太田述正コラム#12231(2021.8.28)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』を読む(その10)>(2021.11.20公開)
「1年後に、よもや秀吉から日本による明国征服に協力を求められるとは思ってもいなかったのではないか。
しかしコエリョは、イエズス会に寛大な秀吉を巧みに利用して、ポルトガル・日本の軍事同盟による明国征服を実現できると考えたのかもしれない。
だからこそコエリョ<(注13)>は翌1587年7月、九州平定を終えて博多に滞陣中の秀吉に、軍船のフスタ船<(注14)>をみせたのではないだろうか。
(注13)ガスパール・コエリョ(Gaspar Coelho。1530~1590年)。「ポルトガルのオポルト生まれ<で、>・・・1556年にインドのゴアでイエズス会に入会した。同地で司祭に叙階され、1572年・・・に来日。九州地方での布教活動にあたった。1581年・・・に日本地区がイエズス会の準管区に昇格するとアレッサンドロ・ヴァリニャーノによって初代準管区長に任命された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%82%B9%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%83%A7
(注14)「フスタ(fusta、fuste、foistとも)は、櫂と帆の両方を動力源とする、浅い喫水を備えた細くて軽量の高速船。本質的には小型ガレー船であり、通常、両舷に12人から18人分の2人用の漕ぎ手用ベンチが並び、大三角帆用の1本マストがあり、通常2門または3門の大砲を搭載していた。帆は巡航と漕ぎ手のエネルギー節約のために使われた。櫂は入港・出港時や戦闘中に船を動かした。
フスタは、北アフリカのサレ港やバルバリア海岸を拠点とするイスラム教徒の海賊に愛用された。・・・
ポルトガル人はこの船を北アフリカでも15世紀と16世紀に広く使用し、さらにインド洋にも導入した。インド洋では、沿岸や河川の浅瀬での巡回や襲撃に特に適していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%BF%E8%88%B9
明国征服では軍事同盟を結ぶことになるのだから、そのアピールだったのだろう。
そうとでも考えないと、長崎からわざわざフスタ船を回航させて秀吉にみせた意味が読み解けないのである。
大坂城での秀吉とコエリョの会見の場では、もう一つ重大なことが話題になっていた。
1590年にヴァリニャーノがイエズス会総会長に宛てた書簡に、この経緯が報告されている。
それはコエリョが、明国出兵のさいには、二隻のポルトガル船だけではなく、ポルトガル領インド副王に要請して援軍を送らせようと語った、ということである。
秀吉はコエリョの提案に満足したような様子をみせたので、コエリョはキリスト教会やイエズス会のために自分が非常に巧みに振る舞ったと思いこんだという。
だがヴァリニャーノは、それがコエリョの決定的な誤りだったとみなした。
結果からいえば、たしかにそうとしかいえない。
こうしたコエリョの発言を聞けば、秀吉がポルトガルの軍隊は日本にまでやってくることが可能なのだ、と受けとめるのは当然のことだろう。・・・
⇒くどいようですが、秀吉は、フィリピンがスペイン領になっていたこと、そのフィリピンからスペイン船が日本にやってくることが可能であること、を知らなかったわけがないのであって、この時のコエリョの発言は、平川が指摘しているような意味で不適切なものであったのではなく、宣教師達がポルトガルやスペインの尖兵であることを宣明したに等しいからこそ不適切だったのです。
なお、この時、コエリョがスペインに言及せず、ポルトガルだけに言及したのだとすれば、それは、サン・オーガスティン教会の名前からも分かるように、スペインのフィリピン征服当時に当局と行動を共にしたのが、イエズス会ではなく、聖アウグスチノ修道会であった
https://en.wikipedia.org/wiki/San_Agustin_Church_(Manila) 前掲
ところ、この聖アウグスチノ修道会が、既に、1584年に、(恐らくマニラから、)日本に初上陸しており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%8E%E4%BF%AE%E9%81%93%E4%BC%9A
イエズス会士としてこの聖アウグスチノ修道会に対する対抗意識があったこと、と、自分達にはフィリピンのスペイン当局者達へのコネが殆どなかったこと、からでしょう。(太田)
1587年・・・6月19日<の>・・・バテレン追放令・・・発布の9日前には日本準管区長のコエリョに対して、博多では好きなところに教会を建てよと好意的な対応をしていた秀吉が、・・・急変した・・・。
コエリョが、大砲を積んだフスタ船(軍船)をみせ<ると、>・・・艦内をくまなく視察した秀吉は、装備された大砲を発射させて、この船が軍船であることをしっかりと認識した。・・・
ポルトガル勢力<、すなわち、>・・・イエズス会とポルトガル人・・・は、日本<の>・・・長崎・・・で軍船を造る能力を有していたのである。
秀吉はそれを目の当たりにしたのだった。・・・」(71~74)
(続く)