太田述正コラム#12224(2021.8.25)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』を読む(その7)>(2021.11.17公開)
「1597年に長崎で没するまでの34年間、一度も日本を離れることなく、生涯を日本での布教に尽くした。・・・
宣教師たちと接するなかで信長が抱いた世界観を垣間見せるのが、フロイスの次の二つの文章である。
一つは、1569年・・・にイエズス会の京都での活動を信長が容認したことについて、家臣の松永久秀が、伴天連の呪うべき教えがおこなわれるところは常に国も市も直ちに崩壊して滅亡するだろう、と言ったことに対する信長の反応である。
信長は、たった一人の異国の者が日本でどんな害悪をなすことができるというのか、小心者にはあきれる、と答えたという。・・・
信長の世界観をうかがわせる二つ目は、1581年・・・に信長が京都で開催し、13万人を動員したとされる馬揃(うまぞろ)えの記事である。・・・
この馬揃えには正親町天皇が臨席していたが、なんとイエズス会インド管区巡察師のヴァリニャーノも招待されていた。
席は離れていたとしても、天皇と宣教師を同座させたということに驚く。
しかも信長パレードのさいに座った椅子は、ヴァリニャーノの贈り物であった。・・・
このパフォーマンスは諸大名向けというにとどまらず、まさに天皇とイエズス会の上に信長が君臨するというメッセージにほかならない。・・・
信長は、・・・ポルトガル国王が地球の半分を支配する権力と権威をもっていることを聞いて知っていた。
イエズス会はポルトガル国王の庇護をうけ、その配下にあることも知っていた。・・・
⇒イエズス会(Society of Jesus)は、ゴア(ポルトガル領インド)に拠点を設け、ポルトガル王室の庇護を受けたけれど、イエズス会の活動は全世界にわたっており、世界のもう半分はフィリピンを含めスペインが「支配」していたわけですし、地理的意味での欧州には、ポルトガルやスペインと拮抗する諸大国が存在し、イエズス会はこの欧州でもポーランド/リトアニアや南部ドイツで反宗教改革活動を行っています。
https://en.wikipedia.org/wiki/Society_of_Jesus
ですから、「イエズス会はポルトガル国王の庇護をうけ、その配下にある」は、完全な間違いでこそないけれど、不適切な誤解を生む表現です。(太田)
信長はこのとき、ヨーロッパの大国と東洋の大国を相対化し、その上にみずからが君臨する姿を思い描いていたのではないだろうか。・・・」(51、54~58)
⇒よって、「ヨーロッパの大国と東洋の大国を相対化し<た>」とは言えそうもありませんし、「古代の大内裏の内側に準じて牛車宣旨の無い者はいかなる者も馬を含む乗り物を乗り入れさせることが禁じられていた・・・陣中・・内裏の東側・・で<馬揃が>開催されることについて問題視された形跡はなく、・・・近衛前久ら馬術に通じた公家<が、この行事に積極的に参加していて>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%BE%A1%E9%A6%AC%E6%8F%83%E3%81%88
、正親町天皇もこの実施に好意的であったという見方もできる(上掲)ことから、「東洋の大国<・・つまり日本・・>を相対化し<た>」ともまた、言えそうにありません。(太田)
「これまで述べてきたような信長の世界認識をふまえれば、・・・1582年にフロイスがイエズス会総長に宛てた書簡の一説・・・も素直に理解できる。・・・
「信長は(中略)、毛利を平定し、日本66ヵ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成してシナを武力で征服し、諸国を自らの子息たちに分ち与える考えであった」(『完訳フロイス日本史』3)・・・
こうした情報がどのようにしてフロイスのもとに届いたのか、定かではない。
フロイスによると、四国出陣を命じられた信長三男の信孝は、キリシタンになる願望をもっており<(注11)>、そのためオルガンティーノが別離の挨拶に出向いたというから、そこからの情報かもしれない。・・・」(60)
(注11)「フロイス日本史によれば、信孝は数人の家臣を説得してキリシタンに改宗させたり、修道士にもらったロザリオを携帯するなど、精神的にはほぼキリシタンといって差し支えない生活を送っていたようである。しかし信長が自身の改宗をどう思うかを非常に恐れており、信長の考えが明らかになるまで洗礼を受けることは保留していたという。本能寺の変によって信長は死んだものの、その後の混乱などのために、洗礼を受けないまま他界した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%AD%9D
⇒信長は、イエズス会士から得た断片的情報から、スペインが明征服に乗り出すかもしれないと判断しており、それを抑止するために、これまた信孝周辺から得た断片的情報から、信孝が隠れキリシタンだと見抜いていて、信孝が必ずイエズス会士にリークするだろうと見越し、日本統一後、自分自身が征明に乗り出すつもりであることを信孝に明かした、というのが私の見方です。
信長の男の子供達は、信忠を除き、碌な人物がいなかったようですね。
帰蝶との間に子供、就中男の子供ができなかったのは信長にとって不幸でした。(太田)
(続く)