太田述正コラム#12233(2021.8.29)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』を読む(その11)>(2021.11.21公開)

 「少しあとの1593年に、イタリア人マルコ・アントーニオがフィリピン総督におこなった証言には、宣教師たちが大砲を備えて武装したフスタ船をもち、数多くの領地と権力を有していることや、彼らが強大になることに、秀吉は強い「敵意」と「憎悪」を抱いていた、とある(松田穀一、1992)。

⇒マルコ・アントーニオは綴りは、Marco Antônio
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%82%AA
でしょうが、アントーニオではなくアントニオ(上掲)ではないのでしょうか。
 そもそも、平川が引用している松田は、「マルコ・アントニオ」としている
http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/ar02108.pdf?file_id=9720
ので、引用間違いである可能性も。
 なお、松田も、従って平川も、「マルコ・アントニオ」について、「イタリア人」以上の説明をしていませんが、それだけでは氏素性が分からない人物に等しく、彼の証言の信憑性を判断することができません。
 ところで、上掲には、「朴慶○<(サンズイ偏に朱)>「イエズス会の日本「武力制圧論」について–高瀬・平川研究の批判的検討–・・・は「・・・イエズス会<の>・・・日本に対する「領土的征服」ではなく、あくまで「宗教的征服」(=日本全土のキリスト教化。平川<言うところの>「布教征服」)だった」としたうえで「非教徒地域に対するイエズス会の宣教戦略が、東アジアにおいてもイベリア両国の国家的意図と一体化した「武力征服論」であったことを繰り返し強調する高瀬氏・平川氏の基本主張には、論拠となる宣教師書簡の読み方に誤読や「まず結論ありき」のような偏った評価が散見されて、どうしても同意できない。そこから壬辰戦争<(朝鮮出兵)>の開戦原因論にまで議論をすすめた「イベリア・インパクト」論も大幅な修正が避けられない、と考える。」と指摘している」というくだりがあり、韓国人ないしは在日朝鮮人と思われる朴の、いかにもためにする主張(注15)ではあるものの、他方で、高瀬弘一郎(注16)の方は知りませんが、平川新の史料の「読み方に誤読や「まず結論ありき」のような偏った評価が散見され」るのはご案内の通りであって、その限りにおいては朴の指摘には首肯でき、そこに平川が付け入られる隙があることは想像できます。

 (注15)コエリョ(Gaspar Coelho)の英語ウィキぺディア
https://en.wikipedia.org/wiki/Gaspar_Coelho
も、de Bary, Wm. Theodore (2005). “Part IV: The Tokugawa Peace”. Sources of Japanese Tradition: 1600 to 2000. Columbia University Press.とO. H. K. Spate(1979)”The Spanish Lake”に拠って、”Hideyoshi aware that Coelho may potentially create an axis of Christian domains with allegiance to a foreign religion.・・・Coelho・・・attempted to procure arms from Goa, Macau and Manila in order to arm the Christian lords against Hideyoshi”としていて、イエズス会による日本「武力征服」の可能性を示唆しており、朴は、高瀬・平川だけを批判して事足れり、とはいかない。
 (注16)1936年~。慶大文(史学)卒、同大博士(文学)、同大文助教授、教授、名誉教授。
 「ヨーロッパ各国に保存されている一次史料の調査・解読作業の成果を基礎に、戦国時代~江戸時代初期の日本において布教活動をおこなったカトリック教会の経済的基盤や、スペイン・ポルトガルの国家政策とのかかわりについて明らかにした。『キリシタン時代の研究』で日本学士院賞を受賞。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%80%AC%E5%BC%98%E4%B8%80%E9%83%8E

 もとより、私が指摘しているように、日蓮主義への言及なくして「イベリア・インパクト」だけで、平川らが信長や秀吉の大陸侵攻がらみの言動を説明しようとすること自体にも無理があるわけです。(太田)

 彼は、イエズス会巡察師ヴァリニャーノが竜造寺氏と対立する有馬晴信を、武装したフスタ船を出して援助したことも秀吉の疑心をかったと証言していた。
 しかも秀吉は、宣教師たちが軍事力だけではなく、日本のキリシタン大名をも意のままにあやつる権力を有していたことや、キリスト教徒としての団結力にも大きな危機感を抱いていた。
 バテレン追放令を発布したその日に、秀吉は宣教師たちを強く批判している。・・・
 宣教師たちの布教活動が日本を征服することを目的としており、キリスト教徒たちの忠誠心や団結力は、各地で大名や織田信長に敵対した一向宗勢力よりも強い、と危険視していた。
 バテレン追放は、その危険性を除去するための措置であった。
 それは秀吉のたんなる疑心ではなかった。
 インド管区巡察師として1590年に2回目の来日をしたヴァリニャーノは、バテレン追放令の理由を探るために在日宣教師たちから証言を集めた。
 それをまとめてイエズス会総長宛に出した書翰には、次のようにある。
  「彼(コエリョ)は、イエズス会士は改宗を口実に当地(日本)に渡来して、大阪の仏僧と同じことを行なって日本王国の支配者になろうとしている、という自分の考えをしばしば明らかにした」(高瀬弘一郎、1977)。
 日本準管区長というイエズス会日本地区トップの要職にあるコエリョは、キリスト教への改宗を口実に渡来して日本国の支配者になる、ということをしばしばしゃべっていた、というのである。
 文中にある「大坂の仏僧と同じことをおこなって」というのは信長に抵抗した本願寺勢力(一向一揆)のことだろうから、時の秀吉政権とも戦うということが含意されているのだろう。・・・」(74~76)

(続く)