太田述正コラム#12253(2021.9.8)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』を読む(その21)>(2021.12.1公開)

 「ビベロ・・・はこう述べている。
  「武力による侵入の困難なること、真に確実なりとすれば、我らの主なる神の開き給える聖福音宣伝の途により、彼らをして陛下に仕うることを喜ぶに至らしむるほか、選ぶべき途なし・・・
  基督教を弘布し、キリシタンの数増加するに至らば、現皇帝(家康)および他の皇帝(秀忠)死したる時は、新王は彼らを苦しむべきこと明らかなる者の中より選ぶことなく、陛下(スペイン国王)を挙ぐべしと考えられる」と・・・。・・・
 「1610年・・・6月・・・、浦賀を出版したサン・ヴェナベントゥーラ号には、帰国するビベロと幕府の使者フライ・アロンソ・ムニョス<(注34)>、それに田中勝介<(注35)>ほか22人の日本人が同乗した。・・・

 (注34)「フランシスコ会の新しい日本管区長」
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/232933/1/asia16_117.pdf
 (注35)?~?年。「京都の貿易商人。歴史上初めてアメリカ大陸に渡り、また太平洋を横断・往復した日本人とされる。・・・ヌエバ・エスパーニャ(ノビスパン、現在のメキシコ)のアカプルコへ向かい同年11月13日<(新暦。以下同じ)>に到着した。・・・帰国にあたって、勝介はヌエバ・エスパーニャ副王ルイス・デ・ベラスコにより派遣された答礼使セバスティアン・ビスカイノとともに1611年3月22日にアカプルコを発ち、同年6月10日相模国浦賀・・・に到着した。ビスカイノは、エスパーニャ国王フェリペ3世の親書を携えて答礼使と金銀島探索の使命を帯びて来日しており、現在の全権大使にあたるとされる。ビスカイノによれば、勝助は洗礼を受け、洗礼名をフランシスコ・デ・ベラスコといい、太平洋渡海中は善良な態度で周囲の尊敬を集めていたという。なお、このとき、使節団のうち、アロンソ・ムニョス神父は家康の使節としてエスパーニャ本国に向かい、3名はヌエバ・エスパーニャに残り、帰朝したのは勝介ほか17名とされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%8B%9D%E4%BB%8B

 沿岸調査の許可を得たビスカイノ<(「注35」参照)(注36)>は、すぐに北上して同年11月仙台に入った。

 (注36)セバスティアン・ビスカイノ(Sebastián Vizcaíno。1548~1624年)。「スペインのウエルバに生まれる。1580年から1583年にはポルトガル鎮定戦争に参加し、のちヌエバ・エスパーニャに渡る。1586年から1589年までは・・・貿易商人としてフィリピンとヌエバ・エスパーニャの間を往復し<、その後、>・・・1601年、ヌエバ・エスパーニャ副王・・・は、ビスカイノを・・・探検の長<の一人>に任命した。・・・
 <更に、>ヌエバ・エスパーニャ副王・・・により<日本に>派遣され・・・た。なおこの人選は、<欧州>の鉱山技術に興味があった徳川家康の要請に沿ったもので、同時にヌエバ・エスパーニャ側にも日本の金や銀に興味があったことによるとされ、日本近海にあると言われていた「金銀島」の調査も兼ねていた。
 3月22日にヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)のアカプルコを発ち、6月10日浦賀に入港、6月22日に江戸城で徳川秀忠に謁見し、8月27日に駿府城で家康に謁見する。しかし第一に通商を望んでいた日本側に対し、ヌエバ・エスパーニャ側の前提条件はキリスト教の布教であり、友好については合意したものの、具体的な合意は得られなかった。
 家康から日本沿岸の測量についての許可の朱印状は得られ<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%90%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%93%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%8E

 伊達政宗に謁見したあと、伊達領沿岸の測量に出向いている。
 いくつもの良港を発見してビスカイノは江戸にもどったが、さらに東海道を西に進んで京都や堺を視察。
 測量図を家康と秀忠に献上するために、駿河に1612年7月に到着した。
 だが家康は面会を許さなかった。
 それどころか、すでに京都や九州の有馬領と大村領の教会の破壊を命じていた。
 家康に態度の急変をもたらしたのは、同年に露見した岡本大八事件<(注37)>によるとされることが多い。・・・」(138~139、143、153)

 (注37)岡本大八(?~1612年)は、「江戸の与力である岡本八郎左衛門の子として生まれる。キリシタンでもあり、洗礼名はパウロという。
 はじめ長崎奉行の長谷川藤広に仕えたが、やがて本多正純の家臣となった。・・・1609年・・・、<同じくキリシタンの>有馬晴信が長崎港外において・・・ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号・・・を攻撃したとき・・・、晴信の監視役を務めた。ところが大八は、この事件の際の恩賞を徳川家康に斡旋すると偽って多額の賄賂を晴信から受け取った。しかし、いつまでたっても恩賞の沙汰が無いことにしびれを切らした晴信が正純と直談判したために詐欺行為が発覚。・・・1612年・・・に晴信と直接対決が行なわれ、3月21日に駿府市中を引き回しの上、安倍川の河原で火あぶりの刑に処された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E6%9C%AC%E5%A4%A7%E5%85%AB
 「1608年11月30日・・・に肥前日野江藩主の有馬晴信が占城(チャンパ)に派遣した朱印船がマカオに越冬寄港中に、日本人船員が取引をめぐって騒擾事件を起こし、それをマカオのカピタン・モール(Capitão Mor、総司令官)であったアンドレ・ペソア(André Pessoa)が鎮圧し、このために日本人側に多数の死者が出た・・・。
 1609年6月29日・・・、ペソアが・・・長崎に来着した。・・・
 駿府からペソアに召喚の命が伝えられたが、身の危険を感じたペソアは要請を拒否して船に籠もり、積荷を載せたまま出港の準備を始めた。
 長崎に到着した晴信は、・・・1610年1月6日・・・に、・・・長崎奉行の長谷川・・・藤広・・・の支援を得て兵船30艘と1,200人の兵を動員し、ダ・グラサ号を攻撃。・・・1月9日・・・、4日4晩の戦闘の末に船は炎上し、ペソアは火薬庫に火を放つよう命じ船を爆破させて自沈した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%82%B5%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%83%8B%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%B5%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 長谷川藤広(1567~1617年)は、「父は伊勢北畠家の旧臣であった長谷川藤直。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E9%9B%B2%E9%99%A2_(%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E5%81%B4%E5%AE%A4)
 その「妹に夏(清雲院。徳川家康側室)がいる。・・・家康に命じられた香木の伽羅の買付をめぐって有馬晴信と不仲となり、不倶戴天の敵というほどになっていた・・・。これが岡本大八事件の際、晴信が長崎奉行・長谷川藤広の暗殺を企てたという岡本大八の告発の一因となった。晴信の処刑後、藤広は所領を継いだ<晴信の>息子の有馬直純の後見人となり、同時にその目付として有馬氏の所領でのキリスト教弾圧を推進した。やがて有馬の地を長崎の管内への併合を家康に働きかけ、これにより直純は・・・1614年・・・、日向延岡に転封、有馬の地は天領とされた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E8%97%A4%E5%BA%83

⇒信長や秀吉のような、日蓮主義といった確乎たる世界観を持ち合わせていなかったと私が見ている家康は、だからこそ、対キリシタン政策に一貫性がなかったのだと思っています。
 それにしても、岡本大八事件のようなくだらない犯罪事件を契機に家康が対キリシタン政策を180度転換したらしいことには、いささか呆れると同時に首をひねっています。(太田)

(続く)