太田述正コラム#12241(2021.9.2)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』を読む(その15)>(2021.11.25公開)
「イエズス会はポルトガル系だとされているが、会士にはスペイン人もイタリア人もいたので、出身地によって反応の違いを生み出していた。
前に、ポルトガルとスペインが世界を二分することを確認したサラゴサ条約において、日本はちょうどその境界線上にあるということを紹介したが、両国勢力による領有権や布教権をめぐる争いがこうしたかたちで表面化してきたのであった。・・・
⇒「イエズス会はポルトガル系だとされている」という命題そのものに疑問符がつくわけですが、ここで、平川は、事実上、そうとは必ずしも言えない、ということを認めてしまっていますね。(太田)
秀吉の家臣である原田喜右衛門<(注23)>(はらだきえもん)がフィリピン総督のもとに使者として派遣されたさいに、原田は総督府で、教会破壊の原因はコーボ神父の発言が原因ではないと証言している。
(注23)?~?年。「長崎の商人で、フィリピン貿易を営んでいた。・・・
1591年・・・、部下の原田孫七郎と共に、豊臣秀吉の使者として、スペイン領フィリピンに日本国への朝貢を要求する内容の書状を持ってマニラのスペイン領フィリピンの総督ゴメス・ペレス・ダスマリニャスのもとに出向き交渉した。その答礼使としてドミニコ会派のフアン・コボが翌年来日した。喜右衛門は帰国するコボと共に、遣使としてフィリピンに渡ったが、コボが帰途台湾沖で遭難した。
・・・1593年・・・4月、原田喜右衛門は豊臣秀吉の使者として、マニラに到着した。
喜右衛門はフィリピンは防備が薄いので、秀吉の征服は容易であると進言した。しかし、・・・1592年・・・に秀吉は朝鮮出兵を開始しており、フィリピン問題には力が入らなかった。さらにフィリピン諸島との中間地点の重要性から台湾の占領も秀吉に進言し、自ら台湾征服を願い出てたが、これも秀吉に余裕がなかった。・・・
キリスト教に帰依し「パウロ」の洗礼名を持ったが、のち背教している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E5%96%9C%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80
使節が来日したときに秀吉が肥前名護屋にいたのは朝鮮出兵を指揮するためだったが、その名護屋では城郭や屋敷・倉庫の普請のために材木が不足していた。
そこで秀吉家臣の長崎代官が、イエズス会は長崎に堅牢な木材の大建築をもっていると伝えたことから解体されたのだという・・・。
そういえば、フロイスの文章にも、「すべての修道院と教会を破壊し、その材木を皆名護屋にもたらすように命令した」とある・・・。
長崎代官がなぜそのような提案をしたのかといえば、イエズス会がこの代官に賄賂を贈っていなかったからだとある。・・・
原田は、教会が破壊されたと聞いた秀吉は、これを遺憾に思って代官を譴責したと述べているが、これはフィリピン総督府向けの弁解だろう。
フロイスは、秀吉が「ポルトガル人らはまるで長崎を武力で占領したかのように、その地の支配者のごとくに振舞っている」と述べたというから、長崎貿易がポルトガル商人とイエズス会の支配下にあることに不満が昂じていたのかもしれない。
秀吉の許可なく教会の破壊が実施されたとは思われないので、これは秀吉によるイエズス会への強力な牽制だったといってよい。
しかも、秀吉はマニラ交易にも大きな関心を示していたから、イエズス会・ポルトガル商人主導の長崎貿易<(注24)>のあり方を転換させる意図があったともみられる。」(93~95)
(注24)「ポルトガルの貿易船は1550年以来平戸に来航していたが、1561年のポルトガル人殺傷事件(宮ノ前事件)をきっかけに、大村純忠より提供された横瀬浦(長崎県西海市)に移った。大村氏の内紛で横瀬浦が焼き払われると、・・・1570年に純忠は長崎を提供、翌<1571>年4月27日・・・、最初のポルトガル船が寄港した。以降、長崎は南蛮貿易の中心地として発展する。その後・・・1580年・・・、純忠は長崎港周辺をイエズス会に教会領として寄進した。・・・1588年・・・には豊臣秀吉直轄領となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B4%8E%E8%B2%BF%E6%98%93
「1561年、ポルトガル船入航にあわせ、平戸町人との売買交渉が始まったが、絹糸(または絹織物)の交渉が決裂し、両者の間に険悪な空気が生じた。町人が商品を投げつけたことを契機にポルトガル商人が殴りかかり、双方入り乱れての乱闘に発展した。見かねた武士が仲裁に入ったが、ポルトガル側は日本側への助太刀と勘違いし、船に戻って武装し、町人や武士団を襲撃した。武士団も抜刀して応戦。ポルトガル側はフェルナン・デ・ソウサ船長以下14名の死傷者を出し、平戸港を脱出した。・・・
豊後で布教活動をしていた日本教区長コスメ・デ・トーレス<(コラム#11946、11948)>は、この暴動の後に日本人への処罰が行われなかったことから、平戸での貿易を拒絶することに決めた。・・・
平戸港そばの七郎宮の露店で発生したことから、松浦党や郷土史の研究者の間で「宮ノ前事件」「宮前事件」と呼んでいる。・・・
この事件は、単なる商取引上のトラブルにとどまらず、平戸領内でのキリシタンと仏教徒の確執が表面化したものと解釈される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E3%83%8E%E5%89%8D%E4%BA%8B%E4%BB%B6
⇒「注24」に登場するトーレスも、ポルトガル人ではなく、スペイン人であり、司祭の時にザビエルと出会い、その後、ゴアでイエズス会に入会し、ザビエルに同道して1549年に日本に渡来しています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%B9%E3%83%A1%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%82%B9 (太田)
(続く)