせば、(私の見るところ、)信長を日蓮主義者にしたのは彼の正室の帰蝶でしたし、秀吉をして信長の日蓮主義を受け継がせたのは彼の姉に日秀がいたからこそでしたよね。
他の諸事例については、今次シリーズを読み返していただければ、と思います。)
また、「他の諸事例」の一つでもあるところの、重大な発見のその二は、言うまでもなく、貞明皇后が、大正時代の半ばから昭和戦前・戦中時代にかけて、日本の事実上の最高権威者兼最高権力者として、その間の日本の内外政策の基本を主導した可能性が大だ、ということです。
(完)
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–平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』を読む(その5)–
「ポルトガル系のイエズス会士フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸したのは、それから数年後の1549年のことであった。
マラッカで出会った日本人に案内されて来航した。
1550年には平戸にポルトガル船が入港し、領主の松浦隆信(まつらたかのぶ)がキリスト教を保護したことから、5年後には信徒が500人を超え、61年には90人のポルトガル人がいたという。
一方、スペイン人が日本にやってきたのは1584年のことである。
そこからマニラを拠点にした対日交易が始まった。
やがてスペイン系のフランシスコ会宣教師たちもマニラから渡航し、日本布教に取り組みはじめた。<(注7)>
(注7)「1593年・・・フィリピン総督の使節としてフランシスコ会宣教師のペドロ・バプチスタが来日し、肥前国名護屋で豊臣秀吉に謁見。1594年・・・京都に「天使の元后教会」(聖母マリア教会)を建立。1596年・・・サン・フェリペ号事件。ペドロ・バプチスタ、京都で捕縛される。1597年・・・ペドロ・バプチスタやマルチノ・デ・ラ・アセンシオンなどフランシスコ会員6名をふくむカトリック教徒26人が長崎で処刑される(日本二十六聖人の殉教)。
1603年・・・フランシスコ会宣教師ルイス・ソテロが来日して徳川家康・徳川秀忠に謁見。日本での布教に従事し伊達政宗との知遇を得て東北地方にも布教開始。1613年・・・ソテロ、慶長遣欧使節団の正使としてローマに派遣されたが、日本でのキリスト教弾圧にともない外交交渉成功せず。1622年・・・ソテロ、長崎に潜入を図るが捕らえられ、1624年・・・肥前大村で殉教。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%82%B3%E4%BC%9A
⇒1206年にイタリア生まれのアッシジのフランチェスコによって創設され1209年に教皇インノケンティウス3世に認可されたフランシスコ会
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%82%B3%E4%BC%9A
も、1534年にいずれもバスク人たるスペイン生まれのイグナチオ・デ・ロヨラとフランシスコ・ザビエルらによって創設され1540年に教皇パウルス3世に認可されたイエズス会
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%BA%E3%82%B9%E4%BC%9A
も、どちらも、教皇に認可された宣教等のための超国家的なカトリック教団体であるところ、16世紀の時点において、前者をスペイン系、後者をポルトガル系、と形容する意味が私には分かりません。
ちなみに、1585~1590年の教皇であったシクストゥス5世(注8)は、フランシスコ会出身でした
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%B95%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)
し、それより前の1580年にポルトガルはスペインに併合されています(至1640年(事実上の解消)ないし1668年(法的な解消))。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%AC%E3%83%AB%E7%8E%8B%E6%94%BF%E5%BE%A9%E5%8F%A4%E6%88%A6%E4%BA%89 (太田)
(注8)この「教皇の即位式には、ローマ滞在中であった天正遣欧使節のメンバーたちも招かれて参加している」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%B95%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87) 前掲
そのことが日本布教をめぐって、イエズス会系とフランシスコ会系の争いを生み出すことにもなっていく。
まさしくサラゴサ条約ライン上の争いであった。・・・」(26~27)
⇒ですから、こういった説明は意味不明です。(太田)
(続く)