太田述正コラム#12235(2021.8.30)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』を読む(その12)>(2021.11.22公開)

 「フロイスは1590年にイエズス会総会長に宛てた書簡で、バテレン追放令が出されたのは、僧の徳運(施薬院全宗(やくいんぜんそう))<(注17)>が秀吉に、キリシタン大名が司祭へ服従していることや、領内の神社仏閣の破壊を命じたり、領民・家臣に改宗を強制したことなどを告げたためだと書いている。

 (注17)1526~1600年。「平安時代に医心方を著した名医・丹波康頼の二十世の末裔として生まれる。祖父・宗清、父・宗忠ともに権大僧都法印となっている。
 幼少時に父を失って僧籍に入り、比叡山菜樹院の住持であったが、・・・1571年・・・に織田信長が行わせた比叡山焼き討ちに遭い、還俗して医師を目指し、曲直瀬道三に入門して漢方医学を極めた。その後、羽柴秀吉の知遇を得て、侍医となりながら叡山の弁護にあたった。
 ・・・1582年・・・、信長が本能寺の変で斃れると、秀吉の許可を得て荒廃した比叡山の再興に尽力した。この頃、徳運軒全宗を名乗る。
 秀吉が天下人になった後の・・・1585年・・・に大飢饉と疫病の流行にみまわれると、廃絶していた祖先よりの「施薬院」の復興を願い出た。天正年間に勅命を受けて施薬院使に任命されて、従五位下に叙され昇殿を許される。7月下旬から9月までの間に号を「施薬院」とした。この施薬院は奈良時代・光明皇后による創建以来、800年の時を経て完全に形骸化していたが、全宗はこれを復興して、身分の上下を問わない施療を再開した。
 ・・・1585年・・・10月6日、秀吉より山城御室戸・大鳳寺・上条等で200石を与えられる。さらに同年11月27日には山城・丹波内で450石を加増。
 「(全宗の)言ふところ必ず聞かれ、望むところ必ず達す」(『寛政重修諸家譜』)というほど秀吉の信頼は厚く、秀吉から偏諱を与えられた息子の秀隆とともに秀吉側近としても活躍。
 ・・・1587年・・・発布の定・バテレン追放令は全宗の筆によるもので、切支丹追放にも活躍。豊臣氏番医の筆頭として、番医制の運営につとめる。同年10月2日、丹波桑田郡内で305石を加増。
 ・・・1590年・・・、小田原の役の際に伊達政宗に上京を促す勧告使、佐竹義重との交渉役を務めている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%BD%E8%96%AC%E9%99%A2%E5%85%A8%E5%AE%97
 「織田信長の比叡山焼打ちに続き豊臣秀吉にもその意図があると聞き,叡山を守るため還俗して曲直瀬道三の門に入り医学を修め秀吉の侍医となり,叡山の弁護に当たったという。・・・
 京都御所の一画(烏丸一条通下ル中立売御門北側)に施薬院を建て,施薬院使に任ぜられて,庶民の救療に当たった。」
https://kotobank.jp/word/%E6%96%BD%E8%96%AC%E9%99%A2%E5%85%A8%E5%AE%97-87722
 「施薬院使<は、>・・・施薬院・・・の長官。施薬院別当と称した時代もある。平安時代以来、丹波氏が補せられた。」
https://kotobank.jp/word/%E6%96%BD%E8%96%AC%E9%99%A2%E4%BD%BF-2055459

 追放令を発布した翌日、秀吉の使者は博多に滞在中の日本準管区長コエリョを、「キリシタンは、いかなる理由に基づき、神や仏の寺院を破壊し、その像を焼き、その他これに類した冒瀆を働くのか」と問いつめている。
 これに対してコエリョは、キリシタンたちは、「デウス(神)から賜わった光と真理を確信し、なんら我らから説得や勧告をされることなく、神仏は自分たちの救済にも現世の利益にも役立たぬので、自ら決断し、それら神仏の像を時として破壊したり毀滅したのである」と答えている。
 つまり、自分たちが壊せと指示したのではないと弁明したのであった(『完訳フロイス日本史』4)。
 キリスト教史研究者のなかにも、キリシタン大名が勝手に社寺や仏像の破壊を命じたのであってイエズス会の方針ではないという意見もある。
 だがルイス・フロイスは、コエリョ自身が島原の加津佐(かづさ)で多くの仏像を破壊したことや、キリシタン大名の大村領ではそのコエリョが寺院を焼くことを信者に指示していたと書いている。
 コエリョに付き添って通訳をしていたフロイスの証言であるから、信憑性は高い。
 1579年に初めて来日したインド管区巡察師ヴァリニャーノも、イエズス会総会長に宛てた書簡で、イエズス会士の強い要請によってキリシタン大名が領内の神社仏閣を破壊したと報告していた。・・・
 秀吉はバテレン追放令をイエズス会に伝達するに先立って、・・・高山右近・・・が領民に命じて神社仏閣を破壊させたことを「大いなる悪事」であると強く批判し、いまの身分にとどまりたければ棄教せよ、と迫っていた。・・・

⇒キリシタン大名の中には、イエズス会士の「強い要請」なくして、自分の信仰心に基づき、社寺仏閣を破壊したケースがあったことを秀吉は知っていたはずなのに、どうして彼がバテレン追放だけを命じ、キリスト教の禁止やキリシタン達の棄教命令まで踏み込まなかった(下出)のか、についての私見を、次のオフ会「講演」原稿で明らかにするつもりです。(太田)

 バテレン追放令は、宣教師の追放を命じたが、キリスト教の信仰自体はどう扱ったのだろうか。
 バテレン追放令の前日に出された「天正一五年六月一八付覚」(神宮文庫「御朱印師職古格」所収。・・・)には、「二百町二三千貫より上の者」がキリシタンになるのは「公儀御意次第」とある。
 「二百町」というのは田畑の面積200町歩(約200ヘクタール)、「二三千貫」というのは銭に換算した年貢高のことである。・・・
 <すなわち、>一定以上の知行(領地)をもった武将たちがキリシタンになる場合には、「公儀」(公の権力のこと。ここでは豊臣政権のこと)の許可が必要(「御意次第」)だという意味である。
 これ以下の知行の場合、その者の「心次第」とあるので、下級武士の信仰は自由にしてよいという意味になる。・・・
 つまりは、・・・家臣や領民に改宗を強制しがちな領主層(大名や武将たち)の信仰を抑制しようとしたのであった。
 一方、庶民については、「伴天連門徒の儀ハ、其者の心次第たるべき事」、あるいは「伴天連門徒、心さし次第に下々成り候義は、八宗九宗の儀に候間、苦しからざる事」とある。・・・
 「八宗九宗の儀に候間」とあるのは、八つある宗派が九つになったところで問題はない、ということだろう。・・・
 <九宗目のキリスト教>を信じようが信じまいが庶民は自由だということである。・・・
 イエズス会士も、そうでない外国人も、庶民のキリスト教信仰が否定されたとは誰も思っていなかったのである。」(77~82)

(続く)