太田述正コラム#12259(2021.9.11)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』を読む(その24)>(2021.12.4公開)
「支倉常長がマニラから長崎を経て仙台に帰着したのは1620年9月20日頃のことである。
仙台領で活動していた宣教師のアンジェリス<(注44)>によると、は支倉帰着後、わずか2日にして禁教令の高札が領内に掲示されたという。
(注44)Girolamo de Angelis(1568~1623年)。「シチリア島出身。1586年イエズス会に入り,・・・1602・・・年司祭として来日,翌年伏見の住院に赴任。<1611>年駿府(静岡市)に布教所を設置。キリシタン禁令後の同20年,後藤寿庵の招きで奥州見分(岩手県水沢市)に赴き津軽の流刑キリシタンを慰問。・・・1618・・・年蝦夷松前に渡り・・・ヨーロッパ人として・・・初めて蝦夷島について報告,同<1621>年再渡航して松前・千軒岳の金山にキリシタンを訪ね,管区長パシェコの求めにより13項目からなる蝦夷地報告と地図一葉を作成,この報告書はヨーロッパ各国で翻訳された。同年末江戸布教に転じ,2年後フランシスコ会のガルベス神父らと江戸札ノ辻で・・・火刑による殉教を遂げ、1867年福者(聖人の次位者の称号)に列せられた。」
https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%82%B9-1051661
幕府の禁教令<(注45)>が出されているなかで、仙台領は支倉の帰国まで禁教令が布達されていなかった。
(注45)「1612年に・・・家康は・・・諸大名と幕臣へのキリスト教の禁止を通達」、と私は書いたところだが、正確には、「1612年4月21日・・・江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対して教会の破壊と布教の禁止を命じた禁教令を布告する。これ自体はあくまで幕府直轄地に対するものであったが、諸大名についても「国々御法度」として受け止め、同様の施策を行った。・・・
布告された教会の破壊と布教の禁止以外にも、<幕府>家臣団の中にいるキリスト教徒の捜査が行われ、該当した者は場合によって改易処分に付されるなど厳しい処置が取られた。特に旗本だった原胤信は、出奔後も信仰を続けたために家康の怒りを買い、最期は処刑されている。
その後、一連の処置を総括した「条々」が同年8月6日に出され、1612年の禁教令は一段落する。また同年5月、岡本大八事件で改易された最後のキリシタン大名・有馬晴信が切腹に処されたため、キリシタン大名は完全に姿を消した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E6%95%99%E4%BB%A4
「胤信は・・・棄教・・・を拒んで岩槻藩に住む親族の元に出奔して現地で秘かに布教を続けた。しかし、・・・1614年・・・に藩主高力忠房によって捕らえられて棄教を迫られるものの、胤信はこれを拒んだため、激怒した家康の命によって額に十字の烙印を押され、手足の指全てを切断、足の筋を切られた上で・・・1615年・・・に追放された。
[その翌年の1616年に家康が死去する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7 ]
胤信はその後も布教活動を続け、江戸・浅草のハンセン病患者の家を拠点とするが、後に密告によって捕らえられ、・・・1623年・・・に宣教師ら47名とともに江戸市中引回しの上、高輪の辻の札(高札場)にて火刑に処された。死の直前に「私がここまで苦難に耐えてきたのは、キリストの真理を証明するためであり、私の切られた手足がその証である」と述べたと伝えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E8%83%A4%E4%BF%A1
⇒火刑を厭わないというのは、(胤信に限らず、)狂気の沙汰としか言いようがありませんが、アンジェリスが列福されているのに、胤信が列福されていないのは、不公平感が否めません。(太田)
幕府容認で支倉使節を送り出した以上、幕府も支倉の交渉結果を待っていたとみてよいだろう。
だが支倉が帰国して貿易交渉に失敗したことが判明すると、政宗はすぐに禁教令を発布した。・・・
支倉を派遣したあと、1615年の大坂の陣で徳川幕府は、ついに宿敵の豊臣家を滅ぼすことができた。
徳川政権の安定に障害となる要素の除去が着々と進行していったが、じつは伊達政宗も、その不安要素とされていた。
なぜなら、徳川政権が明白に打ち出した禁教姿勢に対して、政宗は容教姿勢をみせていたからである。
しかも幕府がオランダ・イギリスとの関係を重視しようとしているのに対して、政宗はスペイン重視の姿勢を取り続けている。
つまり、政宗は幕府の方針には必ずしも従わない存在だということになる。・・・
豊臣家と対抗するために家康は政宗と手を組んだ。
それが政宗の言い分を認めた遣欧使節の派遣へとつながった。
実際、大阪の陣で政宗は徳川方として戦った。
豊臣家が滅亡すると、徳川将軍家の権力基盤はさらに固まった。
もはや伊達政宗に配慮も遠慮もいらない力関係になったといってよい。・・・
1616年2月27日・・・、江戸にいた豊前国小倉藩主細川忠興は、国元の息子忠利(ただとし)に・・・政宗について審議不明の種々の噂が出ているので、内々に出陣の用意をするようにという指示<をしてい>る。・・・
<また、>1616年3月23日・・・、毛利輝元が江戸の家臣に宛てた書状の一節で・・・将軍が奥州表(政宗)に対して出陣するという風聞がある、としている。・・・
<更に、>イギリス商館長リチャード・コックス<(注46)>の日記1616年2月29日・・・条にも・・・家康と松平忠輝<(注47)>とのあいだに戦争が起きそうだ、と・・・平戸にいるコックスが、京都に滞在中の同僚イーストンに伝えた<旨の記述がある。>・・・
(注46)Richard Cocks(1566~1624年)。「1613年・・・、コックスは東インド会社によって日本に派遣される。江戸幕府の大御所・徳川家康の外交顧問であったイングランド人のウィリアム・アダムス(三浦按針)の仲介によって家康に謁見して貿易の許可を得て、平戸に商館を建てて初代の商館長に就任した。・・・
1623年・・・のアンボン虐殺事件を機にイギリス商館の閉鎖が決まったため日本を出国、翌年帰国の船中で病死した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9
(注47)1592~1683年。「徳川家康の六男(庶子)として誕生した。・・・1598年・・・、伊達政宗の娘と縁組を行う。・・・1606年・・・11月24日、・・・縁組した政宗の長女・五郎八姫と結婚した。・・・
1614年・・・の大坂冬の陣では江戸の留守居役を命じられる。剛毅な忠輝には不満が残る命令であり、なかなか高田城を出発しなかったが、岳父の伊達政宗の促しもあり、結局これに従った。・・・1615年・・・の大坂夏の陣で<は>大坂に出陣した。伊達政宗の後援の下に大和口の総督を命じられたが、遅参により軍功を挙げることはできなかった。同年8月、家康は忠輝に対し今後の対面を禁じる旨を伝える使者を送った。・・・
1616年・・・7月6日、忠輝は兄・秀忠から改易を命じられ<る。>・・・
忠輝は次兄の結城秀康と同じように、父親から生涯を通じて嫌われたとする資料は、江戸中期以降の史書に確認でき、その理由として・・・<その>松平信康<に似た>・・・容貌を嫌ったという記録が多い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E8%BC%9D
⇒ここからは、家康と秀忠の心の狭さが見て取れます。(太田)
世間では、「忠輝と家康」との戦争、または「忠輝+政宗」と「家康」とのあいだの戦争が起こるかもしれない、といった情報が流布していたのである。・・・」(185、199、202~205)
(続く)