太田述正コラム#1439(2006.10.9)
<筑駒の学校説明会で考えたこと(続)(その1)>(有料→2007.3.7公開)

1 矢内原忠雄とキリスト教

 矢内原忠雄(1893??1961年)の学歴は、神戸中学校・第一高等学校・東京大学(法科大学校政治科)ですが、中学校の校長は内村鑑三や新渡戸稲造と札幌農学校で同級生であった人物でしたし、高等学校の校長は、この新渡戸でした(注1)。クラークの影響で、中学校の校長も新渡戸もキリスト教徒(プロテスタント)になっており、この二人の影響を受けて内村鑑三の門をたたいた矢内原も敬虔なキリスト教徒になります(注2)。

 (注1)(旧制)第一高等学校は、新渡戸が校長であった1906年から13年は札幌農学校のいわば分校であったと言ってもよかろう。筑駒の副校長が引用する矢内原の日本の教育二元論がいかに根拠レスかお分かりか。
 (注2)矢内原は、キリスト教の布教に生涯、尽力した。

2 学者としての矢内原忠雄

 矢内原は、一旦東大(政治学科)を卒業して住友に入り、別子銅山に勤めていたのですが、新渡戸は、国際連盟事務次長に就任することとなり、東大で新渡戸が担当していた植民政策講座の後継者として矢内原に白羽の矢を立てます。そして、東大から矢内原は、英国・ドイツ留学に派遣され、2年半後帰国します。
 さて、ここから先が私にはよく理解できないのです。
 というのは、彼はキリスト教徒なので、理念が人間を動かし、歴史を動かしていくことを信じていたはずなのに、学問方法論としてはマルクス主義を採用したからです(注3)。

 (注3)矢内原自身、「自然に、広い意味でのマルクス主義的な学問の気風に錬磨された」と述べている(若林正丈「矢内原忠雄「帝国主義下の台湾」精読」岩波現代文庫344頁)。また、1925年の時の矢内原の講義を聴いた人物によれば、「講義は理論と実際問題に分かれて」おり、前者では、「ローザ・ルクセンブルグの再生産方式のはなしをされ、帝国主義諸国の植民地への進出が必然的なものであることを理論的に立証されようとしておられた」(346頁)という。
 
 ご存じのように、マルクス主義では、経済、ありていに言えば人間の欲望、が歴史を動かしていく、と考えます(注4)。

 (注4)矢内原は、「帝国主義下の台湾」の序で、「私の最も力を注げる点は経済・・であって、他の方面は簡略に記述せるのみ」と記している(4頁)。
 
 ですから、キリスト教徒であることと、マルクス主義者であることとは矛盾するはずなのに、この二つを「両立」させた矢内原は、知的に不誠実であるとしか私には思えないのです(注5)。

 (注5)後に、戦後、矢内原の前の東大総長を勤めた南原繁(1889??1974年)は、矢内原と同じく一高で新渡戸の薫陶を受け、内村に私淑して敬虔なキリスト教徒になるが、マルクス主義的方法論とは無縁の政治学史学者で通した(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8E%9F%E7%B9%81
。10月8日アクセス)し、やはり内村に師事して敬虔なキリスト教徒となった東大の経済学史学者の大塚久雄(1907??96年)は、マルクス主義的方法論とマックス・ヴェーバー的方法論を折衷した方法論をとることで、「矛盾を止揚」した(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A1%9A%E4%B9%85%E9%9B%84。10月8日アクセス)。

 矢内原は、「科学と信仰の問題は、次元が違うのであって、その間に断層があり、飛躍がある。科学には科学の世界があり、信仰には信仰の世界がある。それは別の世界です。しかし科学を勉強することによって、信仰のなかから迷信的な要素を除くことができる。また純粋に信仰することによって、科学に高潔な精神と希望を与えることができる。そういうことで、私はこの問題は解決されると、自分で思っています。」と言って「両立」すると主張していますが、これは詭弁です。
 そもそも、マルクス主義を科学だと思いこんだこと自体が誤りですが、百歩譲って仮にマルクス主義が科学だとしても、その「科学」が無神論たる「科学」であり、下部構造(経済)が上部構造(理念)を規定するという「科学」である以上、「問題は解決され」ないはずだからです。
 (以上、事実関係は、
http://www.asahi-net.or.jp/~hw8m-mrkm/kate/00/yanaihara.life.html
(10月7日アクセス)、及び
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E5%86%85%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E9%9B%84
(10月8日アクセス)による。)

(続く)