太田述正コラム#1433(2006.10.5)
<米軍事権限法制定と世界史(その2)>
(コラム#1431の最終段落中の「そしてガリアで大金持ちになったシーザーが、カネで票を買うことで次々に自分の支持者を元老院議員に当選させた結果、共和制ローマの民主主義は形骸化していき」を、「そしてガリアで大金持ちになったシーザーが、カネで票を買うことで次々に各種の選挙で自分の支持者を当選させた結果、共和制ローマの民主主義は形骸化していき」に訂正させていただきます。)
(コラム#1430の出だしにミスがあったので、ブログとHPを訂正してあります。)
ハリスの論考を紹介したのは、それが、過去の歴史の一断面を掘り起こし、その上で、この掘り起こされた過去の歴史に照らして現在の米国の動向を批判しており、歴史を学ぶ意義を改めて教えてくれる好論考だからです。
このハリスの論考に引き比べ、ロサンゼルスタイムスに掲載されたニール・ファーガソン(Niall Ferguson。コラム#207??212。英国人。現在はハーバード大学教授)の論考は、現在の米国の動向の批判に藉口して、過去の歴史の一断面を歪曲して取り上げ、自分のトラウマの解消を図るという代物であり、他山の石とすべきだと考え、紹介することにしたものです。
3 先の大戦での日本軍の連合国軍捕虜「虐待」に照らした批判
ファーガソンは、米軍事権限法がジュネーブ条約の適用緩和を謳ったことを、それが敵性戦闘員への止めどない虐待に道を開きかねず、かつ米軍捕虜への虐待を呼ぶ懼れがあると批判します。
後者の懸念について、彼は、ナチスドイツは英米軍捕虜には虐待を行わなかったがソ連軍捕虜には虐待を行い、そのため、ソ連軍によってドイツ軍捕虜が虐待される羽目になったと指摘します。
この論理が既におかしいことにお気づきですか?
日本軍は、先の大戦においては、最終場面を除き、ソ連と戦ったわけではなく、従ってソ連軍捕虜を「虐待」する機会を与えられなかったにもかかわらず、1945年の終戦後、日本軍捕虜は、長い者は1956年までシベリア等に抑留され、その間抑留者全体の約1割の6万人が死亡(注3)するという虐待を受けたのですから(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%8A%91%E7%95%99
。10月5日アクセス)。
(注3)ソ連軍に占領された満州、樺太、千島に残された軍民合わせて約272万6,000人の日本人中、壮年男子たる約107万人がシベリア等で強制労働に従事させられ、約34万人が死亡したという研究もある。
より大きな問題は、ファーガソンが、前者の懸念の裏付けとして、先の大戦における日本軍の連合国捕虜「虐待」を持ち出していることです。
該当箇所をそのまま訳したのでお読み下さい。脚注は私がつけました。
日本の公式方針は、ジュネーブ条約を「準用する(mutatis mutandis)」(直訳すれば、「修正する必要がある部分を修正する」)というものだったが、日本はこの言葉を「必要な変更を加えて適用する」と意訳した結果、捕虜に対する虐待(brutality)を助長した(注4)。
(注4)「準用する」の「意訳」が「直訳」とそれほど違っているようには見えない。ここだけとっても、ファーガソンが日本に悪意を持っていることが分かる。また、日本がジュネーブ条約に調印したが批准はしていなかった(
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/horyo.htm
。10月3日アクセス)ことに言及していないことにも悪意を感じる。
いかなる「変更」が加えられたかは以下の通りだ:敵の捕虜は武器を置くという不名誉なことをしたのだからその命は没収(forfeit)される(注5)。実際、連合国の捕虜の中には、「戦闘の際に捕らわれ、首をはねられるか宮刑に処せられるかは天皇陛下の思し召し次第」と記された腕輪をを付けさせられた者達がいる(注6)。捕虜収容所では物理的制裁が日常茶飯事だった(注7)。正当な手続き(due process)を経ずにしばしば捕虜が処刑された(注8)。何千もの米国人捕虜達が、あの悪名高い1942年のバターン死の行進の途中で死亡した(注9)。
(注5)陸軍省が定めた戦陣訓(1941年1月)中の「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。」がファーガソンの念頭にあると思われるが、いかがなものか。
これは「第八 名を惜しむ」の中に記されており、恥を晒すような形で死んだり生き延びたりするな、という趣旨としか私には読めない。戦陣訓が実際にどれほどの拘束力があったか疑問とする見方もあり、先の大戦中、日本軍が組織的な降伏を行ったことが皆無であることは事実だが、それが戦陣訓のこのくだりのせいだ、とは必ずしも言えないのではないか。
また、戦陣訓では同時に、「武は厳なるべし仁は遍きを要す。・・仮令峻厳の威克く敵を屈服せしむとも、服するは撃たず従ふは慈しむの徳に欠くるあらば、未だ以て全しとは言ひ難し。」と記されており、捕虜虐待を禁じているのだが、このことにファーガソンが触れていないのは、仮に悪意でないとすれば、ファーガソンの学識の程度が知れるというものだ。
(以上、事実関係は、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E9%99%A3%E8%A8%93、及び
http://archive.hp.infoseek.co.jp/senjinkun.html
(どちらも10月3日アクセス)による。)
(注6)こんなことをした心ない日本兵が仮にいたとしても、麗々しく記すほどの話ではあるまい。いずれにせよ、ジュネーブ条約で、さらし者にしたり、暴行、脅迫、侮辱を加えたりすることが禁じられたのは戦後の1949年のことであり(
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/horyo.htm
上掲)、先の大戦の時点では、こんなことは捕虜虐待には当たらなかった。
(注7)これは想像に難くない。ただし、私的制裁は、日本軍、とりわけ日本陸軍内部では日常的に行われており(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B5_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D
。10月5日アクセス)、捕虜への私的制裁は、このような日本軍内部での恥ずべき慣行の反映にほかならないのであって、ことさら捕虜を虐待したわけではない。
(注8)米軍が降伏しようとした日本兵を射殺した事例が少なくなかった
(http://www17.ocn.ne.jp/~maru/
。10月3日アクセス)こと、英軍が戦後の日本兵を対象とするBC級戦犯の軍事裁判でずさんな証拠で死刑判決を乱発した(コラム#923)こと、等を考えれば、どっちもどっち、といったところか。当事者の一方だけをあげつらうのでは、ファーガソンの論考はプロパガンダだということになる。
(注9)先の大戦中の日本軍のフィリピン平定作戦の際に、1942年4月にバターン半島で降伏した約7万5,000人の米軍とフィリピン軍を5月にかけて徒歩で60数キロ移動させたことで、約1万人が死亡した事件(
http://en.wikipedia.org/wiki/Bataan_Death_March
。10月3日アクセス)。
この「死の行進」について、当時の本間雅晴司令官率いる第14軍の和知鷹二参謀長(少将。後に中将。
http://www.h2.dion.ne.jp/~sws6225/zinbutu/wati.html
)は、要旨次のように述べている。なお、和知の挙げる狭義の捕虜の数字は過小であり誤り。
「元来バタアン半島はマラリヤのはびこる地帯である。それだけに敵味方ともマラリヤにかかり、その他にデング熱や赤痢に倒れる者もあって全く疲れていた。バタアンの比島軍の捕虜は5万であったが、その他一般市民で軍とともにバタアンへ逃げ込んだのが約2??3万は数えられ、合計8万に近い捕虜があった。1月から4月まで、かれこれ3ヶ月半も、バタアンの山中にひそんでいたためほとんどがマラリアその他の患者になっていた。その彼らを後方にさげねばならなかった。なぜなら軍にはまだコレヒドール攻略が残っていたからである。捕虜は第一線から徒歩でサンフェルナンドへ送られた。護送する日本兵も一緒に歩いた。水筒一つの捕虜に比し背嚢を背負い銃をかついで歩いた。全行程約60数キロあまり、それを4??5日がかりで歩いたのだから牛の歩くに似た行軍であった。疲れきっていたからである。南国とはいえ夜になると肌寒くなるので、日本兵が焚火をし、炊き出しをして彼らに食事を与え、それから自分らも食べた。通りかかった報道班員が見かねて食料を与えたこともある。できればトラックで輸送すべきであったろう。しかし貧弱な装備の日本軍にそれだけのトラックのあるはずもなかった。次期作戦、すなわちコレヒドール島攻略準備にもトラックは事欠く状態だったのである。・・・むろん道中でバタバタと彼らは倒れた。それはしかしマラリア患者が大部分だった。さらにもう一つ付け加えれば、彼らはトラックで移動することを常とし、徒歩行軍に馴れていなかったことである。」
(以上、防衛庁防衛研修所戦史室「戦史叢書 比島攻略作戦」(朝雲新聞社)より。
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/book/objection/4kousin.htm
(10月3日)から孫引き)
ポイントは三つある。第一に、捕虜を移動させる以外に方法がなかったこと、第二に、日本側に米比兵を虐待する意図は全くなかったこと、第三に、事実、移動に付き添った日本兵も、(米比兵とは違って完全武装して)歩いたのであり、食糧事情も同じであって、米比兵を差別的に扱ったわけではないこと、だ。
もとより、移動の間、日本兵によって私的制裁が米比兵に対してもなされたであろうこと(
http://en.wikipedia.org/wiki/Bataan_Death_March
上掲)は想像に難くない。
いずれにせよ、ファーガソンが全く留保をつけていないところを見ると、恐らく、この箇所に限らず、彼は、うろ覚えの知識か、英語の、しかもおざなりな典拠にのみ依拠してこの論考を書いたのだろう。彼の歴史家としての良心が問われている。
((注9)終わり)
(続く)