太田述正コラム#12249(2021.9.6)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』を読む(その19)>(2021.11.29公開)

 「なお、秀吉の朝鮮出兵をスペイン国王フェリペ2世との対抗関係でとらえる視点は、速水融(はやみあきら)氏(・・・1985)<(注29)>や入江隆則(たかのり)氏(・・・1998)<(注30)>が先鞭をつけていた。

 (注29)「徳川日本成立の世界史–フェリペ2世と豊臣秀吉(三田学会雑誌 77(6), p753-775, 1985-02)」
https://ci.nii.ac.jp/naid/120005354201
 (注30)「「秀吉はなぜ朝鮮に出兵したか」(西尾幹二編『地球日本史2』(産経新聞社)」
https://books.google.co.jp/books?id=_aqIb956K5sC&pg=PA206&lpg=PA206&dq=%E5%85%A5%E6%B1%9F%E9%9A%86%E5%89%87+%E7%A7%80%E5%90%89&source=bl&ots=MOVXbK-wpD&sig=ACfU3U1ZJAUXk_GeJViTYeB0cRD9xsimwQ&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwidiM6x0NXyAhXFFogKHS4KA0cQ6AF6BAgYEAM#v=onepage&q=%E5%85%A5%E6%B1%9F%E9%9A%86%E5%89%87%20%E7%A7%80%E5%90%89&f=false
 「スペインは明を征服しようとしたが、その兵を日本から調達しようとした。その手段がキリスト教布教だった。スペインは日本と同盟を考えたが、思惑の違いにより破綻。秀吉は明が単独でスペインに征服されれば、後に必ず日本にやってくると考え、日本でのキリスト教布教を禁止し、朝鮮出兵して先手を打った」
https://www.hmv.co.jp/artist_%E8%A5%BF%E5%B0%BE%E5%B9%B9%E4%BA%8C_000000000256687/item_%E5%9C%B0%E7%90%83%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2-1-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%A8%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%91%E3%81%AE%E5%90%8C%E6%99%82%E5%8B%83%E8%88%88-%E6%89%B6%E6%A1%91%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB_3079111

 秀吉の動きを東アジア史から解放し、世界史とリンクさせた仕事として注目しておきたい。・・・

⇒私が、多業種大勉強会の「講演」会でこの説を聞いたのは、速水が、この説の先鞭をつけた直後の頃だった勘定になります。
 (文部官僚の同僚講師は自分の説のように語っていましたが・・)
 今にして思えば、どうして、これらの説を唱えた人々が、信長のことを看過したのか、不思議でなりませんし、どうして日本以外の東アジア諸国で秀吉のような問題意識を持った権力者が出現しなかったのか、他方、果して日本の諸権力者等で(信長や)秀吉以外に同様の問題意識を持った者がいなかったのか、それにしても(信長や)秀吉(等?)、といったごく少数の権力者だけがどうしてこのような問題意識を持つに至ったのか、を、これまで誰も追究しようとしなかったこともまた不思議ですね。(太田)

 「秀吉が没した直後の1598年・・・に家康は、堺商人の五郎右衛門をマニラに送り、翌年には堺のキリシタン商人の伊丹宗味、翌々年には滞日中のフランシスコ会宣教師のジェロニモ・デ・ジェズスを、それぞれ使者として派遣して、スペイン船の関東入港を促した。
 この動きは、いかに家康がマニラ交易を望んでいたかを示すものである。・・・
 ここで注意しておきたいのは、家康の貿易構想には、マニラだけではなく、メキシコも視野に入っていることである。
 このことは、のちにみる伊達政宗による慶長遣欧使節の派遣とも関係する。
 家康は、ポルトガルやスペインに遅れてやってきたオランダやイギリスとの関係も積極的に模索した。
 1600年・・・、オランダ船リーフデ号が豊後の沿岸に漂着したことを知ると、家康はすぐに使者を現地に派遣して船長のヤコブ・クワッケルナックや乗組員を保護した。
 クワッケルナックはその後1605年・・・に、通商を求めるオランダ総督宛の家康親書を携えて離日した。
 これに応えて1609年・・・、オランダ東インド会社の船が入港し、平戸にオランダ商館が設置された。・・・
 なお、加藤栄一<(注31)>氏の研究によると、オランダ平戸商館の1615年の輸入額の28%、輸出額の13%はポルトガル船からの捕獲品だという。

 (注31)1932年~。埼玉大文理学部卒、東大院国史学科博士課程中退、同大史料編纂所助手、助教授、教授、新潟産業大教授、人文学部長、東大博士(文学)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%A0%84%E4%B8%80_(%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%AD%A6%E8%80%85)

 1617年に平戸から出帆したオランダ船の積み荷の88%は中国船等からの捕獲品であり、日本調達は12%にすぎない。・・・
 オランダは洋上で略奪した物資を平戸へ搬入して日本へ売り込み、また東南アジアへも転送して巨利をあげていたのだった。
 ただこれはオランダだけの行為ではない。
 ポルトガル船やスペイン船も、同様にオランダ船やイギリス船を襲撃していた。
 それがために、1620年、オランダとイギリスは平戸で両国の防禦同盟を締結した。
 だがこれを機に両国は、スペイン・ポルトガル・中国船への攻撃をさらに激化させたともいう。
 アジアの海は海賊の跋扈する世界だった。
 徳川家康は、積極的な貿易政策を展開したが、キリスト教に対しては、1602年・・・にフィリピン総督宛の家康親書で、・・・布教禁止を通知している。・・・
 在日司教セルケイラがマニラのイエズス会に宛てた書簡(1602年10月22日付<(新暦)>)には、・・・家康は秀吉と同様に、スペイン人が日本を侵略するのではないかと危険視している、と<ある。>・・・。・・・」(120、123~126)

(続く)