太田述正コラム#12222(2021.8.24)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』を読む(その6)>(2021.11.16公開)

 (注9)「聖アウグスチノ修道会はアウグスティヌス自身が創立したわけではなく、13世紀にアウグスティヌスの会則に則って生活していた修道士たちによって設立された。・・・
 11世紀から12世紀のイタリアのトスカーナ、ロンバルディア、ロマーニャ、マルケなどにはアウグスティヌスの会則を基本とする修道者の団体が複数存在していた。さらに13世紀初頭にはスペイン、ドイツ、フランスに修道者が派遣され修道院が設立された。
 1244年、ローマ教皇インノケンティウス4世はこれらの修道者にアウグスティヌスの会則を課すとともに枢機卿アンニバルディに修道院の統合の任を託し、これがアウグスチノ会の始まりとされている。
 1255年、ローマ教皇アレクサンデル4世は、グリエルモ隠遁者会、アウグスチノ修道会、福者ジョヴァンニ・ボノの隠遁者会、モンテ・ファヴァーリの兄弟会、ブレッティーノの隠修士会に対して合併を命じた。このうちグリエルモ隠遁者会とモンテ・ファヴァーリ兄弟会は教皇の認可を得て合併から離脱したが、残りの3団体は1256年4月9日の教皇大勅書『リケト・エクレシアエ』のもとで合併が承認され、アウグスチノ隠修士会に統合された(大合併と称されている)。・・・
 聖アウグスチノ修道会の最初の海外宣教地となったのがメキシコである。・・・
 日本には1584年に初めて上陸し、キリシタン迫害の時代には多くの殉教者を生んだ。そのうち金鍔次兵衛神父は、2008年11月24日に・・・福者に列せられた。・・・
 マルティン・ルターや・・・遺伝の法則を発見したグレゴール・ヨハン・メンデルは何れもアウグスチノ会の会員である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%8E%E4%BF%AE%E9%81%93%E4%BC%9A

⇒以上のようなことをキリスト教宣教師達が考えているということを秀吉も把握していて、日本が総力をあげて明に攻め入れば、明を征服することはそれほど困難ではない、という認識を持ったのでしょう。
 この認識は必ずしも誤ってはいなかったと思うのですが、秀吉の盲点になっていたのが、征明ルートに所在する朝鮮が明と一体になって日本軍に抵抗する可能性だったのではないでしょうか。(太田)

 「<1549年8月15日に>鹿児島に入ったザビエルは、アンジロー<(注10)>の伝手で薩摩の領主島津貴久に容易に拝謁する機会を得ている。

 (注10)1511?~1550?年。「ヤジロウは、ヤジロー、または当時の音韻からアンジロウ(アンジローとも)、洋風にアンジェロ(天使の意)ともいわれる。・・・
 ヤジロウは薩摩国あるいは大隅国(両国とも鹿児島)の出身である。彼自身やザビエルの書簡によれば、彼は若い頃に人を殺し、薩摩や大隅に来航していたポルトガル船に乗ってマラッカに逃れた。その罪を告白するために彼はザビエルを訪ねたという。二人を引き合わせたのは、・・・1546年・・・に薩摩半島最南部の山川にやって来たポルトガル船船長のジョルジュ・アルヴァレスである。船長はマラッカへ帰る際ヤジロウを乗船させ、ザビエルを紹介した。・・・
 ザビエルの導きでゴアに送られたヤジロウは、1548年の聖霊降臨祭にボン・ジェス教会で、日本人として初めて洗礼を受けた。洗礼により彼は「パウロ・デ・サンタ・フェ(聖信のパウロ)」の霊名を授かった。その後、彼は同地の聖パウロ学院でキリスト神学を学んだ。
 ヤジロウはザビエルから、日本でキリスト教の布教をした場合を問われ、スムーズに進むだろうと答えた。ヤジロウの人柄と彼の話す日本の様子を聞き、ザビエルは日本での活動を決意した。
 1549年4月19日、ヤジロウはザビエルに従いゴアを離れ<た。>・・・
 その後のヤジロウの生涯については不詳である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%82%B8%E3%83%AD%E3%82%A6

 島津氏はアンジローの帰国を喜んだというから、元は島津の家臣だったのかもしれない。
 イエスを抱いたマリア像をみせると、貴久はマリア像の前にひざまずいて拝むほど感激したという。
 ポルトガルのマラッカ長官がもたせた鉄砲、火薬、生糸、ガラス製品などを献上し、布教を許せばポルトガル人との貿易はもっと盛んになるだろうと、島津氏の領内での布教の許可を求めた。
 すると島津氏は、いとも簡単に領内での布教を許可している。・・・
 アンジローは、聖母マリアのことを「観音」、天国(パライソ)のことは「極楽」と訳していた。
 神様の訳語は「大日」であった。
 大日如来の「大日」のことである。・・・
 日本人たちはキリスト教を仏教の一派だと思って抵抗感なく受け入れたということだろう。
 その後ザビエルは、さすがに「大日」ではまずいということに気づいて「天道」と言うようになった。・・・
 <やがて、>神のことはそのまま「デウス」、「マリア」のことも・・・「マリア」と言うようになった。
 しかし・・・1600年初頭・・・まではイエズス会もデウスのことを「天道」と呼ぶことを容認していたとされている。・・・」
 ルイス・フロイス・・・が日本にやって来たのは1563年だった。」(45~47、50)

(続く)