太田述正コラム#12239(2021.9.1)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』を読む(その14)>(2021.11.24公開)

 「秀吉の伴天連追放令に対してイエズス会側は、当然のことだが強く反発した。・・・
 1590年10月14日付のヴァリニャーノからイエズス会総会長宛に出された書簡によると、コエリョは大量の火縄銃の買い入れを命じるとともに、有馬晴信や小西行長などのキリシタン大名に反秀吉連合の結成を呼びかけた、とある。
 武器・弾薬の提供を申し出たのであった。
 しかしキリシタン大名らはみな、これを拒否している。

⇒勝ち目がゼロなので拒否しただけで、勝ち目が少しでもあれば、従っていた者が出ていたことでしょう。(太田)

 一方でコエリョは、フィリピンの総督や司教に対して援軍派遣を要請した。
 200~300人のスペイン兵が来れば要塞を築いて秀吉から教会を守ることができると書き送ったのだが、フィリピン側はこれに応じていない。・・・
 <また、>1589年に使者をマカオに派遣してヴァリニャーノに兵士200人を伴って渡日するよう求め、スペイン国王やゴアのインド副王、フィリピン総督などにも援軍派遣をはたらきかけるよう要請している。・・・
 <これは、>在日イエズス会の有力神父7人が参加した1589年2月の協議会で決定されたものであり、援軍要請に反対したのはオルガンティーノだけで、あとの6人はイエズス会総会長やスペイン国王に派遣をはたらきかけるべきだという意見だった。
 そのなかには・・・フロイスも入っていた・・・。
 <なお、>フロイスは、この協議会の直前の1月にイエズス会総会長に宛てて、日本に強固な要塞を築き、200人から300人の兵士でこれを防備するようスペイン国王に要請することを求めている。・・・
 <その後の>状況をみると、バテレン追放令の内容は強烈だったが、徹底的取り締りを意図した法令ではなかった・・。
 ・・・同令は、宣教師たちに、あまり増長するなと警告する意味合いで発布されたものとみてよいだろう。
 ただ長崎はこのとき、秀吉によって没収され直轄領とされた。・・・
 1592年8月、フィリピン総督の使者としてドミニコ会士ファン・コーボ<(注21)>が来日し、朝鮮出兵の出陣基地である肥前名護屋で秀吉に謁見した。

 (注21)「<漢>語を解<した。>・・・秀吉の返書を携えて、・・・薩摩の・・・久志港を同1592年11月下旬に出帆、台湾近海で遭難。現地の住民に殺される。」
http://www8.plala.or.jp/StudiaPatristica/hist0.htm

⇒余談ですが、この折、秀吉は、彼らに「黄金の茶室」を披露(そこで接待も?)しています。
http://hizen-nagoya.jp/nou_cha_ishigaki/cha.html
 黄金の茶室は、(利休存命中に)秀吉が作らせたところの、「容易に運搬可能な組み立て式の茶室であ<り、>秀吉が関白に就任した翌年の・・・1586年・・・1月、年頭の参内で御所に運び込まれ、正親町天皇に披露された。北野大茶湯などでも披露され、・・・1592年・・・には大坂城から名護屋城に運び込まれた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E9%87%91%E3%81%AE%E8%8C%B6%E5%AE%A4
ものです。(太田)
 
 ・・・秀吉は朝鮮出兵の関連外交として、フィリピン総督<(注22)>に日本への服属を要求していた。

 (注22)ゴメス・ペレス・ダスマリニャス。1590年5月にマニラに着任<。>・・・マルーコ(モルッカ)諸島遠征に着手した・・・が、遠征航海の途上で<支那>人の漕ぎ手たちの反乱が起こり、総督は1593年10月25日に暗殺された。」
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwjZrqyvi8nyAhXjdt4KHZPsByEQFnoECBoQAQ&url=https%3A%2F%2Fkuis.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D760%26item_no%3D1%26attribute_id%3D18%26file_no%3D1&usg=AOvVaw2vftEIC6DktoHbhNW0j3K6

⇒これも余談ですが、この総督の死がらみのこんな愉快な話を発見。↓
 「1593年の瞬間移動した兵士の伝説・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/1593%E5%B9%B4%E3%81%AE%E7%9E%AC%E9%96%93%E7%A7%BB%E5%8B%95%E3%81%97%E3%81%9F%E5%85%B5%E5%A3%AB%E3%81%AE%E4%BC%9D%E8%AA%AC
 とまれ、秀吉と戦おうとした在日のイエズス会神父達といい、秀吉に恐喝されている状況下で新たな征服行動に出たフィリピン総督といい、とことん、ゲルマン系人達・・恐らくですがみんなそうでしょう、・・は、異常なまでに、戦争・冒険好きですね。(太田)

 慌てたフィリピン総督は秀吉に使者を送り、なんとか融和外交にもちこもうとしたのである。
 その使者がコーボだったのだが、フロイスによると、そのコーボと彼を案内したスペイン人のファン・デ・ソリーズが秀吉に対して、ポルトガル人の悪口を種々話したので、それを信じた秀吉はポルトガル人に怒りを抱き、長崎の修道院と教会の破壊を命じたという・・・。」(87~88、91~92)

(続く)