太田述正コラム#12261(2021.9.12)
<平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』を読む(その25)>(2021.12.5公開)

 「「木村宇右衛門覚書」<(注47)>によると、忠輝は、家康が病に斃れたのを幸いに政宗が天下を奪おうとしている、といったとある。

 (注47)「伊達政宗が晩年に小姓の木村宇右衛門に語った言行録・・・。藩主としての心得、武将としての戦いの日々、家族・家臣への思いやり、一日の生活ぶり等あまり知られていなかった政宗の日常を今に伝える。」
https://honto.jp/netstore/pd-book_01452665.html

 とすれば政宗の野望を讒訴したのは、<1616>年2月のことになる。・・・
 <自身の>大坂の陣遅参の不始末・・・に関する弁明がたび重なるなかで政宗のことが讒言されだしたということかもしれない。・・・
 忠輝の言動に端を発した一件を巧みに利用して、家康はまず忠輝を排除して徳川家の内紛の要素を摘み取った。
 さらに讒言を口実に、改めて政宗に徳川家への忠誠を誓わせることに成功した。
 政宗はみごとに封じ込められたといってよい。<(注48)>・・・」(222、224~225)

 (注48)五郎八姫(1594~1661年)は、「1616年・・・、忠輝が改易されると離縁され、父の政宗のもとに戻り、以後は仙台で暮らし、仙台城本丸西館に住んだ<。>・・・生母の愛姫が(一時期)キリシタンだったことから、五郎八姫もキリシタンだったと言われている。彼女が忠輝と離婚した時は20歳代前半の若さであり、父政宗や母愛姫は愛娘の五郎八姫を心配し再婚を持ちかけたが、五郎八姫は断り続けていたといわれている。両親や周囲にいくら勧められても終生再婚しなかったのは、教義上「離婚」を認めないキリシタンの信仰ゆえ、とも考えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E9%83%8E%E5%85%AB%E5%A7%AB
 「離縁させられ<た>・・・五郎八姫は江戸の仙台屋敷へ戻された<が、>この時妊娠が発覚、幕府の知るところとなればこの子の命は無い<ので、>政宗は幕府にはばかり秘密裏に出産させ、生まれた男児はすぐに出家させ<、>五郎八姫は政宗の勧めで江戸を離れ、単身仙台で暮らすことになる。・・・<こ>の子の名は「黄河幽清-こうがゆうせい」、のちに松島天麟院(五郎八姫菩提寺)の2世住職となる。」
https://matipura.com/history-2/55728
 「幽清が仙台へ連れてこられたとして、どこへ匿われたか。<現在は仙台市泉区の一部である>伊達家の隠れ里根白石
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B9%E7%99%BD%E7%9F%B3 >
としか考えられません。・・・息子の幽清が根白石にいたとしたら、当然通うでしょう。
 五郎八姫と二代忠宗(弟)は仲が良かったとされ、ふたりはちょくちょく根白石の福沢御殿に泊りがけで行っていた、という文献が、ここで繋がってきます。・・・
 <また、現在は仙台市青葉区の一部である>愛子・栗生地区
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E6%84%9B%E5%AD%90%E6%9D%91 >
には隠れキリシタンの言い伝えがあり、姫から拝領したという着物を代々家宝にしているお宅もあります。
 <かつまた、現在、仙台城の>西舘の真北に、閑静な住宅街の中にポツンと鬼子母神堂があります。いろは姫が建てたお堂ですが、中には右手にざくろ、左手に赤ちゃんを持った20cmほどの鬼子母神の木像が祀られています。
 この地区では8/15(マリア様が昇天した日)に、「盗人神(ぬすっとがみ)」また「唖神(おっつがみ)-おし」という奇祭が行われています。
 ”限られた家”の主が袴姿で、藁で作った12膳の箸と食事を盛ったお膳を持って、このお堂を参詣するというもので、祭りの間中、絶対に口をきいてはならぬ、途中人に見つかってはならぬ、音をたててはならぬという、まるで自分たちの存在をかき消すかのような信仰なのです。
 鬼子母神堂の近くに薬師堂がありますが、この中には「ろうそく食い」と呼ばれる木像が祭られています。
 顎部分に十字のマークが刻まれており、それを隠すためにろうをたらして見えなくしたとされます。
 他にもこの一帯には、マリア観音が祀られた寺もあり、キリシタンの痕跡が多く見られます。」
https://matipura.com/history-2/55890/

⇒私は、1999年から2001年にかけて、仙台に勤務しましたが、愛姫が一時キリシタンだったとか、五郎八姫がキリシタンだったとか、彼女に忠輝との間の息子がいたとか、全く知る機会がありませんでした。
 それにしても、この時代に、奥州にまで、キリスト教がこれほど浸透していたとは、慄然とせざるをえません。
 なお、蛇足ながら、家康の73歳での死因は胃癌説が主流、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7 前掲
政宗の68歳での「死因は食道癌(食道噴門癌)と癌性腹膜炎の合併症と断定されている」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E6%94%BF%E5%AE%97 前掲
とされており、この二人の長生き度の差は、家康が薬作りが趣味であったこと、政宗が煙草を毎日吸っていたこと(それぞれのウィキペディア)、の差、といったところでしょうか。(太田)

(続く)